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かがやく日々の祭りの果てに


電話は世論調査のインタビューのように突然かかってきた。

「外線からお電話です」
交換手が短く言って回線が切り換った。
「もしもし。こちら連邦政府衛生研究所の疾病専門官(ディジーズ スペシャリスト)ですが、誰にも聴かれない場所で私と話しができますか」

女の声だった。ビジネスの話、とアメリカ人が割り切って電話をかけるときに特有の、事務的な率直さと生真面目さがにじみ出ている。
「連邦政府――衛生研究所?」
「そうです。連邦政府衛生研究所。N・I・O・H」女はまるでそれが身分証明書だとでも言うように、施設を示す四つの頭文字を一つ一つ区切って明瞭に発音した。「二人だけでお話しできますか。この電話、個室に切り換えることができますか」
「ちょっと待ってください。私は日本大使館の一等書記官 ――」
「ミスター・シンジ・アマイデですね」
女は天出の口から出かかる言葉を完璧な間で先取りした。いたずらや間違い電話ではない事を暗示する自信たっぷりの声だった。

1986年12月、ワシントンの日本大使館内は、日米開戦前夜を彷彿とさせるあわただしさの中にあった。第100回アメリカ合衆国議会の開かれる日が間近に迫っていた。野党の民主党が上下両院を制した直後の国会である。その民主党は保護貿易主義の色合いの強い法案を多数たずさえて国会にのぞむ、とワシントン中に噂が流れていた。それが事実ならば、民主党のやり玉にあげられるのが日本であることは誰の目にも明らかだった。天出らの日本大使館員は、情報収集と法案の通過を阻止するロビー活動の手回しに忙殺されている最中である。

天出は受話器を耳に当てたまま困惑した。あなたと私だけで話しがしたい、と女はまた念を押した。言葉の芯に強いひっかかるものがある。外交官としての天出の直感が、ただごとではない、と彼に告げた。彼は交換手を呼び出して、電話を書記官室に回してくれ、と伝えた。

「もしもし。電話、切り換えました。誰も聴いていません。一体なんですか」
天出は簡易壁に囲まれた書記官室の自分の机の前に腰を下ろして、電話の相手に言った。
「ご協力に感謝します。実はあなたの性交相手(セックス パートナー)の一人が、伝染性の性病を病んでいることが分かりました。こちらの研究所まで来ていただければ、あなたに感染したかどうかをテスト致しますが、いかがですか」
女の声は飽くまでも冷めていて、診断を下す医師のような理知的な響きを保っていた。回りくどい言い方には一切興味を示さない単刀直入な言葉に説得力がこもっている。
「性病……」
天出はごくりと唾を呑みこんだ。受話器を握って机に肘を立てている右腕を上げる。知らずに姿勢を正していた。

「一体どんな類の……テストってなんでしょうか」
「あなたの相手(パートナー)の一人がエイズに罹っているのです。テストはウイルス感染の有無をチェックする血液検査です」
女は彼の耳に淀みなく言葉を送りつけた。

天出は彼の五体をどこかでつなぎ留めているタガがぷつんと音を立てて切れるような気がした。同時にエアポケットにはまって、それっきり揚力を回復しない飛行機の機内に投げ出されているような墜落感が彼を襲った。

 ―― エイズ……ばかな!あれはホモと麻薬患者だけの呪われた病気だ。俺はホモでもなければ麻薬患者でもない。麻薬常習者の女と寝た覚えも……待て。俺の相手の中にホモセクシュアルの男か麻薬患者の男と寝た女がいるということだ。そいつからエイズに感染した後で俺と寝た女……思いつかない。待て、待て。なぜこの電話の主が俺の相手の女を知っているのだ。N・I・O・H。疾病専門官……あわてるな。何かの国際的政治工作にかかわる罠かも知れない。ワシントンはスパイの暗躍する街だ。外交官の俺を陥れようとする誘惑は無数にある。――天出は受話器を握りしめたまま、恐怖に打ちのめされて消えかかる理性を必死に呼び戻そうとした。声帯が焼け焦げたようで言葉が出せない。

「お気持ちは良く分かります」
女の声で我に返った。天出の反応を十分に予知していたようだ。パニックに襲われた彼が落ちつく頃合いを見はからってうまく言葉をかけてくる。これと同じ電話を何度もかけていて、被害者の心理を知りつくしているような感じだ。
「エイズ患者と接触しても感染しなかった可能性はあります。今あなたが取るべき最善の道は、テストを受けて感染したかどうかをはっきりと見極めることです。秘密は厳守します」

――はっきりと見極める?それで?感染していると分かったら一体どうなるのだ。発病すれば投げた石が必ず落ちるように俺は確実に死ぬ。死の宣告を受けることがなぜ最善の道なのだ。手遅れの癌ならまだ救いがある。誰もが同情してくれ、たとえ嘘でも苦痛を分かち合おうと手を差し述べてくれるだろう。エイズは違う。人々に忌み嫌われ、嘲笑され、唾を吐きかけられて汚濁にまみれて狂い死ぬのだ……。天出は体の芯が焼けつくような怒りを女の声に覚えた。しかしそれを言葉にまとめて相手に投げ返す事ができない。まだ感染したと決まったわけじゃない。俺の相手の女というのは何かの間違いかもしれない、とようやく一縷の望みを掘り起こしてがむしゃらにそれにしがみついた。

「私の相手(パートナー)とは誰のことですか」
不覚にも声が震えてしまうのを彼はどうすることもできなかった。
「今は言えません。確かなことはエイズに感染した後で、それとは知らずに彼女があなたと交渉を持った、ということです」
女の声はいささかも乱れなかった。秘密厳守の立場を貫いている、テストを受けに来ればそこで詳しいことを話す、と続けた。
「……分かりました。どこに行けば」
「研究所の正面口の待合室を抜けて、廊下を真直ぐに右に行って下さい。奥に特別疾患(スペシャル ディジーズ)と看板のかかっている窓口があります。そこであなたの名前を告げて下さい」
女はつづけて大使館から車で30分ほど離れた地区にある研究所の住所を伝えて電話を切った。

受信機を置いたとたんに、テストを受けようという天出の気持ちは挫(くじ)けていた。死病をもたらすエイズ・ウイルスにとりつかれている、と明らかになった時の苦悶は恐ろしかった。それに絡まりついてくるであろう不名誉な風聞を想像すると余計に暗澹とした。だが、テストを受けなければ、いま全身をわし掴みにしている不安が永遠に続くこともまたはっきりしていた。墜落機の中にでもいるような激しい衝撃は収まったが、高みに渡されたガラスの板の上に立って下を見るような、踏ん張りのきかない絶望感が彼の全身をしっかり捉えていた。

――エイズに冒されていた女。ホモか麻薬中毒者と関係がありそうな女。どす黒い死病に蝕まれながらなに食わぬ顔で俺と寝た……だめだ、思いつかない。いや、もう一度ゆっくりと思い出してみろ。必ずいる筈だ。青白い顔、落ちくぼんだ眼の中にそれらしい黒い光を宿していた相手が ――天出は電話を切った後も同じ場所に居坐って考えつづけていた。

天出の海外勤務先はフランスに始まり、以後フィリピン、南アフリカ、ペルー、そして現在のアメリカと変わってきた。その間に彼は数々の女と関係を持った。それは殆どがパーティーを介して知り合った相手だった。

過去20年近い外交官生活の間に天出が出席したパーティーは文字通り数が知れない。各国大使館主催のパーティーがある。返礼のそれが再び大使館の数だけ開かれる。滞在国政府の要人やビジネス界主催の会食がある。日本企業のレセプションに招ばれる。外国企業のそれもある。様々な催し物や文化交流にまつわるパーティーもある。それらの公式の晩餐会で出会った人々が、後日彼を寛いだホームパーティーに誘う。そこで新しい交友関係が生まれてパーティーの数がまた増える。全ての招待に応じるのはいかにパーティー好きの天出と言えども不可能なほどの数だった。

連夜のパーティーに違う顔ぶれの女が出席している。天出はその中の幾人かに声をかけて彼の相手を探り当てていった。その晩の間に女と関係が結べない場合は後日食事に誘った。それでもだめなら再び誘う。どんなにガードの固い女でも3度目に会った時はたいてい体を開いた。天出の誘いに乗った女は、いずれにしてもそのつもりでいるから話は早かった。本当にガードの固い女は、パーティーで彼が声をかけてきた時点で、はなから彼の見えすいた誘惑をはねつけてしまっている。そして彼を拒絶した女の数は、誘いに乗った者のそれとは比べ物にならないくらいに多かった。むしろ拒絶するする女の方が普通だった。それでも彼はひるまなかった。目的に叶う女に行き当たるまで、彼はどこのパーティーでも人混みの中を熱心に徘徊した。

そうやって一晩だけの交情を結んだ天出の相手は、現在のアメリカではもちろん過去に滞在した国々にも数多くいる。しかしこの場合、ペルーの日本大使館に勤務していた頃までの女は恐らく関係がない、と彼は考えた。なぜならば電話はここワシントンの国立医療施設からかかってきたものであり、なによりもエイズはアメリカで最も猛威を振るっている病気だ。2年と9ヶ月前アメリカに赴任して以降の相手の中に、エイズ患者かウイルス感染者がいたのだ。


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天出信児は1960年代の終わりに大学生活を送った。出産の苦痛に身悶える母体のように当時は世界が変革を孕んで揺れ動いていた。日本も例外ではなかった。学生運動の波が大きくせり上がって、エネルギーが天出の大学に集中しようとしていた。

天出はいわゆるノンポリの学生だった。彼は大学の友人らが憤然と立ち上がり、変革を叫んで政治闘争の真っただ中に飛び込んでいく様を、対岸の火事でも眺めるように見た。彼は高校時代の三年間を受験勉強一筋に過ごして、誰もがうらやましがるその大学の法学部に入学していた。元々体を動かすことが大好きだった彼は、大学受験の準備のためにスポーツから遠ざかっていた3年間が苦痛でならなかった。それだけに入学試験に合格を果した時の解放感は格別だった。彼は大学に入学するとすぐにラグビー部に籍を置いた。まるで糸の切れた凧のように嬉々として、彼はたちまちラグビーに打ちこんだ。

