つれづれつづり_恋愛観_3

ゲイの恋愛観 - その3

つれづれつづり、テーマ「恋愛観」の第3回。早いもので最終回です。
改めて今回のテーマで書いてきた自分の文章を読み返すと、やけにロジカルで淡々とした印象を受けて自分でもびっくりしてしまいました。
他のみなさんはもっとドラマチックだし、「こんな内容で大丈夫だったのかな…?」と今更少し不安になってきたり。前回の「平成」がテーマの時は、もっと感傷的に書いていたので、余計にギャップが気になる。

まあでも今更方向性を変えても仕方がないので、「ゲイの恋愛観がノンケと異なる3つの理由」の最後の3つ目について、このまま続けます。

1.日常生活における出会いが無い
2.結婚という公的・法的な結びつきが無い
3.子供を残せない

子供を残せない

前回の「同性間では結婚ができない」という問題は、法改正などで解決される可能性は大いにあります。
ところが「同性間では子供を残せない」という点については、もう生物学的にどうしようもありません。養子縁組だったり代理母出産だったり、公的に子供を持つ方法もありますが、純粋に二人の遺伝子を持った子供を持つ術はありません。
もちろんノンケでも不妊や経済的な理由など様々な事情で子供を産めない夫婦もいるし、同性間だけの問題ではもちろん無いんですが、「子供を産むという選択肢がそもそも無い」ということは人生設計や価値観に大きく影響を与えるように思います。

子供の頃に想像していた「幸せな人生」は、「30歳くらいになったら結婚して、家を買って、子供を産んで、幸せな家庭を築き、老後は子供や孫たちに支えられ、家族に看取られながら死んで行く」という、ドラマや映画でよく描かえるようなありふれた家庭のイメージでした。両親と子供二人という、いわゆる「標準世帯」。
それは実際に世の中の大半の人が進む道であり、「幸せの模範的な形」として世間一般では常識のように刷り込まれているように思います。
自分がゲイだと自覚し、社会人になって働き始めた頃から徐々に、「自分は敷かれたレールに乗れず、絵に描いたように幸せな人生は待っていないんだ」ということに気付き始めました。

結婚して子供ができて家庭を持った男性は、肝が座って一皮も二皮も剥けたかのように精神的に成長することが多い。
妻や子供を守り家族を支えるために、今まで以上に仕事に精を出し、昇進や昇給に貪欲になり、自分の趣味にかけていた時間やお金もすべて家庭に捧げるようになる。
子供ができた瞬間に、人生におけるプライオリティの頂点が子供に入れ替わる。それは動物の本能とすら思えるくらい、圧倒的な変化のように感じる。
実際に結婚して子供ができた同期が、今までとは別人のように成長する瞬間も、何度も目の当たりにしてきた。
僕が以前勤めていた会社でも、若い社員を早く結婚させたいのか、「彼女はいないのか」「まだ結婚しないのか」「子供ができたら人生観が変わるぞ」などと、飲み会の度に上の世代のおじさんたちが無神経にステレオタイプな意見を押し付けてくることも度々ありました。
たしかに会社にしてみたら、男性社員は結婚して家庭を持ってくれた方が、パフォーマンスも上がり離職率も下がり、メリットは大きいのかもしれない。

結婚もできず子供も産めないゲイの僕たちにはそこまでの切実さは無い。
その入口となるはずの恋愛においても、そこまで必死になる必要は無い。
結婚式や子供の養育費・学費もかからないので、「男二人が食っていけるだけの稼ぎがあれば別に大丈夫」くらいの考えの人が多いように思う。
老後の面倒を看てくれる子供がいないので、実際は老後の資金はきちんと蓄えておく必要はあるけれども、おそらくそんな先のことまで人生設計をしている人は稀ではないだろうか。
ライフイベントが無く大きな出費が無いため、「出世して収入も職責も大きくなるより、ほどほどの仕事で自由に日々を楽しめるほどの稼ぎがあればいい」といった考えに至ってしまう人が多いのかもしれない。
もちろんゲイの中でも人生設計や収入云々関係なく、やりがいを持って仕事に励んでいる人や、社会貢献や自己実現の為に頑張っている人達もいるのは知っている。それでもやはり、ノンケの同年代の男性に比べると仕事にかける情熱が低い人が多いように感じることが多い。

