推しのいる人生って幸せ? 続き

推しができなかった私がなんでだったんだろう?と振り返る話の続き。

前回は自分に推しがいないことを考えるのがテーマです、くらいで終わってしまったので今回は本題。

思うに誰かを推すことって、その対象を喜ばせたいという気持ちかな、と思う。

アイドルのチェキ券何枚も購入するのだって、その子に会える喜びもあるけどその子を自分が支えるんだ、もっと人気が出るようにするんだというものが大きいんじゃないかと。

実際にその子の本音は聞けないにしろ、それを想像して何かしてあげようと。
きっと喜ぶだろうなと。

対象が喜ぶことを考え、それを実行。
普通の人間関係でもあること。

と、いうように考えると自分に推しができない理由がはっきり見えた。
私は現在46歳なんだが、去年ADHDとASDのグレーゾーンであることが判明した。

他人の気持ちを考えられない傾向にあることは何となく自覚していたので、グレーゾーンと言われた時もまあそうかな、くらいの感想だったのだけれど。

ただ最近、自分がアイドルや俳優などを推すまでに至らなかったのは、ASDの傾向があったからじゃないかと思うようになった。
対象が喜ぶことを想像もできないし、考えることもできない。
それに加えて他人に対しての思い入れもない。

ASDの中にコミュニケーション障害が含まれるのだから、そういうことになる。
実際にコミュニケーションを取るか取らないかは関係なく、他人という存在をあまり重要視しないと言えるのかもしれない。

他人の気持ちを想像したり理解するためのソフトウェアがインストールされていない状態と言えるかと。
他人と自分の境界線が曖昧ってわけじゃ無さそう、別になんとも思わないだけで。

そんなの人間関係においてはマイナス要因でしかない。 
人の気持ちを推し量れないのなら、喜ばせることはできない。
悲しませることはできるのに。

ただ、誰かを喜ばせたい、という感情だって独り善がりのものではあると思う。
他人の気持ちを想像するとき、その対象の思いは基本的に反映されない。
その人の気持ちを実際に聞かなければ、事実には基づかないからだ。

その人を好きという気持ち、役に立ちたいという気持ちが自分に良い言動を取らせる。
拗らせれば妄想になり、ストーカー行為や誹謗中傷、果ては暴力などマイナスの方向性に向かう。

どちらにせよ自分の中に人の気持ちを想像するソフトウェアが無ければ生まれてこないものだ。
だから自分は強く思い入れを持つことが無かったのだろう。
そればある意味では良かったことだが、それを楽しみたかった身としては一抹の寂しさを感じる。 


じゃあ、これまでにファンになったアイドルとかいないの?と言われたらいる。

だけど推しだよ!とは言えない。
乃木坂にいた齋藤飛鳥は好きだった。
でも、ライブ行こうとか番組見ようとかは特に思わなかった。
おそらく今後もそうだろう。

仕事がエンタメ関係なので、アイドルにも会える、可愛いなとか思う。
けど推す?推さないよ結局。

そもそも、思春期から現在に至るまで、誰かを心の底から好きになったことが無い。他人の考えを理解できない、良かれという行動を取れない。

とか書いてると、なんかサイコ気取りの厨二病みたいで嫌だ。
でも、案外そう思われる未診断のグレーゾーンの人って多いのかもね。

自分としてはそれで良いと思わないし、むしろ社会生活においてはマイナスと思う、格好いいことでもないし。
自覚のきっかけが無かったのでそのまま過ごしてただけ。

自覚したとて何も変わらないし、変えられない。年相応に世慣れしたので取り繕うことができるようにはなったけれど。


今後も私は何かを強く推すって気持ちは分からないだろう。
でも別にいいやと思う。

だから尚更に思う、推しのいる人生ってどんなもの?

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