政治闘争に明け暮れる友人らは口をそろえて、スポーツに執心する天出を意識の低劣な男と批難した。批難されると天出は反発した。 ――彼らは俺がラグビーを好きなように学生運動が好きなだけだ。それにもかかわらずに俺が批難されるのは、彼らが時代の多数派で俺が少数派に属しているからに過ぎない。多数派は数が多いというただそれだけの理由で、しばしば少数派をバカ呼ばわりする ――天出は批難に対抗していつも自分にそう言いきかせた。天出がその頃人々の批判を馬耳東風に聞き流せなかったのは、政治に興味が持てない自分の性格を彼自身が密かに気に病んでいるせいだった。彼はその時代にはまだ若く感受性も人並みに強かった。

学生運動の熱が高まり友人らが激して行くに従って、彼はいよいよ頑なに政治闘争から目をそらしてスポーツにのめりこんだ。180センチを超える天出の長身にはまたたく間に肉がついて、彼の体は一気に逞しくなった。

やがて彼の大学で学生運動が一気に盛り上がり頂点に達し、爆発した。それは激しかった闘争が終わったことを告げる象徴的なでき事だった。

日本中を席巻した学生運動の嵐が吹き過ぎると、そこには変革を遂げた社会が出現していた。それは戦争がもたらした変革のように世の中の外観まで一変させる類のものではもちろんなかった。だが、変革は確かにそこにあった。変革の最大なものの一つは、性風俗が開かれて、開かれたものとして人々の意識の中にしっかりと固定化されたことだった。しかもそれは日本一国だけに限られたものではなかった。時を同じくして世界中が同様の変貌を遂げていたのである。

大学を卒業すると同時に外交官試験にパスした天出は、短い研修期間を経てパリの日本大使館に赴任した。彼はそこで60年代の嵐を経て大きく変貌した筈の日本社会が、フランスをはじめとするヨーロッパ各国のそれに較べると、旧態依然としたものであることを身を以って知らされた。

パリでは少し気のきいた男たちは、ネクタイを取り換えるような気軽さで次々に女から女へと渡り歩いた。女たちもそれに応えてセックスをゲ-ムのように楽しむ術を心得ていた。気に入った男がいればためらわずにそれを体で表現し、飽きがくれば次の刺激を求めてさっさとそこを立ち去った。パリの女に比較すると日本で最も進んでいる筈の東京の女でさえ、セックスに関しては相変わらず臆病で、陰気で、迷信に凝り固まった老婆のように無意味に貞節を信奉しすぎるように見えた。

彼はそのパリで、ひんぱんに開かれる外交官パーティーを足がかりに易々と街の性風俗に染まっていった。優雅(スノブ)な雰囲気を売り物にする外交官パーティーには、セックスの影も形もないように見えた。それはまやかしに過ぎなかった。ありとあらゆるパーティーには快楽を求める男から女への、あるいは女から男への巧みな誘惑が必ずついて回った。

天出は大使や公使が主催する改まったパーティーから、小人数の人々が集う個人的なパーティーに至る、あらゆる酒宴の席で人々に愛された。それは彼が日本人にしては少し軽薄に過ぎるぐらいに陽気で、少しも物怖じをしない性格の持主であることに原因があった。たとえば彼は言葉が旨くしゃべれなかった赴任早々の頃でも、それを言い訳にパーティーの人混みの脇で目をしばたたきながら誰かが話しかけてくれるのを待つ、という日本人に典型的な態度を取らなかった。積極的に人々の談笑の輪の中に押しかけて行って、身振り手振りはもちろん思いつく限りの英単語や果ては日本語まで織り込みながら、彼は懸命に人々との意思の疎通を図った。間違いやひっかかりや発音の下手さ、といったことを少しも恐れない彼のフランス語の会話は、ユーモラスであると同時に“誠実な”印象を人に与えた。無口は西洋では悪である。積極的に自分を表現しようとする態度こそ人に好感を持たれる。言葉が旨くしゃべれるかどうかは二の次に過ぎなかった。天出はどこの社交の場に出ても「素直で分かり易い面白い男」という、西洋人が日本人に対して抱く紋切り型のイメージとはおよそ逆の評価を獲得した。

天出と女たちとの交情はパーティーの延長線上に極く自然な形で生まれた。


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天出は依然として書記官室の机の前に石のようにへばりついて、アメリカで関係を持った女たちの記憶を掘り起こそうと躍起になっていた。

天出が出会った女は、アメリカでは特に、専門職(キャリア)志向の知的水準の高い女が多かった。それにはいくつかの理由があった。一つには彼が顔を出す大半のパーティーには、パーティーの性格上そうした類の女が多く出席していたということがある。また一つには天出が最早若いとは呼べない彼自身の年齢に見合う相手を求めた結果、30歳代以降の、従ってそれぞれの仕事で成功している者が多い、成熟した女に行き会う機会が増えたということもあった。だが何よりも大きな理由は、知的で独立心の強いそれらの女ほどセックスをゲームのように楽しむ術を心得ていた。だから彼は声をかけ易かった、ということに尽きた。それはとりもなおさず、彼女らが天出以外の男たちともまた気軽に寝るであろうことを意味し、相手の数が多い分だけ女たちがエイズウイルス感染者の男と接触した可能性は高くなる……。一人一人の女の記憶をたどる天出の脳裡にその推理がくすぶりつづけていた。それは目まいに似た暗闇を頭の中に喚起して、彼をたちまち恐怖の底に突き落とした。

ふいにドアをノックする音がした。
天出は悪夢の途中で揺り起こされるように我に返った。通訳兼書記官アシスタントの川本保幸がドアを開けて上半身を部屋に差し入れた。        「天出一等書記官、皆さんが待ちかねて――どうかなさったんですか」   勢いよく投げかけた言葉を途中で切って、川本は急に表情を引き締めた。部屋に入ってくる。
「お顔の色が良くないですよ。どこか具合でも――」
「いや、いいんだ。ちょっと目まいがしただけだ。気にしないでくれ」
天出はスタッフとの打ち合わせ会議を途中で抜け出して書記官室に来ていた。そのことを思い出しながら、心配そうに歩み寄る川本に彼は咄嗟に返した。
「……あの、例の二人の件ですが、やっぱり彼らと面識のある一等書記官が直接にコンタクトを取られた方がいい、と。公使と横山参事官が今そのことで」
「二人?」
「はい。あの、ロビイスト(裏面工作者)の」
「ああ、そうか。分かった。とにかく会議室に行こう」
天出は川本を促して部屋を出た。

公使を筆頭に参事官と書記官の全員が顔をそろえている今日の会議は、日本に不利な貿易法案の議会での否決を目指して運動をする、ロビイストの人選をめぐって粉糾していた。大使が米政府要人との会見に出向いて不在なため、会議は公使を中心に運ばれていた。ワシントンに赴任して間もないその公使は、今日の会議では特に天出の意見を重視していた。それというのも天出が、会議参加者の中では圧倒的に幅広い人脈をワシントンの政界や財界に持っているからだった。その中には元政治家や元高級官僚の多いロビイストの面々も含まれている。

天出の人脈は言うまでもなくパーティーを介して作られたものだった。パリの日本大使館の時代からパーティーは彼にとって、女たちとの出会いの場所であると同時に仕事にかかわる人脈を開拓していく場所でもありつづけた。持ち前の開け広げな性格が幸いして、彼はどの国でも外国人に気に入られ信頼されて、幅広い交友関係を築き上げた。そのために大使館の同僚の中には彼の並外れて巧みな社交術をやっかんで「天出一等幇間(ほうかん)」と陰口をたたく者がいるほどだった。

天出は外交官としての彼の武器がまさにその社交術にあることを知っていた。彼の幅広い人脈も、公使や大使の信頼も、そして出世も、つまるところそこから生まれてきていた。同時に天出は彼の弱点にもまた気づいていた。彼には外交官に不可欠の緻密な交渉戦略を練る能力がなかった。「天出一等幇間」という同僚の陰口は、その意味では必らずしも根拠のない嫉妬心だけから来る嘲りではなかった。その弱点は40歳代の大台に乗った今も独身でいる彼の私生活と共に、今後の出世を阻む大きな要素になりかねなかった。

いきおい天出は、彼の能力が評価されていると感じられる今日の会議のような仕事の局面になると、必要以上に押しが強くなり攻撃的になった。彼は電話で会議を中座させられるまで、並居る同僚の全員を向こうに回して公使の期待に応えようと意気込んでいた。この時期に彼の人脈を利して功績を立てることは、将来の出世にもつながるだいじなことだった。公使を除く会議参加者の全員を敵に回すことなど何んでもなかった。

ところがいま会議室に戻った彼は、中座する前の熱気が嘘のように仕事に身が入らなくなっていた。理不尽な、叩きのめされるような死病への恐怖が、彼の全身を揺さぶりつづけている。
「天出君、大使には私が後で話しておくから君が推しているオブライエン氏とサミュエル氏にすぐコンタクトを取ってくれ。大使には事後承諾という形になるが、一刻を争そうときだ。仕方がないだろう。」
会議室に入って自席に着くとすぐに公使が彼に声をかけた。

オブライエンとサミュエルはいずれも元上院議員である。天出は参事官らの反論にもかかわらず、どうしても必要なロビイストだとして先刻二人の名を挙げておいた。彼が席を外している間に公使はどうやら反対者を押し切って、真っ先に連絡を取るべき人物のリストに載せてしまったらしい。
「二人の他にも君の方で考えている人物がいるかね」
公使がつづけて言った。
「いえ……」
天出は力なく返した。有力な人物の名前が次々に彼の口をついて出てくることを期待していたに違いない公使は、拍子抜けしたように彼の顔を凝視した。
「そうか。言うまでもないことだがは国会(コングレス)もうすぐだ。回りくどいことをしている時間はない。2人への電話連絡はアシスタントの若い者には任せずに君が直接に当たってくれ」
公使は言って、発言を始めた参事官の一人に関心を移した。

