執狼記 4-1
*動物虐待の描写があります。ご注意ください。
屋敷の正門は昼間とは違い、今度はちゃんと閂が降りています。ですから中に入るには呼び鈴を鳴らして、内側から家人を呼び出さねばなりません。実際、私はそうしました。もちろん死角になっている路傍に銃を隠して。すると従卒が、すぐに顔を出しました。
まもなく私は疾風のように使用人に飛び掛かり、組み伏せます。ついで隠してあった銃を掴みとって、銃床で2、3発相手の頭にぶち込みました。殴打し続けるあいだ使用人はうめき声をあげていましたけれど、もう少しすると意識を失いました。そこにさらに猿轡をさせて、手足を縛りつけておきます。ついで猟銃を背負い直し、屋敷の敷地に侵入したのでした。
述べるまでもない事実ですが私が自在に動ける時間は限られており、成し遂げるべき物事は手際よく着実にこなさなければなりません。そのための目下の障害はあの猟犬です。
忠誠心溢れるかの犬ならばならず者の不穏な気配には、すぐに気づくでしょう。またつい最近に勢いよく頭を岩にぶつけたせいか、神経質になっているというのだからなおさらです。そして予想通り、犬は私の存在に勘づいたようでした。
突如として現れた侵入者を前にして、猟犬は低く唸り声をあげていました。とはいえ、まだ様子見の段階なのでしょう。今すぐに、どうこうしようなどの雰囲気は感じられません。確実に間合いを取りながら、私の動向を注視しています。
同様に私も何もしないで、ただ立ち尽くしていました。銃を構えるどころか、背中から降ろしもしないで。そうして猟犬がこちらに躍りかかるのを、ひたすら待ち受けていました。
私たちはずいぶんな時間(とはいっても私の主観に過ぎませんが)、睨み合う格好になりました。悪いことが起こらないかわりに、良いことも起こらない。天国に行かないかわりに、地獄にも行くことはない。そのような固定された、閉じられた時間です。けれども、けして無益な時間ではありませんでした。
私たちが膠着状態に陥って、どれくらい経ったでしょう。ある瞬間。意をけっして、私がコートのポケットに手を入れたときです。ついに……犬が一歩、前に踏み込みました。
相手がこちらへ近づくには、少なくとも5歩以上は必要になるのは目測だけでもわかりました。また眼前の犬はやはり利口です。大きな身をかぎりなく縮めて、次の刹那にバネのように力強く跳ねあがると3、4歩分をショートカットします。ついで着地したところで二歩目。おそらく次で最後でしょう。が、私は懐手のまま動かずにいました。ついで猟犬は再び体を小さくする体勢に入ります。
むき出しになった前脚の爪が、めくり上がって牙があらわになった赤い唇が、どんどん眼前に迫ってきます。いよいよこれらが、私の肌と接触する寸前。私は瓶のコルク栓を指で弾き、大きく振りかぶりました。
最初にあたりに広がったのは果実の甘さの中にかすかに混じる、つんとするアルコール臭でした。それとともに、瓶の口から液体が弧を描いて周囲に飛散します。ワインです。まもなくぱりんとガラスが割れる音が響き、ぶちまけられた酒が猟犬の目と鼻に直撃したのでした。
痛みと混乱のために巨躯をねじり悶える犬をしり目に、私は裏庭まで一目散に走り抜けます。ほどなくして目的地である部屋の真下まで来ると、私は窓ガラスを銃床で貫くように叩き割りました。
瞬間、室内で濫りがましく寛いでいたカリストがにわかに顔を上げます。ですがその動きは外にいた猟犬とは違い、俊敏性など欠片も存在しませんでした。制限された生活の影響か、反射的な動作であるにもかからわず、体の動かし方はすっかり弛緩しきり、だらしのない仕草に変わっていました。
「カリスト」
