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手紙の話

時折、思い出した時に手紙を送ることにした。

好きな詩、歌詞、言葉。
なんでもいいので一筆箋に書いて送る。

加えて、それを選んだかという解説をしがちだが、選んだ言葉というのはそれだけでも完結できるものであるので、まったくの蛇足である。

それはそうとして、手紙における真にいいところというのは
自分で自分の書いた文章を見返すことができないというところだ。

手紙という会話

自分で自分の文章を見返すことができないというのは、文章という記録でありながら、限りなく会話に近いものであると考えることができる。

一方的に話しかけ、返事を待つ。
おおよその内容はわかれども、一字一句を思い出す必要性がない。

それは定期的に見返され、自身も確認することが前提としてあるメールやLINE、公的な文書よりも、スピードでは劣るものの、性質としてよっぽど対面に近いコミュニケーションなのではないだろうか。

なにより、自分が書いたものというのはこうやって公開する私が言うのも何だが「見返す」なんてことをすれば多少なりとも後々後悔の元になりがちで、遅れてやってくる共感性羞恥のような部分がある。

それを気にしようとも気にできないというのは、なんとも助かる話である。
どうしても気になるのであれば、焼いて貰えばよろしい。

娯楽としての手紙

手紙を出そうとなったきっかけにもつながるが、私は軽度の文房具オタクである。
一筆箋を選ぶのも、封筒も選ぶのも楽しい。万年筆も使いたい。シールもある。切手も可愛いものを買った。となれば後は使うだけである。

残るハードルは手紙の内容と相手だが、友人に恵まれたのでなんとかなった。
近況を書いても、LINEもすれば通話もする。なんなら会いに行くことすらできる。
もうこれは絵を描くか詩を書くかしかない!ということで、絵が描けない私は詩を送っている。

最初 気まぐれに栞にしていた紙のお香の、香りが薄れたものを一緒に送ったところ好評だったので、手短な香水があれば紙につけて同封していきたい。

なんにせよ、好きなようにシールを貼ったり、使い道のなかった封筒やメッセージカードを使えるようになるというのは楽しく、いい気晴らしになる。

メッセージ性の高さ

詩を送ると言ったが、一筆箋にしたためてしまうと、思いのほかメッセージ性が高くなりすぎてしまうこともある。

ただ好きなので書く。をすると、詩の内容が自分の今の現状と近すぎて悩んでいるように見えるものや、選んだ詩集の中では意味が読み取れるが、単体だと非常に読みにくく、意味が通じにくいものがあったりする。

そうやって推敲するうちに一筆箋がものすごい勢いで消費されていくのは誤算であった。

人に送るというのは、何気なく書く以上にメッセージ性が高まってしまうので注意せねばならないのだなと肝に銘ずるところである。

終わりに

何事も、思い出した時にやる。が一番続くので、楽しくやっていければいい。

手紙に関しては相手が必要なので、この酔狂に付き合ってくれる友人がいることはなんとも恵まれた話であるので、時々でも、季節の変わり目あたりに思い出していきたい。

noteはたまに思い出して更新できているので上々ということでこの話は終わりにする。

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