――電話連絡……そうだ!あれこれ思い悩む前にこちらからN・I・O・Hに攻めの電話を入れてみることだ。どうして先に思いつかなかったのだ。N・I・O・Hがなぜ俺に電話を入れてきたのか。疾病専門官と俺の関係した女のつながりは一体なんだ。いや、そもそもあの電話が本当にN・I・O・Hからかかってきたものかどうか。分からないことが多すぎる。N・I・O・Hはれっきとした国立の医療施設だ。電話を1本入れてみれば事の真偽はすぐに明らかになる――

天出の心は進行する会議とはかけ離れた場所を猛スピードで飛んでいた。突然彼を恐怖のただ中に突き落とした電話が、N・I・O・Hの権威を後楯にした人間からのものであったことをほぼ全面的に認める一方で、いや、あれは根も葉もない間違い電話だったのだ、と彼は繰り返し自分を鼓舞する努力をつづけた。

拷問にでもかけられているような長い会議が終わった。天出は逃げるように会議室を出てその足で電話交換室に行った。ワシントンの国立公共施設の電話番号を網羅する電話帳の一冊を、交換手に断わって持ち出した。「この電話帳、ちょっと借りるよ」と努めて何気ない風を装って言う彼を、二人の交換手が不思議そうに見た、と天出は思った。先刻の疾病専門官とのやり取りを交換手が盗み聴きしたのではないか、と彼は一瞬立ちすくむ。「どうぞ」と笑う二人の顔が、嘲る気持ちを圧し殺しているように見えた。

天出は再び書記官室の一角にある自室に入って、ぶ厚い電話帳の頁をめくり始めた。N・I・O・Hの電話番号はすぐに見つかった。研究所が大きな施設であることは立ち所に見当がつく。ほぼ半頁を費して全部門の番号が表記されていた。窓口に看板がかかっている、と女が電話で告げた「特別疾患(スペシャル ディジーズ)」という項目を探した。出ていない。やはりでたらめだったのだ!天出は素早く決めつけて気を落ちつかせようとする。しかし……とすぐに思い返した。特別疾患というのがエイズのためだけの臨時の窓口だとしたら?その可能性は大いにあった。エイズはごく最近になって発覚した治療法も何も確立されていない病気である。N・I・O・Hといえども平常の部局を設置するほどの態勢はそろっていないことがあり得る。気をゆるすのは早過ぎだ。

彼は思い直して大代表の番号を指で追った。確認して受話器を取り上げる。とたんに先刻の交換手の顔が脳裡をよぎった。二人に電話を盗み聴きされそうな不安を覚える。そうなると簡易壁を隔てた向こうの大部屋にいるアシスタントや同僚の耳まで気になってくる。ばかな取り越し苦労、と考える気持ちのゆとりがなくなっていた。受話器を元に戻して彼は立ち上がった。

大使館を出て歩いて10分ほどの距離にある並木通りの公衆電話から彼は研究所に電話を入れた。
「もしもし。こちらN・I・O・Hです。どちらにおつなぎしましょうか」
仕事が楽しくて仕方がない、とでも言いたげな交換手の晴れやかな声が耳に飛びこんできた。
「そちらにエイズ関連の部署がありますか」
天出は大使館からの道すがら繰り返し考えて決めた短い文句を投げ返した。罠にはめられたスパイが反撃を始めるときのように彼は緊張していた。
「分かりました。エイズホットラインですね。少々お待ち下さい」
たちまち彼の気持ちとは噛み合わない交換手の呑気な声が返ってくる。天出は愕然とした。

――エイズホットライン……やっぱり間違いではなかったのだ!どうする?次はなんと切り出せばいいのだ。名前を名乗るか?疾病専門官は俺の名前を知っていた。ということは俺の名前は既にエイズ患者のそれを書き連ねたリストに載っているに違いない。いや、まだだ。早すぎる。相手の正体がはっきりした訳じゃない。素っとぼけて様子を見るのが先だ――

天出が火花のように素早く思いをめぐらしたとき、回線が切り換った。
「もしもし。電話、換わりました。エイズホットラインです。どうかなさいましたか」
またしても女の声だった。疾病専門官と名乗った女とは明らかに別人だが、声の印象は彼女のそれに良く似ている。死病に取りつかれた人間の扱い方を訓練されて良く知っているに違いない落ちついた、頼りがいのありそうな、それでいて言葉の端ばしに隠しそこねた優越感の滓がこびりついている、あの独特の声音である。
「……」
「もしもし。エイズのことでお困りなんですね。心配しないでどうぞなんでもお話し下さい。私たちが力になってあげられると思います」
「あの……」
「どうぞ。黙っていては分かりません。エイズに感染したかもしれない、とそうお思いなんですか」
「ええ、まあ」
「何か思い当たることがありますか」天出が返事に窮していると女は一気に畳みかけてきた。「あなたはゲイですか。それとも麻薬常習者(ドラッグ アビュザー)ですか。秘密は厳守します。安心してお話し下さい」

侮辱するつもりの毛頭ない、しかし何かを決めつけるような女の言葉の調子が天出の神経を逆なでした。彼は思わず、外交官が民間に対するときにしばしば露呈する高飛車な物言いになって返した。
「ちょっと聞きたいが、あんたたちはそちらから進んでエイズ患者に接触することもあるの?」
「は?」
「要するに、新しくエイズ感染者を発見していくような、そういう作業もやるのかということだ」
「エイズに関する現在できる限りのことはすべてやっています。病気の蔓延を防止する活動も含めて」
女は落ちついていた。死神に抱きつかれて自制心を失っている彼女の電話の相手の中には、手に余る言動に走るものがいくらでもいるだろう。天出がふいに態度を変えたぐらいでは驚かない。

ところが彼が次に言葉を投げ返したときには様相が一変した。
「防止活動ではなくて、新しい患者を発見するために例えばある知らない人間に電話をかけて探りを入れるとか、そういうやり方のことだ」
女はふいに言葉を失った。虚を突かれた、という感じだった。間もなく複数の人間が何事かを囁き合うような遠い声が受話器を通して洩れてくる。女は天出を捨て置いて受話器を手でおさえて誰かと話しをしているらしい。不審になった彼が、もしもし、と呼びかけると、女は思い出したように「少々お待ちください(ジャスト ア モーメント プリーズ)」と媚びる調子で返した。再びかすかな話し声が洩れてくる。

「もしもし。お待たせしました」女はようやく天出に向かった。「おっしゃる通りそういう作業もやっています。追跡接触通知(コンタクト ノティフィケーション)という形で、エイズに感染した疑いのある人に電話連絡をして血液検査を受けるように勧告しています。ただこれは飽くまでもエイズの蔓延を防止するためにやっていることで、プライバシーを侵害する意思は全くありません。秘密は厳守しています」

――追跡接触通知……そうか。そういうことか――珍しく歯切れの悪い弁解する口調になって女が説明したとき、天出は暗い気持ちでたちまち全てを納得していた。追跡接触通知というのは、伝染性の性病の蔓延を防ぐためにアメリカの公共衛生機関が良く使う手だった。淋病も梅毒も最近の例ではヘルペスも、確かその方法で流行速度を弱められたと彼はどこかで聞いたことがある。まさか彼自身が対象になるとは思ってもみなかったために、天出は疾病専門官の電話をそれと結びつけて考えることができなかったのだ。

追跡接触通知のやり方は単純だが抜群の効果を発揮する。こういうことだった。彼らは先ず罹病した人間にしつこくインタビューをして患者が関係を持った相手の名前をきき出す。次に相手の居所を丹念に調べ上げて、病気に感染した可能性があるから気をつけろ、と通告する。連絡を受けた者は震え上がってたちまち医者に駆けつける。たとえそうはならなくても、並の神経をもつ人間はその後の相手に病気を移すことを恐れて、何らかの予防策を取るか性行為そのものを控えてしまう。こうして病気の蔓延速度は一気に鈍くなる。その場合にいつも問題になるのは、プライバシーの侵害の有無だった。目的が何であれ、個人の性交相手(セックス パートナー)を探り起こしてそれを追跡するのは、一歩間違えば悪質なプライバシーの侵害になりかねない。ましてやここはプライバシーを命の次くらいに大切にするアメリカである。

女が天出の質問に戸惑って会話を中断し、恐らく近くにいる同僚か上司かに素早く善後策を相談したのもうなずける。彼女は天出が抗議の電話を入れてきた。と早合点したのだ。果して女は言った。
「もしもし。こちらから電話連絡を差し上げた方ですか。そうですね」
女の声はふいに自信を回復して勢いづいていた。
「……そうです」
天出はぽつりと返した。いまさらそれを否定して何になる、と投げやりになった。これで疾病専門官の電話が何かの間違いかも知れない、という万に一つの可能性が消えた。N・I・O・Hは天出と関係を持ったエイズ患者を確かに知っていて、彼女の告白を通して彼を割り出したに違いないのだ。

――それにしても残酷なことをする連中だ。淋病もヘルペスも梅毒でさえも、治癒する見込みのある病気だ。追跡接触通知はそれらの場合には、相手を追いつめるように見えながら実は病気からの解放をもたらす朗報だ。エイズは違う。それは完璧な死刑の宣告だ。連中の頭の中には「病気の蔓延防止」という役人の題目だけがあって、通知を受ける被害者の立場を慮る人並みの親切心などいささかもありはしないのだ――天出はもはや逃げおおせないことを悟った逃亡者のような、奇妙に落ちついた気分で思った。

「――もしもし。聞こえますか。血液検査は強制的なものではありません。こちらまで来ていただければ事前に詳しい説明をします。その上であなたがテストを受けたくない、と判断すればそれはそれでいいのです。追跡接触通知を受けた方ならぜひ研究所まで足を運んで下さい。とても重要な――」
天出は女の話の途中でガチャリと電話を切った。


鳩つかもうとする手650


天出はエイズに関するある限りの情報を密かに且つ切羽詰まった人間の凄じい貪欲さで集めにかかった。相談を持ちかける医師も、悩みを打ち明ける友人も、救いを求める神も仏も霊魂も彼は知らなかった。畢竟彼が頼みにできるのは、死病を克服した、あるいは克服が間近い、と匂わせるような医学研究の成果だけになった。彼は奇跡のようなニュースを求めて、現在目につく限りのあらゆる情報はもちろん、古い週刊誌や新聞や医学情報誌まで手に入れてむさぼるように読んだ。

