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無駄に働き過ぎ+「千年鬼」読了

一昨日と同様、昨日も淡々と用事を進めた日。ただ、無駄の多い用事を進めてしまった気がする。

天気が下り坂なので、シーツなど乾きにくい洗濯は、浴室乾燥機に頼る必要がありそうで止めた。雨が早く降れば、乾燥はほぼ浴室乾燥機頼みになってしまう。

が、止めた意味がないほど他の物を洗濯した。外に出ないならと、冬コートを洗ったりバッグやポーチを洗ったり。浴室乾燥機ばかりか布団乾燥機も、洗ったスニーカーの乾燥機として稼動させた。

洗うことでスッキリしたような気もするがエコには遠い。エコよりSDGsの方が、既に一般的な言葉なのだろうか。文字数はあまり変わらないが、エスディージーズという音は長いので、未だにエコと言ってしまう。

昨日もまた、淡々といろいろなことが片付いたが、思考停止による無駄が多かった。一日、家で過ごしたが疲れた。立ち仕事の時間が多過ぎたのか。昨夏の手術痕には、こんな日は痛みが出るが、更に前の、感覚の薄い手術痕に、ちらりと痛みのようなものが走って驚いた。

無駄に働き過ぎたようだった。

一昨日、寝る前に、図書室で借りた「千年鬼せんねんき」(西條奈加・著)を読み終えた。

借りるつもりでいた「まよパン」シリーズから、あまり離れない場所にあった。時間のないタイミングだったために、選ぶ時間には1分もかけていない。何となくタイトルを目に留めた1冊。手に取り、裏表紙を斜め読みし即決。

良い本を引き当てたなぁと思いながら楽しんだ。時代小説と言うのだろうか、古い日本の世の中が舞台になっていた。私は歴史音痴でよくわからないが、時代というのは江戸時代なのだろう。

ただ、初版は2015年なので古くない。今の人にも響く話だと思った。哀しいが温かい。

気になったのは、言葉の古さ。ダサいという意味ではなく、今の日本にはない社会のシステムや生活からくる言葉が多かった。死語ではあるのだろう。

今の読書人口のうち、どれくらいの割合の人が、それを気にせず楽しんで読めるものなのか。ルビがあっても、読めればわかるものばかりではなさそうだ。

久しぶりに古い言葉の本を楽しんだことで、そんなことを思った。

私自身、古い言葉が多過ぎて読めなかった本が昔あった。おそらく30歳近くで買った「嗤う伊右衛門」(京極夏彦・著)。初めの10ページも読んだかどうだかくらいで諦めた。話の展開はどことなく伝わったが、感情も細かな動きも読み取れなかった。本は、あらすじだけではつまらない。

諦めたと言っても、蔵書として手元には残していた。その頃は、京極夏彦さんの分厚い著書を、たくさん買って何度も読んでいた。

巷説百物語シリーズを、知らない言葉を調べたり、調べなくても何度も出てきたり、何度も読むことで理解を深めながら楽しんだ後、ようやく読めたのが「嗤う伊右衛門」だった。通常のお岩さんの話を知らずに読んだが、面白い小説だった。

国語はどちらかというと得意科目だったうえ、民俗学も面白いと思っていた方だが、それでも、こういった時代設定の本には苦戦したと思う。

過去に苦戦しながらも楽しんだ読書体験から10年以上経ち、苦戦したことも忘れていた。それだけの時間が経っても、別な著者の小説を気軽に楽しめたのだと思うと… ありがたいような、得をしたような。

きっとあの苦戦でレベルアップし、読書力をキープできているということ。
読書力という言葉があるのかは知らない。私は使ったことがない。
ただ、そんな気がした。