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執狼記 3-2

※動物虐待の描写があります。ご注意ください。

 ……私は壁際に、窓枠の下に背中を預けて座りながら、隣で話し込むYに声に耳を傾けます。もうじき夕暮れになるから、寂しくなったんだろう。あんまり叩かないでやってくれ――。素晴らしい言い逃れでした。滑車みたいに口を回しつつ着衣の乱れを直す仕草も様になっていて、何だか本当の芝居を観ているようでした。

 それからいくらかの用事を、駆けつけた使用人たちに言いつけてから彼は窓を閉じました。途端、部屋の中に沈黙が降りました。それはたとえるなら打ち棄てられた教会とよく似た静けさでした。
 ほとんど完全に近い静寂が室内を支配しているためか、3匹の生き物が同じ場所にいるにしては、あまりにも生気が駆けているように思われました。小さいテーブルと戸棚だけがある簡素な内装が、さらに味気ない印象を深めています。今この場で一番鮮烈なのは得体のしれない臭いと、カリストの放つ荒い吐息だけでした。

 狼――カリストは、ぐったりと体を横にしたまま動かないでいました。こちらに背を向けているので、そのときのカリストがどんな顔つきをしていたのかは私にはわかりません。しかし仇敵相手に自身の身体を無防備に投げ出す様を見ていると、喉元や胸の奥がじわじわと熱を持ち始め、自然と涙が零れ出てきました。以前なら縦横無尽に躍動していたはずのしなやかな肢体が、今では白い敷物の上でしどけなく伸びているのが、なおさら物悲しさを掻き立てました。私がかつて見た、完璧な生き物はこの世界から決定的に失われてしまったのだと。

 そして何より私を打ちのめしたのは眼前の狼がこのような仕打ちを受けざるを得なかったのは、確実に自分のせいだという事実でした。

「死にはしませんよね?」私は若君に問いかけました。
「せっかく手に入れたのに、どうして殺す必要がある」
「以前には、死んでもかまないと」
「あれは一種の妥協点だ。取り逃がすよりかは、殺す方がましというくらいの。それにすでに場面は変わっている。僕はもうカリストを殺さない。カリストがここで、生きている限りは」
「そして弄ぶんですか。生きているあいだ、ずっと」

 私はそう訊ねましたが、これにYが答えることはありませんでした。ただ窓枠に両手をかけたまま、じっと俯いて身動ぎすらしません。私も彼が話し始めるのを待っていました。そのために室内は再び深刻な静寂に包まれ始めます。カリストがうめき声をあげたのは、ちょうどそんなときでした。

 まるで悪夢から覚める前を思いこさせる、這うような低い声を聞いた途端、Yはおもむろに窓枠から手を離してふらりと歩き出します。……その行先には戸棚があり、彼はその上の方にある両開きの扉を開いて平べったい、煙草入れより二回りほど大きいケースを取り出しました。彼が箱の蓋に手をかけたとき、中身がちらりとうかがえました。入っていたのは注射器と針、そしてあの小さい薬瓶でした。

「僕がこれを弄んでいるように、お前には見えたのか」

 なら、しかたないな。そう口にしながら彼は注射器を組み立てていきます。慣れているのがわかる、無駄のない手つきでした。そうして器具が完成すると、彼は薬瓶の首を親指で弾いて割りました。

「しかたない?」
「お前を怒らせてしまってもしかたないということだ」

 そうして横たわっているカリストのところまで歩み寄ると、傍に屈み込んで艶やかな毛皮を優しく一撫でしました。ついで、注射針をカリストに深く突き刺しました。
 瞬間カリストはぴくり、と身を震わせます。しかし、それきりでした。Yを振り払うことはおろか、抗議のために吠えたてることさえしません。何から何までされるがままでした。

「僕はこの狼を慰み者にしているつもりはない」
 注射器の頭を押しながら若君が言います。
「ただ、カリストにわからせてやりたいだけさ。自分の毛並みがどれほど心地よく、手触りが良いのか。自分の体がどれだけ美しく、人を楽しませるのか。そして自分の姿や声がどれくらい罪深いものなのか。それをカリストが本当に理解したとき、僕たちは真実ひとつになれる」

 薬剤を注入し終え、針を抜きました。そうして用済みになった器具をテーブルの上に片付けてしまうと、若君はカリストにもたれかかり、毛皮に顔を埋めて頬すりをします。まるで体温や気配を相手に染み込ませているように、幾度もいくども。
 お前もやってみるか? 降ってわいてきた問いに、私は激しく首を横に振りました。Yが声をあげて笑います。今まで目にしてきたしとやかな微笑ではなく、青年らしい快活な笑いでした。
 ひとしきり笑い終えると嘘だよ、と彼は言いました。ついで、こうも続けます。させるわけないだろう、せっかく独りじめにしたのに。

「もう、私におかしなことをさせないでください」
「それは僕が、変なことをしているということか?」

 投げかけられた詰問に対し、私は答えることはできませんでした。涙がとうとうと絶え間なく伝っていることもあります。しかし一番には自分の考えを具体的に言葉にすること、それによって起こるはずの出来事が怖かったのです。

