見出し画像

見える世界と見えない世界

妹が車椅子になって気づいたことは、町はこんなにも段差と階段に満ちているってこと。問題なく利用できているときには気づかなかった。

車椅子が段差をうまく超えられなかったりして苦戦してると若いパパママが飛んできてくれる事が多い。彼らはベビーカーで苦戦しているから「気づいてくれる」

「困る」という経験をすると視野が少し広がり、困っている人に「気づける」ようになるのだ。以前の私は悪意なく気づいてなかった。ぼーっと座ってぼーっと歩いていた。ベビーカーも大変そうだなと思ってたけどさっと手を出せるようになったのは最近だし、困っている人が視野に入ってなかった。いまや私は大体月に1人、転んだ人を助けたりお年寄りを道案内している。

自分が体験したことがないことを想像するのは難しい。車椅子を作っている間、妹はまだ少し歩けたので電車やバスで通院していた。でもあまり立っていられない。私は優先座席に座っている元気そうな人に「妹は長く立っていられないので、もしあなたが元気なら席を譲って欲しい」とお願いしていた。譲ってくれない人はいない。

でも私がいない時、母は言い出せずに妹と優先座席の前に立っていた。様子を察知して席を譲ってくれたのは妊婦さんだったらしい。申し訳なさすぎて断ろうとしたけど、座らせてあげてと妊婦さんは行ってしまったらしい。泣ける。

大変さを体験している人はわかってくれる、だけどそうでない人にも、伝えればわかってくれると思う。でも忘れる。それはやっぱり体感してないから。だから妊婦体験ができる施設とか、防災センターとかめちゃくちゃ意味あると思う。

でも体験できなくても、痛みや苦しみを想像したい。私には当事者でないことが山ほどあるけど、他者の世界を想像し、受け止められる自分でありたいし、伝え続ける努力もしたい。見えてない世界をあきらめたくない。

最近の同性婚やLGBTを巡る発言を聞いて思ったことでした。

この記事が参加している募集

この経験に学べ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?