武田神社【山梨・甲府市】
こんにちは!
『神社アベニュ~』の20.315です。
今回は、甲斐武田の本元である武田神社にご参拝です。
ご祭神は武田信玄公。戦国武将の中でも信長、秀吉、家康に次ぐ人気の武将ですね。もちろん、越後の長尾景虎(上杉謙信)、駿河の今川義元、相模の北条氏康、北は仙台の伊達政宗、西の毛利元就など、人気のある武将はたくさんいます。
秀吉の人気は年ごとに変化するので、誰が人気ベスト10かを定めるのはあまり意味がないと思います。大河ドラマにも左右されますしね。笑。
好きなら、好きでいいじゃん!と20.315は思います。
ちなみに、20.315の好みは豊臣秀吉です。憧れるのは織田信長。ちょっと引くのは徳川家康です。
甲信エリアにゆかりのある方なら、ダントツ武田信玄でしょう。
あの信長が最も恐れた武将、武田信玄。
信長は自身の領国・尾張から版図を広げるにあたり、自分より年上でかつ武将として誉れ高い信玄公に対し、憧れと強い警戒心を持っていました。
美濃を攻略し、近江や越前、比叡山などとの戦(いくさ)で忙しく、甲信エリアまで手が回らず、とにかく「信玄公様、あなたは素晴らしい。私の師匠であります」と手を変え品を変えて、いろんな金品を贈っています。
贈られた当初、信玄は「尾張の小僧、何をたくらんどる?」と疑心暗鬼でしたが、ことあるごとに、信長から豪奢な品物が贈られてきます。
「あなたの手腕を見習いたい。憧れの信玄公様♡」
みたいな書状も添えて、何度も何度も贈ってきます。
さすがの信玄も「信長は本気で俺を慕っているのかも」と思ってしまいます。そう、油断したのです。実はこれが信長の作戦でした。
この隙に信長は、とうとう足利義昭を担いで上洛を果たします。
足利様を担いで、濃尾を本拠地とする信長が京にやってきました。天下を手中にしようとしている信長を「英雄」と見る向きもあれば「成り上がりの田舎侍」と罵る輩も多かったでしょう。むしろ、後者の勢力は沸々と煮えたぎり、近畿周辺から各諸国には反・信長の勢力が盛り返す勢いでした。
その反・信長勢力の中で、ナンバーワンと目されたのが、武田信玄です。
多勢に無勢の中、「信玄公様なら、信長を倒せる」と反・信長勢力は勢いづきます。
信玄が油断した隙に、早々と上洛を果たした信長。
担がれた足利義昭は当初は信長を信頼していましたが、やがて信長の本心に気づき反・信長となり、信玄にたよろうとします。
信玄も、怒り心頭だったに違いありません。
「だましたな、おのれ信長!」
と進軍を開始します。信長陣営だった三河の家康は、一生懸命に武田軍を押しとどめます。今川義元亡き後、遠州は家康が預かっていましたが、遠州と三河の諸城が、次々に武田軍に奪われます。
家康は信長に援軍を求めますが、わずかな援軍しか来ません。織田軍も、浅井、朝倉との戦いで、それどころではなかったのです。
家康は防戦しましたが、三方ヶ原(現・浜松市北区)で信玄と決戦となり、破れます。これが家康が敗れた「三方ヶ原の戦い」です。
勢いにのった武田軍は、三河の野田城、美濃の岩村城を落とします。
ここまで来れば、あとは美濃・尾張全体を落として京までまっしぐらです。
しかし・・・。
突然、武田軍は引き返します。ひそかに、周囲に悟られることなく、三河街道を甲府に向けて撤退し出したのです。
「何だろう?」と思ったのは徳川軍です。
元亀4年(西暦1573年)4月、武田信玄は急死していました。
徳川軍は、信玄の生死を確認するため落とされた城に再攻撃したり、駿河に侵攻したりしましたが、武田軍の抵抗はなく「信玄の死」を確信します。
「巨星、堕つ」 享年53歳。
時の実力者が亡くなったのです。
こうして時代は信長、秀吉、家康に急旋回していきます・・・。
今となっては53歳での病死は早すぎますが、戦国時代では普通でした。
しかし、それでも、もし信玄公が生きて上洛していたら、日本の歴史は変わっていたかもしれません。
明治期になり信玄公を慕う機運が高まり、大正8年(西暦1919年)に武田神社が建立されました。
立ち寄った広瀬湖(上記写真)の美しい景観を見ながら、戦国時代のIFという妄想を抱いていました・・・。
【基礎データ】
■創建 大正8年(1919年) 大正時代
■祭神 武田信玄公(たけだしんげんこう)
■住所 山梨県甲府市古府中町2611
■HP 武田神社
※写真は全て20.315が撮影。
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