「お前は自分だけがまともで、僕は違うと思っているだろう。でも、それは大きな、大きな間違いだ」
「確かに、僕たちの関係は他人の目には奇異に映るに違いない。けれども、これだけは言わせてくれ。僕が今まで――たとえ上辺だけでも――正気でいたのは、お前たちがそれで当たり前に思っていたからだ。そうでなければ何もかも立ちいかないと、打算含みで判断していたからだ。そしてこれから先も誰もかれもが、僕をまともな神経と運営能力を持つ人間として扱うだろう。冬の真夜中に暖かい毛布にくるまろうとするみたいに」

 そこでわずかに口を噤んだあと、こんな風に彼は言い締めます。僕だってこんな柔らかいものがほしい、と。それに対して、私は声を上げることは出来ませんでした。私が知る限りのどんな言葉もYにとっては何ら意味を持たず、彼の世界に許容される余地がないのを直感的に理解したからです。唯一、私が彼に関する物事で参入を許されたのは嗚咽のみでした。
 私がひたすら涙を流しているあいだ、ずっと若君は乱れた息を整えていました。そしてほのかに赤く色づいた頬が、もとの白さを取り戻したころに、ようやく彼は口を開きます。さあ、もうお帰り。僕らは少し疲れてしまった――。

 その後のことは、あまり覚えていません。きっと正式な客のように表玄関を出て門を抜け、普通に坂を歩いて下ってきたのでしょう。気がつくと暗くなった空には丸い月が昇り、私はいつのまにか森番小屋の前に戻ってきていました。

 どこか虚ろな心持のまま扉を開きますと、頼りない日の名残りが差し込むばかりの薄闇の中で、祖父が何事かをぶつぶつと呟いているのが耳に届きました。蚊が鳴くらいの小さな声です。
 そっと近づいて覗き込むと彼は分厚い本を広げていて、文面を読み上げているようでした。何だろうと思って彼の声をじっと聞き続けていると、断片的にだが内容が徐々に明らかになってきます。
 ――……そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人の乙女がそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。……――マタイ伝に出てくるたとえばなしです。(『御主人様、御主人様、開けてください』『はっきり言っておく。私はお前たちを知らない
「物事が一つの方向に進んでいると気づいたとき、後の流れというのはすでに決められているもんだ。水が上から下に移るようにな」

 そしてもう引き返すことは出来ないのだ、といつのまにか聖書からこちらに視線を移して祖父は言います。

「それでも戻りたい、帰りたいときにはどうすればいい?」
「どうにもならん。お前は一度潰した蠅を元に戻せるのか」

 私はどうしようもない気持ちになって祖父にすべてを、あらいざらい告白しました。1年前に狼と出会ったときのことや、若君から自分に与えられた任務。薬を与えられた山羊を食べた狼たち。壊滅させられた狼の群れ。そして虜になった哀れなカリストのありさま。以上のことを隠すことなく、何から何まで。語られているこれらのことを、年老いた男は怒るでも悲しむでもなく、厳しい顔つきで黙って聞いていました。

 そうして私が話し終えると、彼はしばし思案したのちにこう口火を切りました。

「わしがお前に言えることは、そう多くはない。安全なところに引き返せる地点はいくつも通り過ぎてしまって、進むべき道はもはや絞られているからだ。しかし、一つだけはっきりと断言できことがある」
 その狼を放してやれ――……。その言葉がじん、と私の耳に入り込んできました。ついで彼は続けます。
「捕らえられた獣に本当に憐れみを寄せているなら、お前はお前がかわいそうに思っている狼を、何が何でも自由にするべきなのだ。そしてそれはたとえお仕置きを受けようが、縛り首になろうが死に物狂いでやり遂げられねばならん」

 このように口にしながら祖父は壁に掛かっている猟銃を指し示しました。磨かれた銃身が月明かりに照らされて、鈍く光を宿しています。いささかの間を置いて私がそれを(たとえおっかなびっくりな、みっともない仕草でも)手に取ると、祖父はこのとき初めて笑みを浮かべたのでした。

 そしてやにわに立ち上がるとベッドの方に向い、下から大小いくつもの瓶を取り出しました。瓶の中にはどれも干し草や乾燥花がみっちり詰まっていて、彼はそこからそれぞれ適当な量の中身を出して、糸で束ね始めます。まもなくセージやローズマリー、ラベンダーなどで編んだ小さな花束が出来上がり、これを彼は私の胸元に押しつけます。

「解毒剤だ。狼に食わせれば、正気に戻るだろう。少なくとも自分が何をされているか、自分に悪さをしているのが誰なのかがすぐにわかるようになるはずだ。ただ、それはお前も罰するかもしらんが」
「かまわない」相手の問いかけに、そう私は答えました。それだけの権利をあの獣が持っているのは、揺るぎのない事実でしたから。

 夜が更けるのを待ちながら、目的に必要なる諸々の用意をしました。夜闇に溶け込むほどの黒色のコートを取り出し、その内ポケットに収まるくらいの小さなガラス瓶を用意し、ゲートルを巻き、銃をいつでも撃てるようにして整える。それらをすべてこなしてしまうと私と祖父は降誕祭まで取っておくはずの白いパンを食べ、ワインを開けて一口含みます。そうして小屋を出て月明かりが降り注ぐ坂道を駆けあがり、再び屋敷の門前まで来ました。

*『マタイによる福音書』25章1節~13節。聖書からの引用は新共同訳によった。
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