エイズの情報は全てのニュースメディアのトップ見出しとなって、速射砲の弾丸のように巷間を駆け巡っていた。

ウイルスの正体が突きとめられ、感染経路が明らかになり、有望な予防策の幾つかが考え出されたにもかかわらず、それの治療法は皆無に等しい。誰の目にも意外に映る有名人が斃(たお)れ、巨額の入院治療費に押しつぶされた一家が離散した。地域共同体(コミュニティ)の住民に迫害される患者が出現するかと思うと、エイズの感染宣告を受けた訳でもない麻薬常習者の男が、前途を悲観して妻と子供を道連れに無理心中を遂げた。

またエイズ治療薬の幾つかが製品化される前から大きなニュースになった。その中ではAZTと称される薬が最も期待された。それの実験段階では全米から志願した3千人余のエイズ患者が競って投薬を受けた。結果、それにはウイルスを根絶する効力はなく且つ強力な副作用を伴うことが明らかになった。それでも患者は喜んだ。少なくともそれには病人の死をしばらく先に延ばすと同時に、末期のエイズ患者が陥る痴呆性の精神障害を回避する効果があった。

いずれにしてもそれは一時の気やすめに過ぎなかった。彼らが不治の業病に冒されている事実には微塵も変わりがなかった。国連世界保健機構(WHO)はその業病の感染者数をアメリカ国内150万人、アフリカ大陸200万人から500万人、全世界では恐らく 1千万人以上と予想し、その数は急速に増え続けていると発表した。

肝心のワクチンの開発は、千変万化するエイズウイルスの複雑な生態と、人体の免疫システムを破壊する前代未聞のそれの特性に阻まれて、一向に目処が立たなかった。加えて最も研究の進んでいるアメリカとフランスの医学者たちは、エイズウイルスの第一発見者の確定を巡っていがみ合いをつづけていた。第1発見者にはノーベル賞ものの栄誉とエイズテストの特許権がほぼ自動的に与えられる。特許権は莫大な収入を意味した。名と欲がからんだ争いのために、米仏間の貴重な研究資料の交換はスムーズに進んでいない。それは速やかなワクチン開発の可能性を少なくした。

天出が期待する奇跡のような朗報はどこを探しても見当たらなかった。それどころか、以前に彼が漠然と頭に描いていた「発病即ち死」という通り一遍のエイズの図式は、情報を集めるごとに単なる図式ではなくなり、事実や事件や証拠や証言や数値等の詳細なデータに裏打ちされた事実となって、彼を追いつめ苛んだ。

大使館の勤務時間を盗んで進める陰鬱な情報収集の作業に耐え切れなくなると、天出は一転して本来の仕事に飛びつきがむしゃらにそれをこなした。天出は仕事に没頭することで彼に襲いかかっている不安を忘れようとした。次々に集まる暗いデータのこと、血液検査のこと、女たちのこと、死のこと、死にまつわりつくであろう不名誉な風間のこと……不安を形づくっている一つ一つの要素が、忙しさに紛れていったん彼の脳裡から離れていくように見えた。しかしそれらは一つの黒い大きな塊になって彼の背後にぴたりと張りついている。仕事の手を休めて振り向いたり立ち止まったりすれば、それはたちまち勢いを得て彼の上にのしかかってきた。天出は間隙を作らぬよう自分を鼓舞してひたすら仕事を求めた。仕事は山積していた。それでも物足りない。彼は同僚やアシスタントの仕事にまで首を突っこんで、進んで彼らの手助けを始めた。

そんな折に俄(にわ)かに胸苦しくなった。忙しく立ち働いている人々の誰もが、彼とは無関係な、運のいい、平穏な時間の中にたゆたっていると思った。憎しみがふつと沸き起こった。

―― なぜこいつらではなく、俺だけが不運に見舞われなければならないのだ。俺が業火に焼かれて死ぬ運命にあるなら、ありたけの他人を抱きかかえて燃えてやる。エイズウイルスを撒けるだけ撒き散らしてから死んでやる―― 一気に暗い考えがふくれ上がるとき脇に押しやられた彼の理性が蘇った。たとえ100万人の他人の死も、彼自身の死が回避されない限り救いにはならない、とそれは告げた。水をかけられたように憎しみの火が鎮まる。そこにはぽかりと空洞が焼け残って、天出は言い知れない孤独感を覚えた。

孤独感はアパートで一人きりになるときに一層つのった。彼は追跡接触通知を受けて以来どこのパーティーにも顔を出さなくなった。それに出席すれば気がまぎれることを知りながら、仕事が終わると毎晩まっすぐアパートに帰った。昼間のうちに目を通せなかったエイズ関連の資料や情報を自宅で早く読みたい、という気持ちが彼を駆り立てた。

眠れない夜がつづいた。天出はベッドで寝返りをくり返しながら、毎晩決まって彼に死病を移したはずの女を思い出そうとした。混沌とした記憶畜積の闇の中から姿を表わしてくる女は、今では誰もが死病の保菌者であったような気がした。それは憎しみとも怒りとも知れない熱い流れを彼の脳裡に引き起こして、いよいよ彼から眠りを遠ざけた。――どの女から感染したとしても確かなことが一つだけある。つまり俺は感染した夜を境に加害者に転じ、それ以降の相手の一人一人に死病の種を撒き散らしてきたということだ。一人の女が俺を介して保菌者になる。彼女は夫にそれを移す。夫は密かに関係している愛人を感染させる。別の女にもウイルスを分け与える。二人がさらにそれぞれの相手をエイズクラブに引きずり込む。そして……その先は鼠算だ。誰にも止めようがない――不安に耐え切れなくなると天出は見えない他人を呪詛した。できるだけ多くの人間が彼と同じ不運に見舞われればいい、と願った。

妄想の合間にふと日本にいる父と母の顔が頭に浮かんだ。懐かしさがつのった。二人に不安を打ち明けて泣きすがることができたら、と思った。しかし年老いた両親は業病に取りつかれた息子に人生を汚される犠牲者だ。彼らに顔を合わせる勇気は天出にはない。姉と弟の二人の兄弟も、彼を疎ましく思いこそすれ決して救いの手を差し述べてはくれないだろう。つづいて友人たちの顔が見えてくる。彼らも同じだ。表向きはとにかく、天出への友情が即座に冷えるのを禁じ得ない。疑惑と軽蔑と恐怖が天出に対する彼らの友情にとって変わるのは火を見るよりも明らかだった。穴に落ちるような絶望感が天出の五体を押し潰した。まんじりともしないまま彼はそうやって再び朝を迎えた。

追跡接触通知を受けてからちょうど2週間目に彼はN・I・O・Hに電話を入れた。血液検査を受ける決心はついていなかった。行き詰まって藁をもつかみたい思いの彼は、エイズホットラインの女の言葉に興味を抱いた。研究室まで来れば詳しいことを話す。血液検査は強制的なものではない、と女は言った。詳しい話とは一体何なのか。天出はもう一度電話を入れて確かめたくなった。

電話に出たのは今度は男である。天出は開口一番に追跡接触通知を受けた者だと告げた。
「血液検査の前の詳しい話とは何ですか」
「専門家(スペシャリスト)があなたの相談に乗るということです」
「専門家?」
「専門医の事です。ご存知のようにエイズは困難な病気です。血液検査の結果が良い方に出ればいいのですが、逆の場合には心理的な打撃がとても大きいのです。ですから万一の場合の心構えについてドクターと詳しく話し合って下さい」
「検査を受ける決心がつきません」
「お気持ちは分かります。こちらを訪ねる方の殆んどがそうです。とにかくドクターと話し合いを持つべきだと思います」
押しつけがましいところが一切感じられない親身な口調で男は言う。
「最終的には検査を拒否してもいいんですね」
「構いません」
天出は受話器を置いた。研究所に行ってみようと決意した。


画像4


N・I・O・Hは冬枯れの喬木がそこかしこに林立する広大な敷地の中にあった。総合病院と医学研究所が合体する近代的な施設である。開け広げの表門から巨大な主建物の正面入口まで、並木道が屋根のない廊下のように真っ直ぐに伸びていた。門を入って右手にある駐車場に車を置いて、天出はその並木道を歩いた。

雲一つない晴れた日だが、降り注ぐ光でさえ凍結しそうな凛冽な空気がみなぎっている。行き交う人々が背を丸めて足早に過ぎた。誰もが病人の憂うつな気配をただよわせているように彼には感じられた。

急ぎ足にビルの正面玄関から中に入った。天出は撃たれたようにそこに止まった。待合室を兼ねた広い正面ロビーには、外とは一転して温もりと生気が充満していた。椅子に腰かけて語らっている老夫婦がいる。笑いさざめくスーツ姿の黒人とその母親らしい連れがいる。高い観葉植物の傍らで立ち話をしている3人の男がいる。スチームヒーターの前には家族連れらしい5人の男女が熱心にしゃべり合っていて、その背後にはヒーターを目指して突進するよちよち歩きの子供と追いかける母親が見える。母子の様子をはらはらしながら親しく眺めている人々がいる。白い診察着の裾をひるがえしてどこかに急ぐ医師が、顔見知りの男に声をかける。笑っている――。

病院に特有の沈んだ深刻な雰囲気はどこにも見当たらなかった。天出はふいに挑むよう高揚感を覚えた。ここには並の病気を抱えた“健康な”病人が集まって楽しんでいる。と思った。蹴散らすような荒々しい足取りで彼は人々の間を一気に突っ切った。

