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表現再考:8月9日、祭禮について

 記念日、記念行事について、考えていました。今日は、長崎の原爆投下の日です。この日のことを何故忘れてはいけないのか?
 悲惨な出来事だったから、犠牲者のため、痛みや記憶?

 確かにいろいろな根拠はあります。犠牲者の数、事態の重さが故に、焦点を当てられている部分もあります。一方では、屠殺されるように殺されたり、天変地異による犠牲は、記念日として記録されたり、祈念されたりしないものは無数にあります。

 記念日や記念行事、平和の祭典などとして表現されたものは何なのか。

 歴史の流れが大きく変わったところ、共に生きるものの歩みとして忘却してはならない事件、それを意識しようとする形式かもしれません。

 何のためにではなく、この道を進むのか、それとも立ち止まって考えるのかという問い。

 いま生きるひとびとを超越したものから投げかけられた問いかもしれません。

 8月6日や8月9日、6月23日、一方では、平和の祭典としてオリンピックが開催されています。オリンピックは、ナショナリズムを高揚させる点で、わたしはあまり好きではないのですが、ひとびとが、交流する場所でもあります。金や銀といったメダルよりささやかな交わりが、憎しみ合い、殺し合いをとめてくれる蜘蛛の糸になるかもしれません。
 オリンピックというのも、背反しかねない二つの方向の分岐のところでなされる問いかけかもしれません。


知り合いがFBに投稿した詩のリンクを添付しておきます。

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