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【画廊探訪 No.135】シニフィエとシニフィアンをつなぐもの――表参道画廊 高柳恵里個展に寄せて――

シニフィエとシニフィアンをつなぐもの
――表参道画廊 高柳恵里個展に寄せて――

襾漫敏彦


 日常的なものを利用したコンセプチュアル・アートに対峙したとき、受け止めたものを、伝えるのは、簡単ではない。そこにあること、そして現われているもの、二つがつながっているから表現が成立するのだが、模写の考え方からすると、空間を支持体として、物を画材として絵画表現をしているともいえよう。


 高柳恵里氏は、表参道画廊での今回の個展で開封前のミネラルウォーターのペットボトルを使った展示を行った。木製のテーブルの上に、2リットルと500ミリリットルと250ミリリットルの製品を、あたかも箱から取り出したまま、きちんと並べて置いた感じである。会議室に用意されたペットボトル、宴会場のドリンクバーの水、作業場の休憩所や避難所に配給された水。様々な記憶が思い浮かぼう。


 空間は、物体によって意味が変容する。そこに足を踏み入れたとき、僕等は新しい意味を発見する。

 発見するものは、何であろうか。物を見た瞬間、僕等は何かを思い出す。強く蘇る記憶は、想像の連鎖を引きおこす。そして、新しいイメージが固まっていく。

 美術は、本来的には、その力を観る者へとゆだねているものである。空間の展示――インスタレーション――は、客体としておかれたものが引き出す主観の世界であり、美学的認識の最たるものかもしれない。つまり、ここにおいて展開するのは、ひとりひとりの個別のスクリーンに映し出される私だけのシネマグラフィなのであろう。


 日常の出会いの差分によって経験は導かれ、それが積み分けられて記憶になる。だからこそ記憶は、具体的なひとつひとつの物との交わりに由来する。けれどもインスタレーションで並べられた物体は、具体性を失った記号としてのものにすぎない。それでも高柳の作品のなつかしさは、彼女の記憶の中にある物体の個別性に心を配っているからかもしれない。

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高柳恵里さんのサイトは見つからなかったのですが、ネットで検索すれば、展覧会毎の紹介やインタビューは見つかります。

自分で探してみてください。


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