左右に分かれて伸びる長い廊下の前に出た。彼はためらわずに右に折れた。待合室を抜けて廊下を右に行け、と言った疾病専門官の言葉を彼は鮮明に覚えていた。五、六十メートルも歩くと廊下がとぎれて別棟の翼に入った。そこも広々としている。正面に「 特別疾患(スペシャルディジーズ)」と青地に白ぬきの文字の記されたプレートを掛けている窓口があった。窓口の右手には大きな出窓に囲まれた待合室がある。強い光が一面の窓ガラスを通して差しこんでいた。若い男が二人、それぞれ顔をそ向け合って不安気に順番を待っているのが見える。天出は即座に彼らがエイズエイズ関連の患者であることを悟った。そこには正面ロビーで待つ人々とは異質の切羽詰った何かが、温気(うんき)をはらんだ眩しい光に燻られて息苦しく滞っていた。

窓口で名前を告げた。人の良さそうな黒人の女が、天出のイニシャルを繰り返し確認してぶ厚い名簿をめくり始めた。
「それ……全部エイズの?」
天出は女が操る名簿の厚味に驚いて訊いた。
「ひどい話でしょう(テリブル イズント イット)」女は顔を曇らせて上目使いに天出を見た。「――でもこれはエイズ患者の名簿ではなくて、血液検査を勧告している人の名簿ですからね。気にすることはないですよ」
彼の顔に滲み出た不安を認めたらしく、女は笑って付け加えた。
「あ、ありました。ミスター・S・アマイデ。今日テストを受けるんですか」
名簿の一点を指で押さえて、顔を上げて女が訊いた。
「いえ。実はまだ検査を受けるかどうかは――」
「分かりました。じゃ、今日はドクターとの面談(コンサルティング)だけですね。あちらでお待ち下さい」
女は万事心得た様子で窓口の右手の待合室を指差した。

待合室にいる二人の若者のうち栗色の髪を短かく刈り込んだ大柄な男は、不精髭につづく片方の耳たぶにまがい物らしい真珠の耳飾を埋めていた。窓の外の一点を気だるそうに眺めたまま、体にぴたりと吸い着いているジーンズの長い足を投げ出したり組み合わせたりしている。青い瞳には冬の光でさえ耐え難いのだろう、時どき眩しそうに目を細めて軽い溜息をついた。唇にはいつも舌なめずりをしているような湿った、天出には焦れったく感じられる赤身がかかっていた。彼は男がホモセクシュアルであることを悟った。

出窓と壁の作る部屋の角にいる男は、プエルトリコかメキシコからの移民に違いない。縮れ気味の黒い髪と濁った白い肌が一見してそれを告げた。肉体労働者のように引き締まった強じんな筋肉の持ち主であることが、太い短い首とセーターを盛り上げている肩口と胸部の様子から察せられた。男は傍らに置かれている鉢植えのゴムの木に手を伸ばして、まるで珍しい物でも見るように葉の1枚1枚を指でつまんで検分している。高い鼻梁のま上の眉間に、知恵の輪に当惑する子供を思わせる皺にならない皺を時どき寄せていた。

――こいつは何者だろうか。ホモではないことは確かだ。かと言って麻薬常習者でもないようだ。麻薬に縛られている人間の隠しおおせない暗さと不健康な印象がまるでない。そうすると俺と同じように女で落とし穴に嵌った口か。それともスラム街の喧嘩にでも巻きこまれて大けがをし、エイズウイルスに汚染された血液を輸血されたのだろうか――天出は男をそれとなく観察しながらいぶかった。

天出の名が先に呼ばれた。南のエレベーターで6階のドクター・シンプソンの面談室に行け、とスピーカーを通して流れてくる声が告げた。天出は立ち上がった。部屋を出て行く彼を二人の男が無表情に見送った。


煙突積雪650


医師はニューヨークのビジネスマンのような一分の隙もない身なりで天出を個室に迎え入れた。
「ミスター・アマイデ。良く来て下さった。どうぞ気を楽に腰掛けて下さい」片手で天出の手を握って、一方の手で重厚な作りの事務机の前の椅子を示しながら彼はすかさず付け加えた。「もっともそれどころではないかも知れませんが」

鬢に豊かな白髪をたくわえた医師の顔には、あるか無きかのかすかな笑みが浮かんだ。そこには彼の無思慮や軽薄を示す何ものもなかった。むしろ事態が深刻であればあるほど諧謔の精神を忘れまいと努力する、アングロサクソン系の人間に特有の強い理知的な伝統と、彼自身の慈愛に溢れた心根だけが透けて見えた。

天出は立ち所に医師の人柄に好感を抱いた。深刻な場面で深刻な顔をするのは誰でもできる。いま天出に必要なのは、吹きさらしの冬山のように荒れて凍結している彼の心を解かしてくれる、医師のような人間の付き添いだった。

医師は机を隔てて天出の真向かいにある回転椅子に腰を下ろした。読みさしていたらしいファイルを手に取って眼鏡を鼻にかける。天出とは少し斜になる角度に体をずらして書類に視線を落した。

「私に関する秘密はもう大分つかんでいるんですか、ドクター」
天出は軽く皮肉った。医師は顎を引いて額に皺を集めて眼鏡越しに彼を見る。ニヤリと笑った。
「なかなか。秘密よりも事実が知りたいのでね、ミスター・アマイデ。あなたは外交官なんですね」
「先生のその書類に書かれている通りです」
医師は、やれやれ、という具合に頭を小刻みに左右に振った。天出の応答を楽しむ風だ。

「さて――」
医師は書類を閉じて、眼鏡をはずしてその上に置いた。椅子を回して天出に正面向かう。
「電話連絡を差し上げたのは端的に申し上げれば、あなた自身のためというよりもエイズウイルスの蔓延をくい止めようというのが主な目的です。このことはもう恐らくお分かりでしょう」
医師はずばりと切りこんだ。
「少しは私のためになることはないんですか」
「それはあなた次第です。テストの結果が陰性なら問題はありませんが、陽性と出た場合はです」
患者を教えさとす医者というよりも、研究室で同僚と疾病の影響でも討論するような率直さで医師は言葉を押し出してくる。恐らく外交官という天出の立場が彼の受け答えを微妙に左右していた。隠すよりも腹蔵なく話す方が天出の信頼を勝ち取る最善の道、と医師は心得ている。その洞察は的を射ていた。

「ドクターが私ならその場合どうなさいますか」
天出は訊き返した。
「それ以降は予防策無しには行為ができなくなるでしょうから、ウイルスを他人に移す罪を犯さなくて済む。だから自分のためにいいことだと考えるでしょう。しかし、これは私が医者だからせめてそう受け留めて自分を勇気づけるだろう、という予想です。率直に申し上げれば、実際に私がそういう立場に置かれたらどうするか。ミスター・アマイデ、私にも良く分かりません」
「……あなたは正直な人です、ドクター。私も正直に言います。私はテストの結果が陽性と出る瞬間が恐ろしいのです」
医師は明らかな同情心の映る目で天出を見詰めてゆっくりとうなずいた。
「ミスター・アマイデ、いずれにしてもこれだけは肝に銘じておいて下さい。結果がもしも思わしくない方に出た場合、我々はできる限りの範囲で必ずあなたの力になる、ということです」
「発病したら……本当に治る見込みはないんですか」
天出はそれが無益な質問であることを知悉しながら、訊かずにはいられなかった。医師の口から魔法のように朗報がもたされることを、心の奥深いどこかで期待していた。

痛恨の思いが医師の表情に溢れ出た。
「……それがあれば私がこうしてテストの前にあなたと話し合いを持つこともないでしょう。ただし、有望な治療薬の開発は急速に進んでいます」
「AZTのことですか」
「ご存知なんですね。それじゃ副作用のことも?」
「知っています」
「AZTよりももっと有望な薬もやがて製品化される筈です。DDCというのですが、このことは?」
天出はうなずいた。エイズを特集した医学情報誌の記事がそのことに触れていた。医師の顔にかすかな驚きの色が見えたが、それを抑えて彼は言った。
「こちらは副作用がずっと少ないと考えられています。ただエイズの場合には肉体の免疫システムが破壊されるわけですから」このことも承知していますね、という具合に医師は目の動きで訊いた。天出は再びうなずいた。「完全に回復することが難しい。治療薬は発病している患者、つまり免疫システムの弱ったエイズの被害者ではなくて、感染はしているが発病に至らない者、要するに潜伏期間中の患者に最も有効に働く事になる筈です。もちろんこれはワクチンが開発されるまでの話です。ワクチンが開発されればエイズは少しも怖い病気ではなくなります」

天出が感染者ならば治療薬の恩恵にあずかることができる。希望がまったくない訳ではない。と医師は示唆していた。彼は嘘をついてはいない。治療薬の殆んどは彼の言った方向で開発が進められている。それは周知の事実だった。問題はそれらが一体いつ完成するのか、という点にあった。DDCには確かに大きな可能性があるとされる。しかし今のところはまったくの研究段階に過ぎず、それの完成時期や本当の効力についてはまだ誰も知らなかった。天出は医師に敢えてそのことを指摘する代りに訊いた。
「ワクチンは開発されそうですか」
医師を試そうとしたり皮肉ったりする気は毛頭なかった。
彼はそこに至っても患者が医師に対して抱く盲目的な信頼感を捨てていなかった。天出は又しても医師の口から出るであろう彼の知らない朗報を期待した。

期待は即座に裏切られた。
「ミスター・アマイデ、あなたはそのことも含めてエイズに関する情報は良くご存知だ。隠さなくてもよろしい。エイズ治療法の今後の見通しに関する限り、恐らく私はあなたが知っている以上の知識は持ち合わせていない。そこがこの病気の難しいところです。ただしあなたが保菌者(キャリア)と断定された場合、先ほども申し上げたように私は医者として現在できる限りのことはすべてやって差し上げる。万一あなたが発病するならば、その時も全力をあげて援助をする用意がある。医師は皆そうです。ただ我々は神ではない。発病すれば望みのない病気の宣告を発病前に下してあなたを苦しめる権利はない。感染したか否かを知るのはあなたの権利です。もっとも保菌者がみんな発病する訳ではない。今のところ発病しない保菌者が圧倒的に多いのですが、誰が発病して誰が発病しないかを予知することさえできない状況ですから、いずれにしても同じなのです」
血液検査を受けて感染の有無をはっきりさせ、ウイルスの蔓延防止に協力することが天出の義務だ、とは彼は決して口にしなかった。しかし医師の最終的な目標は彼自身が冒頭で言ったようにその一点にかかっている。

