臨床【りんしょう】

昨日から臨床実習が始まりました。
臨床実習演習って科目もあり、
で、臨床医学各論って科目もあれば、
今日は臨床医学総論の授業。
2年生になって臨床大会なんです。

患者さんの
床【とこ】に
臨【のぞむ】にあたって

実習で、
演習で、
各論で、
総論で、
学びなさい。
ってことですね。

そりゃそうだよな。
ってのをつくづく感じたりもしてます。

1年生の時は、
(人体ってね、こんなことになってるのよ)
ってのを解剖学とか生理学で学びました。
これが、重かったと言えば重かったのですけど、
覚えなきゃ。
っていう脳への重みであって
ココロには軽快で。
人体の神秘、不思議、合理的すぎる機能、未知の機序
なんかを学ぶんですよね。
ただそれは、
健康体【けんこうたい】として。
カラダが調子良く動いてる様子を角度を変えながら学ぶ。
(スゲー!)
って思うことばっかりでした。

これが2年生になると、
脳にも重いのは同じ。
で、ココロにも重いんです。

患者さんの床に臨むのが臨床だってことなので、
病【やまい】を学ぶわけです。

ワタシは病のデパートだなんて軽口言ったりしてるんですけど、
とんでもないったりゃありゃしなくて、
思ったことだけでも謝りたい。
ワタシがかかった病なんて目アカに満たない。
それはそれは、
知らない病が多い。
そんなこと言ってわかってきたようなこと言ってますけど、
2年生始まってまだ2ヶ月ですから。
小僧丸出しなのに、
病のデパートの入り口で

ちょっと、
足がすくむんです。

病にはそれぞれの
痛みとか不自由とかがあって、
それぞれに
苦しかったり悲しかったり辛かったりってのがあるわけですよね。
病のデパートのは言い過ぎでも、
いろんな病を経験させてもらったものとして、
少なからず理解は出来る。

でも、
そうだろう。
と想像する。
ということを以て理解してるだけで、
結局のところは、
同じ体験はしていないから、

わからない。


(あ、こんなにも自分にはわからない。知らない病があるんだ)
って当たり前なんですけど。
毎日毎日、新たな病に触れるたびに、
病を教科書の文字やイラストや写真でインプットしていくことに、
その病には人が絡んでいて
人には病に伴うココロがシンクロして
なんか、
重くなるんですよね。

辛いだろうなぁ。
って。
でも、わからない。、
想像でしかない。
そんな不確かな想像なんかで、
「辛いですよね」
なんて簡単に言葉はかけられないよな。
って。

お寿司食べればお茶が出てくる。
ってのと同じくらいに
この世に生まれて生きてりゃ病になる。
ってのは、付き物みたいなもんで、
今じゃないかもしれないけど、
いつかはやってくる可能性がほとんど。
でまた、それがいつなのか、
どんな病なのかなんてのも、
何故だか全く選択させてくれない。
病ってそういうものですよね。

ただ、
山のような病を症状を病状を症候群を
勉強していくと
ひとつ。
わかったような気がするのは、
どんな病でも


サインが出てる。

ってことなんじゃないかなって。

サインってなんかカッコつけちゃいましたけど、
(あれ?なんかおかしいなぁ)
ってやつです。
この
(あれ?なんかおかしいよなぁ)
を大事にして欲しい。
(なんか)なんだけど、
(おかしい)んです。

夜中に知らぬ間に麻酔されて、
知らぬ間に悪魔調のメイクの人がお腹開いて
病を埋め込んで逃げていく。
って病の発生の仕組みは
まだ学校では勉強してません(^^)
てか、この後も多分ないはず。
だから、急に病にはならない。

ちょっとずつ、
病を育んじゃう。
すると、

サインが出る。

そのサインに気づくとか見つける。
ってのが健康体をなるべく維持しようとするときに
大切な「技術」なんじゃないかと。
なるべくお医者さんとか鍼灸師とかに世話にならないために。

あえて「技術」としたのは、
簡単には身につかない。
少なからず鍛錬が必要。
だと思っていて、
それは、
「自分の健康な状態を知っている」
という技術。
だと思うんです。

ー血圧
ー体温
ー脈拍
は2年生になってからiPhoneのアプリに入力してるんですよね。
この辺もまだまだ小僧ですが。

ワタシは病のデパートを開きたいわけではなく
ひとまず自分に病を仕入れるのは出来れば避けたい。
この後はいろんな人から、
ココロの動きも含めて病を教えてもらいながら、
患者さんの
床の近くに臨んで、
ココロも軽くしてあげられたら。

そんなことを思う
臨床医学総論でした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?