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諦めて、諦めて、そして今がある

こんにちは!今日のnoteは、こんなテーマで書いてみたいと思います。

先週に続き年明けから2週連続で、今週もバタバタの1週間でした💧

理由は1つ。グローバルへのプレゼンがあったからです。

とはいえ、今の会社に入り、グローバル向けにプレゼンしたのは1度や2度ではありません。小さいものも含めるとほぼ毎月のようにやっています。それもあって、慣れが出てきているのも実際です。

ただこの年初のプレゼンは、多少緊張感のあるもの。今年完了を迎える大きなプロジェクトに向けた、年初のキックオフとしてのプレゼンの機会。グローバルのリーダーたちも参加するまぁまぁ"ミスれない感じの緊張感のある"ものだったんです。

無事に終わってみて、思うこと。

プレゼン自体はうまくいった。反響もあった。でもやっぱり、上長や周囲に助けてもらって、乗り越えられたな、ってこと。

客観的に見れば、プレゼン力話し方だっていまひとつ。英語力表現力もいまひとつだなって正直思います。自分の能力なんてたかがしれている。そんなふうに感じたわけです。

しかし、結果としてキックオフが成功したのも事実。私という当事者が、自らの言葉でリーダーたちに向けてカタコトながらも率直に、メッセージを伝えることができたからだと思います。

並行して今週は耳読の1週間でした。読んでいたのはこの本。

この本を読み今週プレゼンに臨んだことが、ある意味でグローバルへの説明がうまくいった理由なんじゃないだろうか?って思うくらいです。

為末大さんが、ご自身の経験をもとに、諦めた(あるいは、自ら選択した)ことで、いかに成功や自分らしさを手に入れたか?について書いています。

確かに、私たちは「諦める」という言葉に対して、ネガディブな印象を持ちます。

ただ一方で、この言葉には、冷静に状況を見極め、賢く選択する、という意味合いも含まれているようなのです。実際この本の冒頭にはこんな一節が書かれています。

「諦める」という言葉の語源は「明らめる」だという。
(中略)
漢和辞典で「諦」の字を調べてみると、「思い切る」「断念する」という意味より先に「あきらかにする」「つまびらかにする」という意味が記されていた。
(中略)
「自分の才能や能力、置かれた状況などを明らかにしてよく理解し、今、この瞬間にある自分の姿を悟る」諦めるということはそこで「終わる」とか「逃げる」ということではない。

為末 大 | 諦める力 (P2)

思い返せば今回のプレゼン、私はどこか「諦め」のような感情を持ちつつ臨んだようにも思います。ただ終わってみると、結果的にはそれがうまくいった秘訣だったようにも感じています。

今日のnoteでは、そんな「諦める力」のエッセンスと共に、「諦めること」とは一体何なのか?どんな意義があるのか?について書いてみたいと思います。

諦めた結果、リーダー職に流れついた

周囲の人からすると、挑戦しているようにしか見えないかもしれません。ですが、実際のところは、単に諦めの結果だったように思います。

私これまでほとんどないんですよね。「出世したい!」とか、「リーダーになりたい!」って思ったことが。

良いお給料をいただきたいと思ったことや、自分が活躍できるフィールドを選んで働きたいと思ったことは、もちろん過去何度もあります。

一方で、ポジションに対する憧れって不思議なくらいに、これまでほとんどなかったんです。私は本来、できることなら自分にとって"居心地の良い水槽"の中で、ゆるゆると泳いでいたいタイプなのです。あくまで自分の身の丈にあった凡人レベルでできることをしていたい。

ただ、この自分に合った"居心地の良い水槽"を見つける、そしてそこに長居するというのが本当に難しい。だから、私はキャリアの中でも多くのことを諦めてきました。

  • 最初のキャリアで、トップ営業マンになるのを諦めた

  • カナダワーホリで、英語力を使うバイトに就くのを諦めた

  • 2つ目のキャリアを武器に、マーケ職に就くのを諦めた

  • 子供の誕生を機に、時間外労働/全部自分でやるのを諦めた

探せばもっとあります。いずれにしても、こういった「諦めた」ことを機に、仕事を変え、仕事を選び、働き方を見直し、優先順位づけと取捨選択を行った結果、たまたま今いる場所に流れ着いたように思うのです。