天出は四面に立ちふさがる壁がじりじりと押し迫ってくるような苛立ちを覚えた。
「発病した私の相手というのは誰ですか」
天出は話題を変えた。ふいに女の名前を知りたいと思った。
医師の目に静かな光が宿った。落ちついている。天出のその質問をずっと予期していたことが分かった。
「ミスター・アマイデ。相手のことを責めても決して問題の解決にはならない」
「責める気は――」
天出は言葉に詰まった。相手の名を知ったとき、果して平静でいられるかどうか、自信はなかった。
「責める気はありません。ただ名前が知りたいのです」
「なかなか難しいことです。私が知る限り誰もが感染した相手を憎しみ、責め立てる。できれば相手のことは知らない方がいい。特にあなたの相手は――死期が迫っている」
医師は突き放すように言った。

「私が黒と判断するまで待て、とそういうことですね」天出はその時はじめて顔を歪めてはっきりと不快感を示した。「それは少し不公平だと思いませんか、ドクター。私が保菌者だとはっきりすれば、その時はたとえ私が嫌だと言っても相手の名前を私に押しつけるでしょう。分かっていますよ。それでなければ私の相手のうちの誰に追跡接触通知を出して、誰に出すべきでないかの時間の分岐点が判断できないでしょうからね。あなた達はエイズの蔓延防止という正義感に燃えて、顔も見知らぬ他人に追跡接触通知を送りつけているのでしょうが、それを受ける当人の苦しみはまったく意に介さない。通知を受けなければ平穏に暮らしているはずの人間が、地獄の底に突き落とされる恐怖を少しも配慮しようとしない。私の気持ちが分かりますか?分かる訳がない。私の胸を切り開いてそれを目のあたりにでもしない限り、あなた達には分からない。一体誰から感染したのか、せめてそれくらい知らなければやり切れない」
天出は激して一気に言葉を投げた。やり場のない不安と絶望感をどうにかしたい、という思いが彼を突き動かしていた。

「相手を知れば血液検査を受けますか」
医師は揺らがなかった。落ちついた底の深い碧眼を天出のそれにまともに対して言った。彼の非難を受け入れ、許して、且つ最善の道に導こうとする強い意思が背後にある。
「そういう脅迫は良くないですよ、ドクター」天出はまるで誘導尋問に応えるように口を開いた。「血液検査は受けます。その前に名前を教えてください」

医師は決意した。何かを自分に言いきかせるようにうなずいた。それから静かに言葉を押し出した。
「ジーナ・ハンソンという女性を覚えていますか」
「ジーナ・ハンソン……」
天出はある限りのスピードで記憶の糸をたぐった。
「ペルーのリマであなたに会った、とファイルに――」
医師がそう言うのと、天出が「あっ」と短い叫び声を挙げるのは同時だった。 

―― ジーナ・ハンソン……よく覚えている!アメリカCBSテレビのニュースレポーターだった女だ。持ち回りの南米各国外相会議がリマで開催された時、彼女は会議の模様を取材するためにあの街にやって来ていた。俺がジーナ・ハンソンに会ったのは会議のホスト国であるペルーの外務省が開催したパーティーに出席した夜の事だ。身につけている知識のすべてを暗い書斎の中ではなく、戸外で事件を追いかけるプロセスを通して獲得するタイプの、行動的で疲れを知らない、いかにもアメリカのテレビ放送記者らしい女だった。顔も腕も首筋も開けた胸元も、露出している体のありとあらゆる部分が満べんなく小麦色に日焼けしていた。そのために彼女が口元をゆるめると、ただでさえ白い清潔な歯並が殆ど白光を放つように見えた。同様に彼女が肢体を惜し気もなくベッドの上に投げ出した時には、真夏のビーチに於てさえ日に晒されない上下の秘密の部分が、きわだって白く浮かんで肉感をそそった。だがそれよりもっと印象的なのは、彼女が徹底した男女同権論者(フェミニスト)だったという事実だ。どこにでもいるそれではなかった。彼女は俺がラグビーに夢中になっていた20年前のまさに同じ時期に、学生運動家としてアメリカの女性解放運動に参加したことがあって、それ以来の筋金入りの男女同権論者(フェミニスト)だったのだ―ひと息に記憶を掘り起こしながら、天出はまるでパズル絵の謎が瞬時に解けるのを見るような奇妙な解放感を味わっていた。感染相手がジーナ・ハンソンだとするならば、なぜかそれは他のどの女の場合よりもはるかに納得の行く符号であるような気がした。

「思い出しましたか」
医師が天出の短い瞑想を破った。
「ええ……。通知を受けて以来、今日まで相手はアメリカで関係を持った女性に違いないと思いこんでいました。それ以前のことはまったく考えなかった」
天出の語尾は詰まって聞き取れないくらいに低くなった。
「それだけアメリカ的な病気だと世界中に誤解されている訳です。もっともジーナ・ハンソンという女性もアメリカ人ではあるのですが」
医師は困惑気に返した。

「彼女はどうしてエイズに……」
「夫が両性愛者(バイセクシュアル)だったのです。まず夫がゲイの相手から感染して、それが彼女に。しかも彼は妻が感染したと判明したとたんに蒸発してしまったらしい。不運な女(プアーシング)だ」
医師は机の上の書類を目で示した。
「しかし、ドクター、彼女は」天出は思いついて言った。「5年も前の相手です。でも私は今日まで発病していない ――」
ということは感染していないと考えてもいいのではないか、とつづけようとする天出の言葉を医師がさえぎった。
「残念ながら、10年がエイズウイルスの最長潜伏期間見られているのです。しかもその10年のうちでは、前半の5年よりも後半の5年間のうちに発病する可能性が高い。ですからこれまでの5年間が無事だったからといって安心することはできません」
天出は鼻と口を水面に突き出して必死に立ち泳いでいる底無し沼で、両足をぐいと下に引きおろされるような気がした。


格子の向こう横拡大切り取り650


なぜジーナ・ハンソンに会いたいのか、天出自身にもはっきりした理由は分からなかった。

血液検査の結果が明らかになる前日の朝、天出はワシントンを飛び立ってカリフォルニアに向かう機内にいる。サンタモニカの私立病院に入院しているというジーナ・ハンソンに会いに行くためだった。

昨日までジーナ・ハンソンを訪ねる決心はつかなかった。ところが天出は、エイズの恐怖に取りつかれてこの方常態になっているまんじりともしない夜が明けた今朝早く、追い立てられるようにワシントンのナショナル空港に行ってユナイテッドエアーのDC10に乗ってしまった。西海岸とワシントンの間の時差を考慮に入れれば、長時間の飛行の後でも今日の午後遅くにはサンタモニカの病院に着ける。そこでジーナ・ハンソンに会って、とんぼ帰りでワシントンに戻ろうと彼は考えた。

医師が指摘したように天出も彼に死病を移したはずのジーナ・ハンソンを憎んだ。それが見当違いの憎悪であることを知りながらも、彼はふつふつと湧くその感情を制御することができなかった。ところが血液検査の結果が判明する20日後の木曜日が近づくにつれて、天出の中には言うに言われぬ切迫感と共にジーナ・ハンソンに会ってみたい、という思いがつのった。死病への恐怖感も絶望感も相変わらず彼の中に居坐っていた。彼の煩悶は判定日が近づくにつれて確実に増大していた。それなのにジーナ・ハンソンに対する気持だけが、憎しみからむしろそれとは逆の方向へと急速に揺れ動いて行った。

5年前のパーティーの翌日、天出とジーナ・ハンソンはリマの繁華街のレストランで再び会った。そのとき食後酒を飲みながら交す彼らの話題の中心が60年代の学生運動の思い出話になった。2人が同年齢でしかも同じ時期に学生時代を過ごしていたことが分かって、会話が自然にそこに向かったのである。

世界的な騒動の発端となったアメリカの学生運動は、ジーナ・ハンソンがそれに参加した頃には既に、初期の争点であったベトナム問題の枠を越えて様々な変革を要求する特殊グループが台頭して騒ぐ坩堝(るつぼ)の様相を呈し始めていた。ジーナ・ハンソンが飛びこんだ女性解放運動もそうしたグループの一つが核になって推進しているものだった。彼女は当時のアメリカの若い女性がの発作のような激しさで追求し、勢力を盛り上げたその運動の模様を微に入り細をうがって熱心に天出に語った。そして次のように付け加えた。

「女性の解放とは単に女が家の外に出て男と対等の立場で仕事をこなす、ということでは完成しないのね。セックスにまでそれが広げられないと意味がないの。男と女の間には能力の違いはあっても能力の優劣はない。これは疑いのない事実だわ。セックスについても同じことが言えると思う。男と女の欲望の形に違いはあっても、欲望の本質そのものは均一よ。ところが、たとえばの話だけど、60歳の男が20歳の女を追いかけても誰も不思議に思わないのに、同じ60歳の女が20歳の青年とセックスをしたいと言えば色気違い扱いにされる。こんなばかな話はないと思うわ。女は結婚して、かわいい妻になり、良い母になり、枯れたやさしいお婆ちゃんになればそれで済む。つまり飽くまでも家付きの生き物であって、外に出てセックスのことなんか考えちゃいけない、ということになっているからなのね。だからこそ女はその古い家の殻を打ち破って社会進出をする必要が先ずあった。それが私達の目指した女性解放運動の主眼だったわ。それは結果的にはかなり成功したと思う。少なくともアメリカに於てはね。でもさっきも言ったようにそれだけじゃ男女平等にはならないのよ。60歳の女が20歳の青年を追いかけても誰も不思議に思わないようでなければいけないのね。それが女のセックスのあり方だというのじゃないのよ。人々の意識がそこまで変わらなくちゃだめだということ。なぜならセックスに関する呪縛の差が男女間の力の差を生み出している最大の要因の一つだもの。60年代のアメリカの女性解放運動の凄かったところは、それまで若くて未婚の女性だけに許されていた女のセックスの自由を、年を取った女と既婚者にまで広げた点にあると思う。たとえば私はいま35歳で結婚もしているけれど、セックスに関しては20歳の女のように自由だし、この先もずっと自由にやっていくつもりよ。もちろん60歳になってもね」

