不便利屋 エピローグ

開けた扉から吹き込む冷たい空気が暖炉の炎を揺らす。扉が閉まる音に女性の背中が反応した。ゆっくりと立ち上がった後、こちらに振り向いたその顔を見た時、僕の心臓は止まりかけた。そこに立っていたのは、僕の彼女だった。

「え、どうして」
僕の口からこぼれた言葉は、声になっていたかどうかもわからないほど小さかった。
「ありがとう。紙切れに書いた小さな情報を頼ってくれるなんて。でも信じてたから。だからあなたを選んだの」
そういうと彼女はポケットから小さな紙を取り出した。それはあの時、画面越しに見せてくれた「不便利屋」からの案内状だった。
「君が、不便利屋の娘。僕を選んだって、どういうことなんだ」
「長い話になるわ。母のことは聞いたでしょ」
「母って。不便利屋は女性だったのか」
「そうよ。母が最初に助けようとしたのが父。と言っても二人は結婚していなかったみたい。夫婦というよりはフロンティアを率いる仲間。そして二人は愛し合っていた。その結果、生まれたのが私。騒乱の後、私は父と一緒に政府に連れ戻された。そして母は逃げ延びた」
そのあとの話は、さっき村の男が話してくれた通りだった。不便利屋の母は、どんな思いでロボット化した愛する人を残し、娘を救ったのだろうか。
彼女は机の上に置いてあった手帳を手に取ると私に寄越した。
「私はまだ壁の向こうに行ったことがないの。もちろん街のこともリアルには知らない。でも母が、つまり不便利屋が残してくれたその手帳にはいろんなことが書いてあるわ」
渡された手帳のページをめくりながら、彼女の声に耳を傾けた。
「いずれは自分が政府に捕まることを母は分かっていたみたい。で、捕まったあとのことを考えて私にその手帳を残したの」
優秀なプログラマーだった母親は、彼女にITのスキルを教えた。それで彼女は街のネットをハックしてマッチングアプリに侵入、救い出すべき人を探す事に。不便利屋の仕事を引き継いだのだった。
「あなたは、私が救い出した最初の人」
「そういう事だったのか」
壁を越えることができない中でどうやって救い出すことができるのか。自ら行動して壁を越えてくるように仕掛けていくしかない。そう考えて見つけた方法が、僕が辿ってきた旅だった。
「ごめんなさい。騙すような形になってしまって」
「いや、いいんだ。でも僕は、君のことを」
その後をつなぐ言葉を出そうとした僕の口を彼女の唇が塞いだ。センシングスーツで感じていたものとは全く違う、人の温もりと女性の柔らかさがあった。
「好き」
僕がより先に、彼女が思いを言葉にした。
「好きになってしまったの。会いたかった。待っていた」
もう一度、僕は彼女を抱きしめた。

「あ、そうだ。不便利屋の記憶の断片を集めてきたんだ」
僕はリュックの口を開けて絵本を取り出した。
「村で会った男の人が、あ、お母さんが助けた最後の人って言ってた。その人が僕が旅で経験したのは不便利屋の記憶の断片だって。それをダウンロードしてきたはずだって言ってた。それがこれだと思うんだ」
絵本のページをめくりながら、彼女に僕の旅を話した。彼女は母が残した手帳を見ながら、残された言葉と絵を照らし合わせながらの、その意味を確かめた。

地図を捨て得た絵本は自由を表し、絵本になりたい少女は彼女であり、彼女の母つまり不便利屋でもあった。
「不便利であるということは自由であるということだ」

太陽になりたいと言っていた双子の兄弟。人生において歌は太陽であり、被tの心を明るく、そして暖かく照らす。
「喜びのない人生は意味がない」

涙を失った泥棒。悲しみもまた人生において不可欠なもの。
「痛みを知らない人は、他人の悲しみに寄り添えない」

祈ることを忘れてはならない。しかし祈りに頼ってもならないとケンタオルスは言った。「最後は自分の力で人生を切り開いていくのだ」

農夫のつくったおにぎりは自然への感謝と食べてくれる人への愛情を結んでいた。
「自然の命をいただいて人は生きている。感謝を忘れるな」

人生とは何か、人とは何か、不便利屋が残した記憶の断片は、効率化優先の便利な世の忘れ物だった。そしてそれは僕の忘れ物でもあった。

「最後のページは、真っ白で何も描いてない」
僕は絵本を彼女に渡した。
「沈黙ほど雄弁なものはない。時間と空間は無ではなく、千の言葉がそこにある」
手帳の文字を読むとページをめくった。
「お母さん」
彼女が小さな声で呟いた。僕は彼女の背中越しに真っ白だったはずのページを覗き込む。
そこには、僕を壁のこちら側へと導いてくれた年老いた女性の顔が加えられていた。
僕たちは顔を見合わせ無言で時を過ごした。心と心は、声に出さずとも千の言葉で通じ合っていた。そして手を取り合って外に出た。すっかり日は暮れていたが、雪原は青白く輝いている。見上げると、夜空には下弦の月が浮かんでいた。


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