見出し画像

第7話「海のない国際港」

「すみません、荒木課長……おられますか?」


 腕時計を見ながら弘明は、長崎の五洋造船へ電話を掛けていた。手元の時計は午前10時を少し回ったところ。

(時差は7時間だから、向こうはちょうど5時か)と思いながら、弘明は船装設計の荒木課長が在席していることを祈った。土曜日だが、新造船で忙しい時期だけに、荒木は必ずいると踏んでいた。

「はい……荒木です」
 暗く低い声は、目当ての荒木に間違いない。

「すみません、芙蓉貿易の山岡です――」
「ああ山岡さん、欧州じゃなかと、どげんしたとですか?」

 急に低い声をテノールに変える、荒木のいつもの応対だった。どうせ机上の図面に集中しながら、何を忙しい時に電話してくると言わんばかりなのだが、なぜか山岡が電話すると、いつも明るい声で答えるのだった。

「今ロッテルダムなのですが、折り入ってお願いが……」
「今帰ろうと思っとったばってん、よかよ。こっちも用がない訳じゃなか」

 荒木の言葉の最後が引っ掛かったが、事は急を要することだけに、まずはコンテナ船の件を優先させた。

「あのですね、御社の920番船のことなんですが」
「920番って、ああうちで造ったコンテナ船よね」

「今は転売されたらしいのですが、実は大西洋でDead shipになって、ついては曳航の為の図面が欲しいと……」

「ああ、どっかのサルベージから頼まれたとね?」
「えっ、よくご存じで」「さっき他所へ送ったとこばい」

 荒木の話だと、昼過ぎに営業を通じて問い合わせがあり、ちょうど必要書類をファックスしたところだった。

「すみせんが……」
「よかよ、ファックス番号言わんね」

 荒木は即答、事は思った以上に上手く行った。弘明は話しながら、横のデスクにいる宇佐美に指でOKを出した。

 すぐに番号を言うと、メモするのか少し間が空き、
「これオランダらしか、すぐファックスせんね」
 と、電話の向こうで指示すると、荒木は話を続けた。

「こっちからひとつあるけど、よかね?」
「はい、もちろんです、なんでしょうか?」

「お宅の吉岡次長だっけ、あの人がうちの窓口なら、今度の船は他所へ決まるかも知れんよ――」
 メリハリのある荒木の物言い、明らかに怒っていた。

「なにか……ありましたでしょうか?」
「あんまり言いたかなかばってん、ちょっと酷か」
「えっ……1025番船の件でしょうか?」

「そうそう、ドイツの船主やけんGLの計算ば頼んだとさ、そしたら――そんなもの関係なかの一点張りやけん」

 普段は怒っても救いのある物言いをする人だが、今度の場合は取り付く島がない。吉岡の物言いが窺い知れた。

 またか、と思いながら弘明は話が終わるのを待った。

 吉岡は四十半ばで弘明より5年前に入社。それ以前は造船所の船殻設計にいたという。芙蓉では村上の下で戸塚とタグを組みコンテナ金物のエキスパートだった。弘明が技術的なノウハウを教わったのは、この吉岡だった。

 彼はなにしろ難しい人だった。戸塚の退職後、弘明は半年も経たない内に体調を壊した。出勤途中で連日腹痛を起こし途中下車でトイレへ駆け込む始末。医者で診てもらうと自立神経失調症と言われ、薬に頼ったのだった。

 だが仕事とは面白いもので、がむしゃらに働くことで吉岡の呪縛から逃れた。売上を伸ばす弘明に周囲の注目が集まり、その結果吉岡からの横槍は減った。ただ数字が全てとなるにつれ、組織は更に息苦しくなっていた。

 上にへつらい下にあたる吉岡の性癖は、顧客にも向けられた。なにしろ造船所よりも規則を熟知した吉岡は、上場企業の設計課長など歯牙にも掛けない。自分の言うことを聞けば良いと、何人をも寄せ付けないのだった。

「すみません、GLの方は私がなんとかしますので……」
 弘明は平謝りするしかなかった。

 荒木課長は2年前、船主の紹介で弘明が初めて五井造船を訪ねた時、商社マンに用はないとけんもほろろ。だが誠実に話をする弘明に態度を変え、結果三千万円超の注文に繋がり、芙蓉貿易は五井に取引口座を獲得したのだった。そんなVIPを失う事は、組織として許される筈がなかった。

 事を納めて電話を切ると、さっそく五井から届いたファックスに英文で注釈をつけ、宇佐美に渡したのだった。

 芙蓉オランダの事務所で、弘明は懐かしい長崎の空を思い浮かべていた。それは夢破れた船造りの仕事を、五井造船に委ねているのかも知れない。二度と夢を失いたくないと思う弘明は、村上部長へのファックスを認めた。