天出は彼女の話の一部始終に強く引きこまれて聴き入った。ジーナ・ハンソンの話は、彼女が早ければその夜のうちにでも天出と気楽に寝るであろうことを雄弁に告げた。それが当面の彼の最大の関心事だった。そして天出の欲望は彼が予期したようにその夜のうちに遂げられた。
――俺はなぜジーナ・ハンソンに会いたいのだろうか――天出は一路西を目指して飛ぶUA気の中で考えつづけていた。
――サンタモニカの病院の一室で死の床についている女が、本当にジーナ・ハンソンかどうかをこの目で確めたいのだろうか。この期に及んでも、俺は関係した女の1人がエイズに罹っている事実を認めたくない、と心の奥深いどこかで願っている。彼女はペルーの次には赴任先はアメリカになるかも知れない、と洩らした5年前の俺のひと言を覚えていて、サンタモニカのエイズ専門官にそのことを告げたという。たったそれだけの手掛かりを頼りに彼らは俺を割り出した。俺が大使館勤めという特殊な立場にあることを差し引いても、たいした執念と組織力だと認めざるを得ない。それだけの能力を持つ連中が間違いを起こすとは考えられない。女は明らかにあのジーナ・ハンソンなのだ。それとも俺はやはり彼女を憎んでいて、死の床に無残に横たわっている女を見て溜飲を下げたい、と密かに願っているのだろうか。深層心理で彼女への復讐を思っているのだろうか……。

どちらも違うような気がする。俺はただジーナ・ハンソンが懐かしくてならないのだ。彼女が身に親しい大切な存在に思えてならないのだ。何もかもが突然形を変え、逆流し、変色して見える。彼女はリマでこそ新鮮で瑞々しい感覚を持つ女のように俺には感じられた。が、ここアメリカでは極く普通の女の一人でしかない。俺が知る限りのアメリカの女は誰もが、程度の差こそあれ、ジーナ・ハンソンの言う60年代の情熱と人生観を少しも失うことなく、活発に生き、仕事をこなし、奔放にセックスをエンジョイしている。結婚も老いも彼女らが勝ち取った自由をせばめることは最早できない。アメリカではそれが平均的な女のあり方だ。医師の口から彼女の名前が出なかったならば、あるいは俺は生涯ジーナ・ハンソンを思い出してみることさえなかったかも知れない――。


鮮やかな花々&蝶650


タクシーが病院の敷地の中に入った。手入れの行き届いた芝生が静止した海原のように起伏して広がる前庭の彼方に、常緑の高木と花の生い茂るにまかせた森がある。その中に病院の建物が見えた。西に傾き始めた陽が木々の間を縫って差しこみ、建物の白い壁に反射してオレンジ色の霞のように淡く滞っている。ワシントンとは異質の、南国特有の暖かい冬景色だった。

天出は建物の正面口で車を降りた。窓口でジーナ・ハンソンに会いたい旨を告げた。応対した白人の中年女が驚いたように彼を見た。褐色の瞳を気の毒そうにくもらせて、面会時間が過ぎている、と言う。ワシントンからわざわざやって来た。なんとかならないかと押しこむと、規則ではいけないことになっているが一応主治医に話してみる、と言って女は中に消えた。

待つ時間も殆どなく、あっさりと面会の許可が下りた。看護婦が一人出てきて、病室に案内するからついて来て下さい、と天出を促した。ふと見ると、窓口の奥には先刻の中年女と若い看護婦3人が固まって立って、いぶかし気にこちらを眺めている。天出が中年女へのつもりで会釈をして礼を言うと、4人は戸惑ったような微笑を一斉に顔に浮かべて、あわてて会釈を返した。気持ちにひっかかる、ぎくしゃくした空気が漂っている。病院がエイズ患者を多数収容している特殊事情のせいだろう、と天出は推測した。

病室に入った。

干からびた老婆が窓際にこもる陽差しの中であお向けにベッドに横たわっていた。
「面会の方です。静かにね」
看護婦がベッドの脇に寄って彼女の耳許に囁くように言った。天出に会釈をして部屋を出て行く。その背中を追いかけるように病人の顔がゆっくりとこちらに向いた。ジーナ・ハンソンだった。

かつて健康的に日焼けしていた顔は青白く濁って、打ち捨てられた粗皮のように無残に荒廃している。その表面には濃褐色の斑紋がそこかしこに浮き出ていた。頬はそげ落ちて両の骨が異常に大きく盛りあがって見える。落ちくぼんだ眼窩の底の青い瞳は、隅の暗がりに置き忘れられたガラス玉のようにくすんで物が見えているのかどうか判然としない。天出が最も胸を突かれたのは、枕の左右に分かれて流れるように安んでいる彼女の栗色の長い髪と、呆けて薄く開いている皺だらけの上下の唇の間にある歯並びを認めた瞬間だった。髪は窓からの陽差しに映えてつややかに息づいていた。白い磁器の一片に似て隙間なく並んだ歯は、かつてと同じく清潔に白光を放つように見えた。まるで腐敗しかけた屍の如く髪の毛と歯だけが不気味に若さを保っていた。

ジーナ・ハンソンのくすんだ碧眼が大儀などろりとした動きで天出の顔を捉えて止まった。眩しい物でも見るように彼女は目を細めていぶかった。次の瞬間、両の瞳に明らかにそれと分かる光が宿った。枯枝を思わせる彼女の右腕がゆっくりと上に動いた。顔が歪んだ。彼女は右の拳を強く口に押しつけた。目から涙が一気に溢れ出て乾いた皮膚の表面を濡らし始めた。
「……覚えていてくれたんだね」
天出は突き上げられるような熱い昂まりを全身に感じながら言った。
「来てくれて……嬉しい。しばらくぶりね、シンジ」
止め処もなく涙が溢れ出る目を見開いて、ジーナ・ハンソンははっきりと天出の名を呼んだ。

彼女は実験段階にあるエイズ治療薬ATZの投薬を志願して受け続けている3千人余のエイズ患者の一人だった。そのために薬品の副作用である骨髄障害と重度の貧血症に苦しんでいるが、末期のエイズ患者に特有の痴呆症の精神障害は免れている。意識ははっきりしていた。天出は病室まで歩く途中でそうした経過を看護婦の口から聞かされて知っていた。それにもかかわらずに彼は、ジーナ・ハンソンが「シンジ」と明瞭に彼の名を口にした時には胸が詰まった。夢の中で、夢と意識しつつ死者と対話をするときのような戦慄を覚えた。
「名前も――覚えていてくれたのかい」
低く呻くような声で天出は返した。
「覚えているわ。私の生涯でたった一人の“東洋の恋人(オリエンタル スゥイートハート)”だもの。」
さらばえた体のどこにそんな気丈なエネルギーが残ってるのか、ジーナ・ハンソンは軽口をたたいて微笑した。天出をいとおしむ気持ちが素直に溢れ出た笑顔だった。

「ここを訪ねたものかどうか、ずいぶん迷った。元気そうだね」
天出は言った。ただそう言ったのではなかった。病人が見た目よりもはるかにしっかりしていることが、彼を肝(はら)から驚かせていた。
「ありがとう。薬のおかげで少しはいいの」彼女ははにかむように唇を咬んだ。「どうしてここが分かったの」
「血液検査を受けに行ったとき、医者から」
「そう。連絡が行ったのね。インタビューされたとき、あなたの名前も出すべきかどうか迷ったわ……恨んでいるシンジ?」
天出は首を横に振った。正直な気持ちだった。今の彼の心を支配しているのは、目の前の彼女に対する憐憫の情だけである。エイズの恐怖心さえどこかに押しやられた。彼自身が発病してジーナ・ハンソンのように痩せ衰える姿は想像できなかった。あまりにも非現実的なものに思えた。

「来てくれて本当に嬉しい」彼女は再び言った。「死ぬのは一人だからいいけれど、生きてる間に一人でいるのは淋しかった。最近は誰もここに訪ねてこなくなったの」
天出はその時はじめて窓口の女たちが不思議そうに彼を眺めていた本当の意味を理解した。彼女は友人や知人や家族にさえ見捨てられて、こうして一人で死ぬのを待っていたのに違いない。エイズはアメリカに於てさえ誤解と偏見に塗り固められた呪われた病気だ。
「ご主人の事は聞いたよ。何と言っていいか――」
「なんでも知っているのね。それも医者から?」
また軽く揶揄する口調で彼女は言った。天出はうなずいた。
「可哀想な人なのよ。私があの人を責めるはずもないのに、恐ろしくなって私の前から姿を消したんだわ。誰のせいでもないのに……」
最後は独言のようにジーナ・ハンソンは呟いた。殆んど表情が読み取れないほど崩れた顔の中で、目だけが彼女の心の出口のように見開かれている。偽りを示す何ものもそこには表出していなかった。

「誰のせいでもないのよ。そうでしょう、シンジ」
彼女はくり返して言って、天出を見た。

夫への怨みつらみが彼女の口をついて出るであろうことを予期していた天出は、彼女の穏やかな様子に気圧されながら、同時に余りにも善良に過ぎることの成り行きにかすかな不信感を覚えた。誰のせいでもない、と感染相手の夫を許してみせることでジーナ・ハンソンは天出にも彼女に対する同様の寛容さを要求しているのだろうか、と彼はいぶかった。

