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模試の理科の時間 × 哲学
模試の理科の時間。
不勉強で解ける問題が少ないせいで、私はいつも半分くらい時間を持て余す。
その理科の時間に、私はとある道にふと迷い込む。
ぼーっとしていると、時々ふらっとその道を歩いてしまう。
その現象が理科の時間にいつも起こる。模試で脳がそろそろ使い物にならなくなってきたからかな。
その道、即ち哲学の道。
毎回決まってこの時間、生きているのが不思議になる。
今鉛筆を握っているこの手、もう投げ出して帰ってやりたいという心の声、椅子に座り続けてお尻が痛いこの感覚、夕闇に包まれ今にも光を失いそうな空と教室の眩しいLEDとのコントラスト、同級生が問題用紙を捲って紙が擦れ合う音、空腹で鳴った誰かのお腹の音。
延いては「私」というこの意識さえ。
全ては死んだら何も分からなくなる。
それなのに、今私がここに存在していること、その事実がどうしようもなく不思議に思えてくる。
この感覚は、喩えるのなら。
夜行バスに揺られているとき。
窓に映る自分を見つめ、お前は一体何者なんだ?と問うてしまうあの感覚。
昼寝をし過ぎてやっと目を覚ました夕方。
部屋の薄暗い闇の中、何も考えずただ呼吸をしていると、生きている心地が不思議なくらいしない、あるいは不思議なくらい生きていることを感じられる、あの感覚。
そんな感覚を持ってしまったとき、時間の流れはいつもより徐に感じられる。
この時間だけは、時間という世界共通の規定の中に生きているのではなく、「今、この時」という掛け替えの無い瞬間に私が存在している、という感覚を強烈に感じる。
しかし一方で、だんだんと私は本当に生きているのかどうか分からなくなる。相反する二つの意識が混ざり合い、頭の中が混沌とした状態になる。
ここにいるのだけど、本当はここにいないのかもしれない、と思う。私という意識など存在せず、またこの世界、宇宙さえも存在しないのではないかと。
もしそうであれば、そんな世界は一体どんな様相を呈しているんだろう。
いやその前に、何も無いってどんな感じなんだろう。
そもそも「有」の集合体であるこの世界で、「無」である世界について考えることは可能なのか____
「はい、そこまで。筆記用具を置いて」
道に迷い込んでしまったあの時から、この声が聞こえる瞬間まで。
この哲学的思索に耽る時間が、私は結構好きなんだよね。
理科の問題を解くよりは、割と。
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