今の会社に入り、チームリーダーの職に就いたことさえ、ある意味で、一般社員として働くことを「諦めた」結果のようにすら感じます。

また、一度諦めたことが今につながっていることもあります。例えば英語。ワーホリの時は、英語力を生かすことをその時点では一度諦めていますが、今は英語を使う仕事に就いています。人生で一度諦めたからといって、未来永劫も諦めるということではないのです。

今回のプレゼンにおける諦め

生まれたときの環境、生まれた場所のような階級をすべて取り払ったとして、人はすべて平等になっているのだろうか。そうではないだろう。

 生まれによる階級がなくても、才能による格差は存在するからだ。生まれながらにして速く走れる人もいる。さほど練習もしないのにサッカーが上手い人がいる。努力しなくても頭がいい人もいる。一方で、できる人の何十倍練習しても、何十倍勉強しても、絶対に追いつけない人たちがいる。どんなに否定しようとも、才能による格差はなくならない。

 僕は、物心がついたときから足が速かった。足が速いから競争に勝つ。勝つと褒められる。だからもっと練習して、もっと速くなろうとする。するとどんどんタイムがよくなっていく。才能があるから努力することが苦にならない、だから人より多く練習できて、さらに能力が伸びていく。僕に走る才能があったから、そういう好循環が生まれた。

為末 大 | 諦める力 (p165)

諦めるとは、苦手なことを手放すことではなく、自分にとっての得意/不得意を分析し、パフォーマンスを最大化するために、何に時間を投下するべきか?を考えることだと思います。

今回のプレゼンで、私は、スラスラとした聴きやすい英語で話すことを諦めました。その代わりに、今の状況を事実をもとに詳らかに話すことを心掛けたのです。

  • 私たちが今までやってきたことはこれらです。

  • ここまで進捗しています。

  • ここからの3ヶ月でやることはこれらです。

  • その先の3ヶ月ではこれをします。

  • この部分に不安があります。そのため、皆さんからの助けが必要になるかもしれません。

  • 予算が追加で発生する場合は、○○までにお知らせします。

拙い英語を使いつつ、こうしたことを想いを乗せて伝えたのです。

プレゼンには、昔から自分なりの自信を持っていました。一方で、英語については、どんなに慣れてきたとは言え、やはり滞りなくといった状況までは程遠い。だから英語は諦めたんです、まぁ要点が伝わればいいや、ってくらいに。一方プレゼンは、得意なスキルをベースに、見せ方にこだわって作ってみた。

上手に話すことを諦めていなければ、今回のプレゼンの成功はなかったのかもしれません。 

自分に期待せず、冷静に状況を見極める

僕の母親は、僕が何か新しいことをやろうとすると、今でもよくこういう言い方をする。

「広島の田舎から出ていって、東京のど真ん中でなんて大それたことを」

この言葉は競技人生を送るうえでも、今でも、僕をすごく楽にしてくれる。期待値が低ければ低いほど、自由にチャレンジできる気がするからだ。
(中略)
自分をほかの誰とも比べることなく「オンリーワン」などと言っているのは、単なる自己満足にすぎない。そもそも自分の特徴が何であるのかすら、他人との比較がなければわからない。まずは「自分はこの程度」と見極めることから始め、自分は「何にでもなれる」という考えから卒業することだ。

為末 大 | 諦める力 (p208)

はっとさせられました。「自分には可能性がある!」、「何にだってなれる!」っていうのは、実は現実を見極められていないってことなんですよね。

ただ幸いにも、私には昔から必要以上の期待を自分にかけない習慣が身についています。それは、学生時代から運動が誰より苦手だったことや、高校や大学でも、有名校の出身でないことなどがある意味影響しているのかもしれません。

結果が出ないのは当然。だって俺だよ!ってw

ですが、これと"何も行動しない"ことは別です。

冷静に今の自分を分析し、勝算のある分野にベットし、アクションする。これが真の「諦める」=「明らめる」なんだろうなぁと感じました。

やっぱり自己の見極めとそれに基づくアクションが大切ですね!

これからも私は、自分への「諦め」を通じて、流れるように自分らしい川下りキャリアを実践していきたいと思います。

読者の皆様にも何かの気づきになれたなら幸いです!

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