「ジーナ、君ははじめからそんな風だった?少しも彼を恨まなかった?」
天出は思わず皮肉な、詰問する口調になって訊いた。ジーナ・ハンソンは首を強く横に振った。髪にからんだ異物を振り払おうとでもするような、ふいな激しい動きだった。
「感染していることが分かったときは、夫を憎んで憎み抜いたわ。それだけじゃない。彼への復讐も考え、やがて自殺も考え、次には他人にウイルスを撒き散らすことさえ考えた。やがて私は発病してこの病院に収容された。私が変わったのはここでこうして寝たきりの生活を始めてからのことに過ぎない。ここでいろいろなことを考えるようになったの。たとえば夫は自分が私に病気を移した、と信じこんだけれども正確なことは実は誰にも分からない。夫は両性愛者(バイセクシュアル)で、彼の相手の男が発病して夫も保菌者(キャリア)であることが先ず明らかになった。夫にそのことを打ち明けられた私はたちまちパニックに陥って、すぐに血液検査を受けた。結果は黒と判定された。医者も看護婦も友人も知人も家族も私も、そして当の夫も、誰もが私の感染源は彼に違いないと思いこんだ。まるで1+1イコール2、という計算でもするみたいな速やかな断定の仕方だった。今になってみると不思議な気がする。私はこれまでに夫以外の多くの男たちとも関係を持ってきた。その中には彼のようにホモセクシュアルの趣味を隠し持っていた男もいたかも知れない。麻薬中毒の男もいたかも知れない。そのうちの一人がエイズの保菌者(キャリア)じゃなかった、と誰に否定ができて?そうすると私は夫でなくて実はその相手に病気を移された可能性がある。また私と夫は別々の時間にそれぞれ別々の相手から感染したということも考えられる。それどころか実は私が夫よりも先に感染して、それが夫と彼の相手にも伝わったのかもしれない。あるいは誰もが今も信じているようにその逆のコースだったのかもしれない…。そんな具合いに考えてくると私には夫を責める資格なんかないことが分かったの。誰のせいでもないのよ」

誰のせいでもない(ノーバディ イズ トゥ ブレイム)、とジーナ・ハンソンは再三言って口をつぐんだ。そう考えることが彼女の救いになっているようだった。

「彼が両性愛者だということは以前から知っていたのかいジーナ」
「いいえ。それは知らなかった。いずれにしてもそのこと自体はたいした問題じゃないわ。夫は彼の自由な時間を好きに過ごしただけだもの。たとえば私が彼の知らないところであなたと寝た代りに一人の女と寝たとしても、どこに違いがあって?それと同じことだわ。誰もが彼の両性愛嗜好を気にするけど私にとってはそれは問題にはならない。問題があるとすれば、私達夫婦がお互いに自由を認め合って生きたことだわ。でもそれが問題になる?」
ジーナ・ハンソンは天出の目を見すえて問いかけた。彼女の瞳はリマのレストランで天出に持論を語った日のように熱っぽく輝き始めていた。天出は無言で再び首を横に振った。
「そうでしょう、シンジ。私達の世代の人間が1番誇りにしてきたのはまさにその点だわ。この忌まわしい病気さえなければ、彼の男色趣味なんて誰も気にしなかったことなのよ。自由に生きてきたのですもの。自由に生きようとしたことが間違っていた筈がないわ」
とぎれとぎれに、しかし明瞭な口調で彼女は話した。虚勢を張っているようには見えなかった。天出は彼女の言葉の一つ一つを信じた。
「君は……後悔していないんだね、ジーナ」
天出は言った。あたかも自分自身に問いただすような口調になった。

ジーナ・ハンソンは唇をぎゅっと咬んではっきりと否定の意思表示をした。鼻孔がふくらんで老婆のように乾いて荒れた顔が歪んだ。再び目に涙が溢れた。泣きながら、彼女は笑っていた。
「死ぬのは今でも怖いわ、シンジ。でも、決して後悔はしていない。思い通りに、自由に生きてきたのですもの。あなたを含めた私の相手の人たちは、みんな素敵な恋人ばかりだった。体が海に溶けて光にまみれて波と一緒にたゆたっているような、素晴らしい悦びを与えてくれた人ばかりだった。こうしてくる日も来る日も身動きできずにベッドの上に横たわっていると、一人一人の顔と体と至福の時間がいつでもありありと瞼に浮かんでくる。こうして目を閉じると、私はいまでもあの悦びの中に浸る事ができる。死ぬときも私は同じ歓喜にまみれて消えていくような気がする。こうして目を閉じていると……私は決して後悔なんかしていない」

顔を上に向けて彼女が静かに目を閉じたとき、まるで呼応するように落日が雲間から出て赤い眩しい光を病室に投げ入れた。逆光を押して椅子に腰掛けてジーナ・ハンソンの横顔に対している天出の目には、荒れ果てた醜怪な顔の表面の詳細が識別できなくなって、なめらかな額から高くのびやかに盛りあがる鼻梁を経て、薄く開いた唇と顎に下っていく彼女の顔の輪郭だけが赤い影絵のように鮮やかに見えた。ジーナ・ハンソンはたった今天出に話したように想像の中で時間をさかのぼって、彼女の相手の一人に抱かれて歓喜の絶頂に登りつめるように見えた。肉体がぼろぼろに崩れて消滅しかけているとき、彼女の魂は生きて、輝いて、至福の只中を飛翔しているように見えた。

――ジーナは真実後悔していない。この恐ろしい結末を導くに至った彼女の生き様を微塵も否定していない!――天出は彼女の美しい横顔を見詰めながら思った。同時に彼はなぜ自分がジーナ・ハンソンに会いたかったのか、今はっきりと理解することができた。


手中の白光660pic


定刻の午後11時05分にロサンゼルス空港を飛び立ったアメリカン航空の最終便は、飛行時間の半ばを過ぎる頃には早くも闇を抜けて白々と明ける空を飛んでいた。飛行機はカリフォルニアとワシントンの間にある時間差を一気に飛び越えて、朝の9時前に首都の空港に着く予定になっている。天出は今朝カリフォルニアに向かう機内にいたときと同様に一睡もしないで、漆黒から暁闇、暁闇から夜明け、とめまぐるしく移り変わる窓外の空を眺めていた。

彼の頭の中には探照燈の強力な光が充満しているような興奮があって、眠りを彼方に押しやっている。体は極端に疲れていた。立ち上がれば膝が腰にめりこんで五体が崩れてしまいそうな気がした。それでも眠気はまったく訪れず、また彼はそれを招き入れようと努力することもなかった。

「あなたの具合はどう?シンジ」
そろそろ失礼しなくちゃ、と天出が言ったとき、名残り惜しそうに彼を見上げてジーナ・ハンソンは訊いた。日はとっくに暮れていた。窓から見える庭の芝生に、一つ一つの病室から洩れる明かりが長方形のスポットを作って等間隔に並んでいた。街なかとは違う本当の暗闇が芝生の向こうを包んで、先刻まで見えていた木立の在り処も全く分からなくなっていた。
「明日、血液検査の結果が出るんだ」
天出は反射的に返した。ジーナ・ハンソンの顔にかすかな驚きの色が出た。うらやむような、安堵するような複雑な表情だった。彼女は天出も既に感染宣告を受けているもの、と思いこんでいたらしい。天出ははじめてそのことに気づいて自分の言葉を後悔した。

「そう ――。じゃ、まだ希望があるのね」
彼女は言った。そう口にするときには表情は元に戻って、安らいだくもりのない微笑が目のあたりに浮かんでいた。
「でも、もう覚悟はできているんだ」天出は弁解でもするように言葉を押し出した。「君に会って勇気が湧いた。何があっても決してうろたえない自信がついた」
嘘でも弁解でもないありのままの心情が口をついて出た。ジーナ・ハンソンは彼を見詰めて大きくうなずいた。唇を咬みしめて嗚咽をこらえている顔が歪んでいた。

 ――5年前ジーナがリマのレストランで自分の活動体験にからめてセックスを語ったとき、俺は目前の欲望が成就される予感だけに心を奪われていたのではない気がする。俺はあのとき、自由なセックスに身を委ねる生き方をジーナが肯定し、むしろそれを誇りにさえする態度に強い共感を抱いて彼女の話に聴き入っていたのだ。彼女は俺自身でもあったからだ。俺はエイズの恐怖にうちのめされて自分の生き方に自信が持てなくなった。過去の行為を呪ってセックスを否定さえした。それは間違っている。ジーナが再び俺に教えてくれた。エイズは疑いもなくジーナの肉体を破壊している。しかし自由なセックスを信じ、その美しさを知り、それに身をあずけることを至福とする彼女の魂を破壊することはついにできない。彼女は……エイズに打ち勝っている。そして俺もまたジーナと同じ道をたどるだろう。この先なにが起ころうと強い気持ちで事態に正面切って対し、俺は必ずそれを克服する――。

機体が大きく揺れた。天出は物思いから覚めた。「ベルト着用」のサインが点いた。間もなく「禁煙」のそれが灯って、最終着陸態勢に入る、とアナウンスが流れたときには機は雨雲を断ち切って一気に滑走路を目指して降下していた。

スーツに身なりを正した男たちが、一刻も早く仕事先に駆けつけようとして忙しく行き交う空港ロビーに出たときには、時刻は9時半を回っていた。天出は公衆電話がずらりと並ぶロビーの一角を目指して、人混みをかき分けて小走りに進んだ。彼の背広の上下はくたびれ、ネクタイは歪んで、脂の浮いた荒れた顔には不精髭が汚れのようにこびりついている。が、その外観とは裏腹に彼の気分は高揚しきっていた。すすんで苦行の中に飛びこもうとする雲水のように勇んで自信に溢れていた。

公衆電話に着いてN・I・O・Hの番号を回した。交換手に用件を告げると、血液検査記録係ですね、と返して彼女はすぐに回線を切り換えた。
「採血されたのはいつですか」
新しい電話の相手が訊いた。
「今月の5日です」
「それじゃ昨日の夕方には結果が出ていますね。ちょっと待ってください」
係官は言って、ことり、と受話器を下に置いた。

紙の擦れる音がはっきり聞こえてきた。係官は受話器をファイルのそばに置いて頁をめくり始めたらしい。ぱらぱらと一息に流す音がして、やがて一枚一枚丹念に紙をめくる音に変わる。ピシリ、ピシリ、と弾くようにそれはつづいた。

―― もうすぐ俺の名前に行き着く。もうすぐに宣告が下される……天出はじりじりと焼かれるような思いで待った。ピシリ、と小気味良くページがめくられて沈黙が来た。係官はついに彼の名前をさぐり当てた。

あたりの景色がふいにぐらりと転回した。天出はたたきつけるように受話器を元に戻した。両手を強くそれに押しつけて彼は立ち暗む体を支えた。
                                           

                          (了)

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