 まず予定を変更してドイツへ向かうこと。そして1025番船の売上は、恐らく五千万円を超えるとした。

(これで文句はないやろ)と、腹を括る弘明だった。

 10月1日月曜の午後、弘明はロッテルダム空港にいた。
 急遽予定を変更してドイツへ向かうところだった。

 忙しい中を宇佐美は車で送ってくれた。午前中、弘明が入手した資料で一番くじを引いたとサルベージ会社から連絡が入り、弘明の面目躍如となったのだった。

「昨日はお宅へ呼んでいただいて、ご馳走様でした」

「いや、山岡が出張で来てくれて本当に助かった。この事は、俺から藤岡専務に電話を入れておくからな」
 と言う宇佐美に、部長ではなくて藤原専務なのかと少し違和感を持つ弘明だったが、そこではスルーした。

 前日、宇佐美は弘明を自宅へ呼んでくれた。最初は夕食をと言われたが、翌日ドイツへ向かうこともあり昼にしてもらった。予定変更は会社へファックスを入れたもののあくまで弘明が独断で決めたこと。

 その辺の事情を宇佐美に言うと、お前も苦労するなと言われた。
 どこか親分肌の古賀と違って宇佐美は兄貴の様な存在だった。

 二人に出会ってみて、出張前に会社で藤原専務から言われたことを弘明はあらためて考えてみた。

「ロンドンの古賀とロッテの宇佐美、いずれ二人は日本へ帰ってくる。どちらかが君の上司になるかもね……」

 単に海外出張の社内規定で専務を訪ねた弘明に、いかにも思わせぶりな藤原だった。もう五十を幾つか超えている筈だが、ニヒルな顔立ちはヤクザ映画の俳優に似ていて、歯に衣着せぬ物言いで微笑む表情に凄みがあった。

(これは一種の昇進試験なのか?)

 この年の春に主任の肩書を得た弘明だが、コンテナ関係の売上は月に五千万円を突破し、新造船の受注残も十隻を越えている。上に吉岡次長はいるものの営業的には弘明が仕切らねばならない。来年の春には新卒を迎えて部が二十名を超える以上、組織の変革が予想される。

 売上的には弘明の係がトップだが、課長昇進レースには他に年長のエンジニアが2名いて凌ぎを削っている。

(船乗りなんかに造船所の営業が出来るものか)
 と、思うもの弘明は営業としてはまだ駆け出しであり、船員上がりの部長と軋轢も増している。

 何かにつけて声を掛けてくれる藤原専務に対してリスペクトすればするほど、村上部長や吉岡次長への反発を覚える弘明だった。

「お世話になりました」
「おお、あまり無理するな」

 こうして弘明は一路ハンブルグへ飛び立つのだった。

 ロッテルダムからハンブルクまで直線距離で約200キロ。幸い直行便が取れて、機中凡そ1時間程であった。

 ここへ来て弘明は、バックに放り込んでいたガイドブックが役立ち、突然訪ねるハンブルクを多少なりとも知ることが出来た。

 ハンバーガーの発祥地らしいのだが、地図を見れば街は内陸地であり、そこに船級協会があるというのが不思議だった。街はチェコ北部から北海へ出るエルベ川沿いにあり、古くから海運が栄えていたらしい。だが島国の川しか知らぬ弘明には不可解だった。

 すっかり陽の落ちた中、空港からホテルへ近づくにつれ、なだらかな丘の向こうに垣間見える人工的な光の群れは、いかにも工業地帯を思わせた。それでもホテルのまわりは深い緑に覆われ、その中に瀟洒な建物があった。
  
 宇佐美の紹介で予約したのだが、思った以上にゴージャスなホテルだった。こぢんまりとした車寄せの奥には格式高い玄関があり、乗りつけたベンツの車体を見ていると、弘明はどこか芝居じみた振る舞いになっていた。 

 これがドイツかと思うと、むくむくと好奇心が沸いた。

 もちろんチェックインは英語だったが、応対するフロントマンの容姿とその耳慣れぬ発音に思わず戸惑った。

 弘明に取ってドイツ人と言えば、アメリカ映画のコンバットで鍵十字のヘルメットを被る男なのだが、フロントマンは完璧な金髪碧眼だった。その彼が発するキレッキレの英語を聞くと、本当に映画を見ている様だった。

 天井の高いロビーはふんだんに木を使った内装で、家具は直線的なデザインなのだが重厚な木の温もりを感じさせた。

 特にロビー脇のカウンターバーは、ほんの数人が座れる様になっていて、背高のカウンターチェアーを設えた止まり木はいかにもアットホームな感じがした。

 腹が減ったと思う弘明はもう我慢が出来ず、フロントマンにレストランの閉店時間を聞くと部屋へ急いだ。

 シャワーをする余裕はなく、なにはともあれまずは腹ごしらえと荷物を仕分けた。いつもの通り上着の財布とパスポートを確認すべく、右左の内ポケットをパタパタ確認しながら部屋を出た。

 古風なエレベーターで降りると、フロントの前を横切ってレストランへ。古風なエレベーターで降りるとフロントの前を横切ってレストランへ。

 中へ入り耳慣れぬ言葉に席を見回す……と、すぐに視線はオープンテラスの奥の光景に奪われるのだった。

(第7話おわり)

まだ慣れていませんが、おもしろいと思う事を書いていきます!