見出し画像

運動が楽しいって気づくのに20年くらいかかった人間のはなし

今年に入って運動の楽しさにやっと気づいた備忘録。決してゲームの宣伝ではない。


Fit Boxing を知っていますか。

 Nintendo Switchで遊べるフィットネスゲームだ。リズムに合わせてシャドーボクシングをし、リズムゲーの快感とエクササイズが合わさった最高のゲームだ。もとより任天堂のゲームは大好きだが、このFit Boxingに出会って、私が長年感じていたスポーツへの抵抗がなくなった。そしてそのスポーツへの抵抗は、学校の体育教育によって植え付けられたものであったと、このゲームをしているうちに気がついた。私がここでつらつらと述べることはすでに色々な人に言われていることだろうが、せっかくなので形にしてみる。
 

スポーツは 隠キャ陽キャの 分かれ道(五七五)


 スクールカーストと運動神経の良さは不可分の関係だ。足の速い男の子はモテたし、ドッジボールで攻める子はいつもクラスの中心にいる。そのコミュニティの中で、運動神経を持たざる者はのちに「隠キャ」となってしまった人もいるのではないかと思う。ソースは私だ。


 いや、私が隠キャになってしまった理由は他にもいろいろあるが、運動ができないせいで体育の授業を苦痛に感じ、運動そのものが大嫌いになってしまった。学生時代の体育の授業の仕組みのせいでスポーツを嫌悪し、不健康体になっている人も一定数いるのではないか。そう考え、私の思うところをまとめたいと思う。


「相対値の体育」と恥さらしの授業


 体育は集団授業だ。チームプレイはもとより個人技能でも必ず他人の目がある。その中で順位と役割分担があり、何とかメニューをこなしていくことに必死になる。チームで仲間に迷惑をかけてしまわないか、自分のトロさを笑う人がいるんじゃないか。周囲の目が気になって、「なんのために運動をするのか」を見失ってしまう人もいるだろう。少なくとも私の場合は、一コマを耐え忍ぶためにスポーツをしていた。


 美術の授業だったら、ヘタクソでも「味がある」とむしろ盛り上がることがある(そしてその画伯ポジになれるのは得てしてクラスの中心になれる陽キャだ)。それに引き換え、体育の授業は圧倒的に救いがない。

 自意識過剰なことはわかっている。でもやはりできない人の技能テストでは、見ている生徒たちの間で微妙な空気が流れた。チームプレイで迷惑をかけて謝ったら、鬱陶しいと目で言われた気がした。その中で自分の課題を見つけるより、「他人に劣ってしまう」点がフォーカスされた。体育で重要なことは、他人との競争だけではなく個人の基礎技能獲得や、運動を一生続けていくための心の育成でもあるはずだ。


 集団の中での劣等感の形成、他人に見られている恐怖が、運動本来が持つ楽しさと効果を忘れさせている。運動音痴の人間は、楽しいとか筋肉をつけたいとか思う前に萎縮してしまう。自分のためにスポーツをするのに、他人を気にしなければいけない窮屈な環境は、運動嫌いを助長させた。


できない人へのケアがほとんど存在しない


 集団教育の弊害ともいえるだろう。日本の教育システムは、課金で救済されなければ、あるいはよほどのバイタリティや目標を持ってない限り落ちこぼれは置いてけぼりにされる。だが、昨今の教師の人員不足や効率を考えると致し方ない。一人一人に合わせた指導を行える公立教育が理想論であることは承知している。


 ただ私が少しだけ問題だと思うのは、体育教師と運動音痴の生徒の相性だ。体育教師はスポーツを底抜けに愛している人たちだと思う。彼らは物心ついた頃から体を動かすことが大好きで、運動が「できて当たり前」の価値観の中で生きてきた人たちだろう。そんな彼らは、スポーツを教科書的に教えることはできても、スポーツの克服の仕方は教えられない。根本的な運動音痴がスポーツでつまずく原因は、運動ができる人にとって全く想像できない初歩的なものだからだ。


 逆上がりができない人間は、なぜできないのか自分にはわからないし、いともたやすく鉄棒と友達になれる人は、逆上がりに失敗する理由がわからない。運動音痴は根本的な体の使い方が間違っているから、ちょっと努力したところで克服できない。


 私が12年間受けてきた体育の授業の中で、「やれ」とは言っても「どうすればできるようになるか」を具体的に教えてくれた先生はいなかった。基本的な技能でさえ自分にはどうしてもできなかったから、体育の授業は自己肯定感がどんどん下がっていった(できた時にはうんと褒めてもらえたが)。

 劣等感と羞恥心から私は体育の授業が苦痛で仕方なかった。そしていつしか「運動は必要だけど苦痛なもの」と疑わなくなってしまった。


Fit Boxing との出会い


 時は流れ大学に入学後、私は運動に初めて向き合おうと考えた。理由は、自分のBMIに問題があり体を変えたいと感じたこと、肌をきれいにしたいと思ったためだ。


 そうこうしているうちに、リングフィットアドベンチャーの噂を耳にした。楽しくゲームをしながら運動ができる。「これだ!」と思った私は商品を探したが、すでに公式通販では品切れ、定価では買えない状態となっていた。でも私はどうしてもゲームで運動がしたかったので、Fit Boxingに目をつけた。運動の知識などなかったのでFit Boxingでは筋力のつかない有酸素運動が中心になることは購入の後で知った。


 実際に遊んだら素晴らしいゲームだった。人に見られずに自分のペースで運動をできる点が最も良い。体育トラウマ持ち人間の課題を克服する神ゲーだった。

運動って楽しいじゃん


 何事も楽しむためには、自分に合ったツールを使うことが重要だと今更気づいた。Fit Boxingで初めて、純粋に汗を流すことに達成感を覚えた。小中学生の頃にこのゲームに出会っていたら、私の運動嫌いももうちょっとなんとかなっていたんじゃないかと本気で思った。


 ゲームを教育に導入しろ、と主張したいのではない。人生を見据えた上で「自分のために、自分が運動をするのに最適な手段は何か」を、体育の授業で考えたかった。それは部活動でもジムでもゲームでも、散歩でもなんでも良い。


 さらにSNSを覗くと、エクササイズによって得られる効果や実体験が沢山見られる。体幹強化で姿勢が良くなりカラオケで声が出るようになるだとか、ダイエット、美肌。技能テストやタイム・回数・距離の記録が体育の授業では目標として掲げられるが、それらよりさらに先を見据えた「自分のための目標」を発見していたら体育の取り組み方も全く違っていたはずだ。

まとめ 

運動は本来楽しいものだ。運動を通じてどうなりたいかを考え、それを楽しくするツールも選べることを早いうちに知りたかった。少し遅れたものの、それに気づかせてくれた任天堂及び開発会社のイマジニアにとても感謝している。おそらくリングフィットアドベンチャーも素晴らしいゲームなのだと思う。早く購入したい。ヨドバシよ、当ててくれ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?