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くも猫ふわふわ日誌 若者受難記

最近、気圧変動が激しく、台風が来るたびに気分が落ち着かない。テレビはめったに見ない。そんな時にテレビをみると更に頭が混乱する。ツィッターは見る、つい見てしまう、つぶやく。もう見ない方がいいと思いながら、深夜に目が覚めると、ふいにつぶやく時がある。いかんいかん、ツイッターはやめとけ、脳に良くないぞ。僕のような性格の人間はツイッターは危険、同じような連中が、同じようなツィートをし、怒りと不満で繋がり合う。内容のほとんどは社会に対しての不満にみちみちあふれ、増幅し合う。

1回、つぶやいた時、敬愛する作家の逸見庸さんから「いいね!」が付いた。これは感動ものだ。辺見庸さんも最近ツィート始めたらしい。(その内容は呪詛の言葉に満ち、暗く屈折している、何しろ芥川賞作家なのだ。)あと、水俣曼荼羅の原監督からも「いいね!」が2度付いた。これも感動ものだ。

つくづく、若者受難の日々だと思う。僕のような爺さん世代はあと数年でいなくなるわけだけど、若者はそうはいかん。無駄に荷物を背負わされ、足には爺さんがしがみついて、ずるずる前進を阻む。

これはテレビの話で見た話しだが、山口で県議会議員に当選し、街を良くしようと頑張る、学生議員の活動振りを報道されていた。僕の怒髪天は、あるNP0の事務所のオヤジが彼に向かい、「最近全然顔を出さないじゃないか」と小言を言う場面。学生議員の場合、地域NPOのサポート、賛同がなければ議員活動できないのは分かるが、そのオヤジの偉そうなこと。顔を出さないのは、忙しいから顔を出せないのだ。テレビを見ていてこの密度に嫌気がさす。

体制を批判する側にも、その中で体制と同じ、えらそうなオヤジ、爺さんが住み着いているのだ。会社にも、商店街にも、NP0にも。彼らはまず、人の話を聞かない。その「前に、俺の話を聞け」と言う。

つまり若者よ、そんな爺さんの声なんか聴かなくていい…と言いたいが、

目の間に立ちはだかる連中を越えて行くには、作戦が必要なのだ。しかし、そんな作戦考えている時間さえも、もったいない、爺さん無視して勝手にやるのが作戦としょう。

僕がめくる、日めくりの紙の枚数も、多くはない。ツィッターは今夜は止めて本を読もうと思う。

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