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1-3: 風前の灯火となったリモートワーク

次にその清掃員を見たのは、ある外注のライターだった。

午後2時ごろ、週刊文春の執筆依頼を受けて他の出版社からやって来た記者・青木亘(わたる)〈30歳〉である。

彼が外注業務で文春編集部に入るのは、今年で3回目のこと。去年まで、同様の仕事はすべてリモートワークで済ませられるものだった。

ライター業なので、打ち合わせも編集作業も基本、テキストを交わすだけで済ませられるからだ。だが、今年2023年明けからそうは行かなくなった。

3年前のコロナ禍をきっかけに、東京都心をはじめ日本でもようやくパワーブックを活用したテレワークの輪が広がるようになってきた。

当初、それは一気に日本ビジネス界のスタンダードになるのではないかと期待が寄せられた。しかし、2年ほどのうちに、その勢いは消えた。

どの企業でも、特に大組織になるほど上層部にいるのは、大抵、世襲やコネだけで出世した男たちがいる。彼らが邪魔をしたのだ。

リモートワークが推進されれば、仕事の実質的な出来高が最優先事項となって組織のヒエラルキーが決まってゆく。実績とは縁遠いコネ上がりの上層部が、そんな変革を歓迎するはずはない。

また彼らは、部下との対面で威張ったり叱ったりゴリ押ししたりすることでしか、仕事のやりがいを得られない者たちでもある。

世襲・コネ組の強烈な圧力によって、いつしかまた昭和への逆転現象が起き、日本社会全体に現場至上主義的な根性論がはびこるようになった。

結局、リモートワーク革命はたった2年のうちに終わってしまった。それは今や風前の灯火となって消えかけている。

天下の週刊文春編集部もその時代の大波に抗うことはできなかった。そういういワケで、この日、外注ライター・青木亘はほんの少しの打ち合わせのために、わざわざ文藝春秋ビルに足を運んでいたのだった。


文春編集部に入る前、青木は向かいにある会議室に目を止めた。ベージュのツナギ服姿を着た清掃員らしい1人の男が、ドアの前にホワイトボードの立て看板を置いていたからだ。

男は目深に帽子をかぶりマスクをつけていたので、その顔つきまでは分からなかった。

立て看板のボードを見ると、その部屋でこれからエアコンのフィルター交換をするという断り書きがあった。

青木はそれを妙に感じた。何しろ、それはエアコンを最も使う真夏の真っ昼間というタイミングだったからだ。

青木亘が次にその清掃員を見たのは、文春編集部に入って15分ほどたった頃のことである。打ち合わせ相手のエディターが別件で定刻に帰社できなかったため、青木は来客用のソファでずっと待たされていた。

そんなときオフィスにさっきの清掃員が現れたのだ。

彼は「失礼します」と言って入るなり、ドア近くの来客用ソファに座っていた青木に気づき軽く一礼した。

「すみませんが、編集長さまのデスクはどちらになりますでしょうか」

青木はそれが女のように甲高い声だったことを記憶している。

「あのガラス張りの中の個室にいますよ」

そう指を刺すと、清掃員はどうもと言って頭を下げた。

そうして部屋の奥にあるキューブ状の半透明ガラスに囲まれたチーフ・ルームに向かった。肩からは清掃員らしい地味なボストンバッグを掲げていた。


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