膝をついて相手に目線を合わせながら、私は呼びかけました。すると狼はゆったりと立ち上がり、毛皮を青や黒、緑と複雑にきらめかせて、こちらに歩み寄ってきます。まるで酔ったような、不安定な足取りでした。
私の足元まで寄って来くると、囚われた狼は小さく鳴き声をあげました。ぞっと寒気がするほどの、甘ったるい声です。ついで、こちらのシャツやズボンに己の顔を擦りつけました。まるで初めて目にした花の香りを嗅ぎ取ろうとするみたいに。いくども、いくども。
そうしながらカリストはときおりこちらを見上げます。そのときの病を得たみたいに熱っぽく、とろけた視線を私は戦慄とともに今でもありありと思い出せます。向けられている眼差しの中にある種の要求や期待が含まれているのを、確かに感じ取ったからです。そしてそれは自然の中では、けしてあってはならない欲求でした。
口を開けてくれ――。私が狼に向けてそう言うと、相手は不審そうに首を傾げました。しかし不思議がっていたのはわずかのあいだに過ぎず、やがてカリストは言われた通りにします。瞬間、私は解毒剤の薬草を獣の口の中に放り込みました。
狼はあらんかぎりに目を見開き、ついで激しくのたうちまわり、投げ入れられたものを吐き出そうとします。私は煎じられた薬草の苦々しさ、望まないモノをむりやり自分の中に入れられた反感を思いやりました。でも可哀そうだからといって、許すわけにはいきません。私は即座に狼の首に腕を回して、抱き込むような格好で動きを封じ、もう片方の腕で顔を抑えつけました。
人間に飼われる身だろうが、本性はやはり獣です。相手は全身全霊で攻撃に抗い、うねり、拘束から逃れようとします。その力強さが激烈なためにある瞬間、力が緩んで狼の口が開いてしまいます。
「カリスト!」
私は自然に狼の口内に手を突き入れました。まもなく生暖かい液体がだらりと伝う、くすぐったい感触が起こります。肉が裂けて骨まで牙が突き立てられ、ぎんぎんとした痛みが全身を火のように駆け抜けます。冷や汗がつうと流れるのがわかりました。
それでも諦めるわけにはいかず、薬草を喉の奥に押し込みました。そうして気がつくとただ頼む、頼むとひたすら口走っていました。
……不意に、室内に静寂が訪れました。カリストは異物を咥えたまま、ぴたりと動かないでいます。私は動物の口内から、ゆっくりと手を引き抜きました。食い込んだ牙が新しく腕を引き裂きます。その傷口から噴き出た血と狼の唾液が混ざりあい、糸を引きながらぼたぼたと床に落ちました。
そうしていましめを解くと、狼の体はぐらりと大きく横に傾きます。けれども、そのまま倒れ伏すことはありませんでした。首のリボンこそはらりと落ちましたが、体だけは四つの足で踏ん張って、すんでのところで踏みとどまったのでした。
その立ち姿は幾百年も大地に根付いた巨樹に似て、堂々としていました。あんまりにも立派な様なので、私はなんだか胸が苦しくなってしまったのを覚えています。狼が己の身にまとう威厳は、筆舌にしがたい受難と痛々しさに裏打ちされたものだったからです。
実際、痛く苦しかったのでしょう。はてしない距離を走った後のように吐かれる息は荒く、乱れていました。しかしけして品位が損なわれることはありません。むしろ降りかかる苦痛がかえって獣の持つ品格や高貴さを、よりいっそう際立たせている向きすらありました。とはいえその事実が、なおさら物悲しさをかきたてるのも確かでしたが。
このようなときでした。弾け飛ばんばかりの勢いで、にわかに扉が開いたのは。同時に自分と同じ年頃の男が、私の眼前に現れました。若君です。
←Prev【続く】Next→
◆サポートは資料代や印刷費などに回ります ◆感想などはこちらでお願いします→https://forms.gle/zZchQQXzFybEgJxDA