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第2節 少女は欠けた月のように

 
「ありがとうございます」
 絞り模様が散らされた臙脂色えんじいろの座布団に座っていた少女は、目の前の卓袱台ちゃぶだいに麦茶の入ったグラスを置かれるとお礼を言った。
「いえ。」
 青年は微笑んで答えてから部屋の奥に行き、文机の上に置かれていた深い萌黄色もえぎいろの座布団を畳へ下ろして、その上に正座した。入口側に座る少女とは少し不自然なくらい距離をとっている。
 そんな青年と文机とを、不思議そうに見比べる少女の視線に気づき、青年は笑顔で口を開いた。
「ああ、色色飾ってあるので。あれがパソコンに万が一落ちたら恐いなと思って、普段はパソコンの上に置いてあるんです。」
「なるほど……」
 壁際の文机にはノートパソコンが置かれており、その上には木の鍋敷きやらぬいぐるみやらがいくつか、壁にかけられ飾ってあった。
「あの、それで――。」
 公園での戦いの後、青年は少女と道すがら話をして、最終的には彼女を一人暮らしの自宅に招くことにした。
 道中で青年はまず、少女がいだいているであろう疑問に答えた。
 自分は木村きむら直輝なおきという名前であること。魔術師だったり魔術使いだったり、秘密裏に何かと戦っている機関の人間であったり、実は人間ではなかったり、そういう特別な立場ではないということ。
 ただ、“UMD”という『少なくとも現代の科学ではありえない事象を引き起こすあるもの』を有していること。先ほどスケルトンの攻撃を受けとめることが出来たのは、その影響であること。基本的に『物理的な刺激であれば気合で耐えられる』のだと思って貰えればまず差し当たって差し支えないと思うということを話した。
 そして、戦闘に関しては先ほど程度のことしか出来ないけれど、もしよければ遠慮せずに、出来る限りではあるが力にならせて欲しいと付け加えた。
 そうこうする内にだいぶ家まで近づいてしまったので、行く当てのないという少女を、直輝は迷いつつも遠慮がちに家に招いたのであった。
 その後は、飲み物はこういうものなら家にあるがどうするかだとか、お腹は空いていないかだとか、そんな話をしている内に名前すら聞かないまま少女を家に上げてしまった。
「――まずはお名前を伺っても、いいですか?」
 直輝にそう言われて、少女の表情が曇った。
 直輝はあわてて口を開く。
「あっ、ごめんなさい。無理にはいいんです。ただ、なんて呼んだらいいかな、って思って……。」
「いえ、違うんです。そうではないんです。そうではなくて……」
 直輝は、弱々しくもはっきりと否定した少女の沈黙に耳を傾け、静かに待った。
「その。私、記憶がないんです」
「……本当ですか。」
「はい。言語だとか、この国の文化だとか、そういった知識はあるんです。むしろ、常識的に考えれば多いのではないかというくらいに。それから、戦闘の知識だとか、そういった技術的なことも覚えています。ただ、私が誰なのか。どうしてここにいるのか。それが、思い出せないんです」
 直輝は少しの間、少女を見つめてから、沈黙を破った。
「そしたら、まずは覚えてる範囲で構わないので、なんでさっき襲われてたのか、教えて頂いても構わないですか?」
「はい。と言ってもほとんどわからないのですが……。
 目が覚めたら、私はあの公園に倒れていたんです。すでに私が誰なのか、どうしてそこにいるのか、わかりませんでした。
 でも、何かやらなくてはいけないことがあって、目的があって、私はどこか遠くからここにやってきたのだということは覚えていました。いえ、覚えていたというよりは、そういう気がしたと言った方が正確だとは思うのですが……。上手く言えませんが、かなり確信めいた感覚なんです。
 それで、後は木村さんも知っての通りです。目を覚ましてすぐ、私は突然現れた十九体のスケルトンに囲まれてしまいました。そこに木村さんが来てくださって、助けてくださったんです」
 直輝はしばし返答を探して沈黙した後、口を開いた。
「これから、どうされるおつもりですか?」
「……正直、わかりません。……あっ。ですが、木村さんにこれ以上ご迷惑をおかけするつもりはありませんので。それは、安心してください」
「……他に、覚えていることはありますか?」
「他、ですか……。えっと、その……。木村さんは先ほど、ご自分のことを魔術師や魔術使いではないとおっしゃいましたが、わざわざそれを引き合いに出されたということは、私が魔術に関係していると気づいていらっしゃるからだと思ってよいのでしょうか」
「……はい。確信、ではないですけど。なんと言うか、半信半疑では、ありますけど……。」
 直輝の返事を聞いて、少女は意を決した様子で口を開いた。
「私は、その、サーヴァントです。それも、信じられないかもしれませんが、普通のサーヴァントではありません。デミ・サーヴァントと言って、人間の体に英霊が憑依融合しているという、特殊な形のサーヴァントなんです。正確に言うと、今はさらに複雑な状態なのですが……」

 ――サーヴァント。
 それは、人々に信仰されている英雄や偉人といった人理に刻まれしもの、“英霊”と呼ばれる存在。
 その一側面をクラスという形で抜き出し、聖杯級の魔力を利用することでやっと、人が使役できる規格にまで落とし込み召喚することが叶うほどの神秘。すなわち、最上位の使い魔である。