では、だからといって養子縁組や代理出産を利用して子供を持ちたがるゲイのカップルは多いのかというと、そんなことはない。
少なくとも自分の周りではまったく見かけない。
本当に子供が好きで、社会貢献意識が高い人の中には、そういった生き方を真剣に考える人もいるかもしれないけれど、大多数の人は「子供を持つという責任に耐えれる自信が無い」のではないだろうか。
血縁が無い子供を男親二人で愛情を持ってきちんと育てられるのか。
その子が大きくなって、「どうしてうちはよそと違って、ママがいなくてパパが二人なの?」と疑問を持った時に、納得がいく説明をできるだろうか。
その子がいじめられないように、学校や近所の人たちも含めて理解を得させられるのだろうか。
おそらくまだまだLGBTに対する理解が浅い今の社会では、あまりにも逆風な状況すぎて、とても立ち向かえないと思う。
僕自身は「生みの親より育ての親」という気持ちが強いので、親と子の関係は上手くいくと信じているけれども、やはり現状では家庭外のリスク要因が大きすぎるのではないだろうか。

少し前に、某議員が「子供を産めない=生産性が無い」という主旨の発言をして大炎上していましたが、本当に悲しい発言だなと改めて思う。
産みたくても産めなくて辛い思いをしている人たちも沢山いるし、セクシャリティに限らず結婚や子供の有無に正解がある訳でもないし、他人の生き方にどうこう口出しすること自体が無神経だと思う。
それでもやはり「子供がいる温かな家庭」はマジョリティの幸せの象徴としてこれからも描かれ続けていくだろうし、そういったマジョリティに向けられた広告や施設やメッセージに囲まれて、肩身の狭さと若干の後ろめたさを感じながら生きて行くしかない。
子供がいる家庭とは、お金の使い方も遊び方も違う。子供がいる家庭は子供がいる家庭同士の付き合いが多くなり、子供がいない者はその輪の中に入っても場違いな空気が苦しくなり、次第に疎遠になる。

様々な社会問題や多様性も合わさって、単純に「結婚して子供を産んで温かい家庭を築く」という模範的な家庭が減ってきている時代。(実際に今の日本では標準世帯は全体の5%にも満たず、独り身と子供のいない2人世帯が大多数らしい)
あらかじめ構築された幸せのロールモデルに従うのではなく、どのような幸せを求め、どのような人生を送り、どのように死んでいくのか。それらを実現する為に、能動的に日々を過ごすことが大切な時代なのかもしれません。
僕たちの人生のお手本は身近に転がっている物ではないということを、肝に銘じながら。


おわりに

「ゲイの恋愛観」という主語の大きなタイトルにしてしまった割には定量的なデータもなく肌感覚の話ばかりになってしまったし、僕の交友関係内での感想が多いのでバイアスもかかっており、「自分は違う」と読んでいて感じた人もいらっしゃったかもしれませんが、あくまでひとりのゲイとして30年とちょっと生きてきた中で感じたことを綴ってみました。
最後の方は恋愛観というより、人生観の話になっちゃいましたね…

ゲイだから苦しんだことも多いけれど、ゲイだからこそ人生について真剣に考えるようになったと感謝している部分も少なからずあります。もし自分がノンケだったら、敷かれたレールに乗っかって、人生について深く考えることなく、ありきたりな一生を送っていたに違いない。
命のリレーのバトンを渡すことができず、生きがいを探して苦しみながらも、僕たちは僕たちの生を全うするしかない。

なんだかゲイの生き様って、泡沫のようだなと思う。
大きな川の流れを漂いながら、儚くもきらきらと眩しい。
川の流れ着く先がどこなのかは、誰も知らない。
誰かの生き方も真似しなくても、今を楽しみながら、最後に自分自身が待ち望んだ景色に辿り着ければ、それが幸せなのかもしれません。


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