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森博嗣『すべてがFになる』

再読書。
前回読んだのは中学生だったか、高校生だったか。それこそフィフティーンのあたりだった気がする。
「真賀田四季」という名前は鮮烈に覚えていて、ただその内容は曖昧で、「思っていた話と違った」と思いながら読んでいたことだけを覚えていた。(ドラマがあったときも見た気がするけど、これも、ドラマ見たな〜あかりんだったな〜くらいのぼやけ具合)

好きになれない人のことを、好きになれないなと認められるようになったことが、この10年間の成長だと思う。
主人公の彼女のことが好きになれなくて、読んでいてもやもやした昔を思い出す。いま読むと、個性として許容できるのだけど(違和感すら感じない)、当時は年上のお姉さんなのに、と思って憧れを隠すような嫉妬や妬みからどうも好きになれなかった。多分私も犀川先生が好きだったのだと思う。そして、真賀田四季が。

大学という環境を経て、過去に読んだ本を再読することの利点は、大学という環境がよくわかる点だと思う。研究室、とか、ゼミ、とか、演習と講義の違いとか、助教授と助教の違いとか。そんなの些細なことかもしれないけれど、私の中での読みやすさはまるっきり違う。しかし、逆にいうと萌絵と犀川先生のいるN大学(だったか)の校舎は、完全に私が大学生活を過ごしたあのキャンバスのあの棟の造りに置き換わってしまっている。深夜でも明かりのついた孤独感を感じない、でも無機質なあの。
我々は物語を通して経験したこともない異国の王子にだって会いに行けるので、この私の感じた利点は、別になくたってなんの障害にもならないのかもしれないけれど。
7とBとDの孤独さだって、いまならわかる。

真賀田四季への羨望は、その頭の良さと死に対する捉え方だと思うけれど、ここへの共感は過去の私の方が強かった気がする。自分の死ぬタイミングは自分で決めたいという気持ちへの共感はまだ残っているけれど、当時に比べて明らかに生きたくないと思う頻度は減ったし、自分の死に他者が干渉することについては明らかに否になった。いつの間にか、年取って自然に老衰したいななんて思うような人間になったみたい。20で死ぬと思ってたのに、いつの間にか80くらいまで生きている気になっている。それにしては計画性がなさすぎるので、このままではひとりぼっちまっしぐらだけど。60年後には世界も何かしら発展しているかもしれない。

VRを使った、当時でいう最先端の科学技術が取り入れられていたのかもしれない小説は(1996年発行)、いまやかなり当たり前に近くなっていて、コンピュータに対する理解も、身近さも、恐らく格別に違う。それでもなお真賀田四季の醸し出す近未来的な世界観というのだろうか、真っ白な、崇高な印象が消えないのは何故なのだろう。彼女の強かさからだろうか。

そういえば、研究所の外観を想像するとき、自分の職場のことを思い出していた。

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