「……はい。」
 直輝は少し考えた後、一言いってポケットからスマートフォンを取り出した。SIMフリーモデルのそのスマートフォンには、SIMカード *1 が入っていないので、そのままでは通信ができない。
 直輝はWi-Fi *2 をオンにし、少し待ってから『Fate/Grand Order』を起動してマシュのカードを表示すると、それを少女に見せた。
「……これは! 私の装備とそっくりです」
 そう言うと、少女はおもむろに自分の髪へと手を伸ばした。
「ちょっと、来て貰ってもいいですか?」
「……はい」
 直輝は少女を連れて洗面所までやってくると、壁にかけられた水面と花菖蒲はなしょうぶが描かれた手ぬぐいをどけ、その裏に隠してあった鏡をあらわにした。
 直輝にうながされ、少女はゆっくりと鏡をのぞく。
「あっ……!」
 少女は自分の顔を見て、小さく声をもらした。
 そんな少女に直輝は、FGOのマスターミッション画面を見せる。そこに表示されているマシュの姿は、まさしく今の少女そのものだった。
「……私、なんでしょうか……?」
「恐らく……。」
 直輝はそう言うと、手ぬぐいをまた壁にかけ、少女を再び部屋に通した。
「このゲームの内容と、先ほどの貴方のお話から考えて。恐らく貴方はこの世界に、レイシフト、という手段を使ってきたんじゃないかと思います。あくまでも憶測で、今の時点ではなんとも言い切り難いですが。少なくとも貴方は、こちらの世界にとってはこのゲームの世界の人物、マシュ・キリエライトである可能性が高いと思います。」
 直輝はそこでいったん言葉を切り、少女の表情をうかがった。
 そして、彼女が目の前に提示された信じ難いであろう情報を少しでも処理できるよう、少し間を置いてから言葉を再開した。
「ゲームの内容はネットに上手く要約されてますし、もしよければ、まずそれを読んでみたらどうでしょうか? もしかすると、記憶が戻るかもしれませんし。部分的にでも……。
 それと、今の日本のことも。社会情勢のことも知っておいた方がいいと思います。恐らく基本的な知識はあるんじゃないかなとは思うんですけど。今、世界的に新型感染症が流行ったりしていて、ちょっと特別な状況なので。そういう情報も多少は得ておいた方がいいと思います。」
「……」
 沈黙する少女に、直輝は言った。
「ごめんなさい。一気に喋ってしまって。」
「ああ、いえ! そんなことは……。ただ、少し、なんと言えばいいのでしょうか。驚いていて……」
「そう、ですよね。俺には、察することしかできませんが……。落ち着くまで、ゆっくりしてて下さい。なんだったら、今日はもう寝てもいい、構わないですし。ごめんなさい。布団はこれしかなくて、だいぶ汗もかいてるので……。明日、洗って干しますから、それまで待って頂きたいのですが……。掛布団は最近使ってないので、よかったら使って下さい。畳ですし、フローリングよりは寝やすいかと思います。座布団もありますし。」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。私はサーヴァントですから、睡眠はいりません」
「でも、デミ・サーヴァントなんですよね? だったら、食事も休養も必要なんじゃないですか?」
「……そこまで知っていらっしゃるんですね。……でも、なぜ木村さんはそこまでしてくださるのですか?」
 直輝はしばし、少女の瞳を見つめた。眼鏡のレンズの奥の、あどけない瞳を。純粋な疑問に満ちた彼女の瞳を、静かに見つめ、そして答えた。
「……俺が、そうしたいからです。だから、遠慮しないで下さい。ここで見捨てて、何かあっても嫌じゃないですか。いや、俺は嫌なんです。だから、ただの我儘です。身勝手なお願いで申し訳ないですけど、なんと言うか、だから、遠慮しないで貰えるとありがたいです。それに、あなたがもし本当にマシュであれば、仮にもずっとプレイしてきたゲームのメインヒロインですから。なんと言うか、思い入れもあるんです……。」
「……ありがとうございます」
 少女は視線を落とし、少し頬を赤らめてそう言った。
「……寝るんでも、情報を見るんでも、貴方のタイミングで声をかけて下さい。俺はちょっと、シャワー浴びてきてもいいですか。先、浴びますか?」
「いえ、お先に浴びてきてください。その間に少し、頭を整理しておきますので……」
「わかりました。」
 直輝は微笑んでそう言うと、部屋を後にした。後には一人、少女が残る。
 すぐそこの廊下で直輝がシャワーの支度をしている音こそしているが、部屋の中はとても静かだった。静寂がこだまでもしているかのような部屋の中、少女は自分の中の空っぽを強く意識させられる。
――……マシュ・キリエライト――
 萌黄色のカーテンの外では、快晴の夜空にぽつんと月が浮かんでいた。
 それはまるで、記憶を失くした少女のように欠けていた。

 
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*1:SIMカード:スマートフォンなどにおける電話番号などの契約情報が記録されたICカード。携帯電話としての通話やSMSを利用するためには必須。
*2:Wi-Fi:無線LANの国際標準規格。一般的には、この規格で行われる無線LAN接続の意で用いられる。