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【短編小説】バスドライブ

母からの言いつけはいつも絶対だった。住民票の写しが必要だというので、市役所までの道中、バスに乗ることになった。市バスに乗るのは約10年ぶりのことだ。 面倒なことはなんでも決まって僕の役回りになっていた。
車窓からは車内たっぷりに暖かい日差しが指し込んでいた。乗客はみんな、うつらうつらとしていて、ゆっくりとした時間が流れていた。
自分の頭の四倍はあろうかという大きなリュックサックを背負いながら、老婆がじっと腰掛けていた。 小学生の親子連れは、紙袋の音を煩くクシャクシャさせながら、調理パンを無心でかじっていた。それから、全身黒ずくめの大柄な男。黒のスーツに大きなサングラス、そしてハット。 一昔前のギャング映画を彷彿とさせる風采のこの男も、昨今では特に珍しいというわけでもない。
「どちらまで?」
ふいに、その男が僕のシートの隣席へ腰掛けて口を開いた。突然のことで、僕は怪訝そうに男を見た。見ず知らずの他人から、自分の行き先を尋ねられる事など、日常生活の中でいったいどれくらいあるだろう。職務質問を受けたような感覚だった。
「ちょっと所用で市役所まで」
 少し間を置いてから、男は静かに言った。
「それは奇遇ですね。私もちょうど、同じ事を考えていたところです」
 奇遇という言葉が妙に引っ掛かり、思わずついてでた返答は、
「奇遇って、こんなときに使う言葉なんですかね」
 挑発するような言動。
「では何と言えば?」
「失礼ですが、初対面なわけですし」
すると男は僕の話を遮るように、
「ちょっと待ってください」
 今度はとても困惑したといった様子で、突拍子のないことを口走った。
「その鞄。あなたのお持ちのその鞄のことです。もしかして、私の鞄ではありませんか?」
男は顔を近づけて、僕の持っていた手さげ鞄を、まじまじと舐め回すように見つめると、不審げに言うのだった。
「まさか。これは僕の鞄です」
 一体、何だというのだろう。朝から持ってきた鞄を突然、自分の鞄だと主張するなんて。あまりのことに面食らい、なにがなんだかわからなくなった。
「いえ。世の中にこんな事があっていいものだろうかと私自身も信じられないのですが、私が失くした鞄と瓜二つなのです」
「なにかの間違いですよ。この鞄は今朝方、僕が家から持ってきた鞄なんですから」
 しかし男は簡単に引き下がる様子も見せず、
「では、証拠は?あなたの所有物であるという確かな証拠があるというのですか?」
「なんで初対面のあなたに、僕が証拠を提示しなきゃならないんです?」
鞄の中には煙草とライター。それにメモ帳とボールペンが一本。それから、さきほど古本屋で買った文庫本が2冊。
男は呆れたように続けた。
「ほら。どれも誰もが持ちえる物ですし、あなたの所有物だと決定づける証拠はどこにもありません。私が10年前に失くした鞄とそっくりなのです」
「10年前って。そんな古い鞄、とっくの昔に朽ち果てているんじゃないですか。これは紛れも無く僕の鞄ですから」
「だが、証拠が無い」
「じゃあ、あなたの物だという証拠が、あなたにはあるというんですか?」
「よろしい。少しその鞄を検めさせてくださいませんか?」
僕は言われるまま、男に鞄を手渡した。所詮、証拠など出てくるはずが無い。これは僕が使ってきた鞄なのだから。
すると男は、おもむろにポケットからサインペンを取り出すと、こともあろうか僕の鞄に何事かを書き付けてしまった。 大きな字で『山田太』と記入したのだった。
「ちょっと、なにするんですか僕の鞄に!」
「これがその証拠です。私はヤマダフトシ。ほら名刺だってあります」
男が差し出した名刺には、確かに山田太という名前が記されていた。
「今、あなたが書いたんじゃないですか!一体どういうつもりなんですか」
男は唇の端をヒクっと吊り上げて笑うと、大きなリュックを背負ってうつらうつらとしていた老婆に向かって言った。
「お婆さん。ここに私の名前が書いてある鞄があります。私は山田太。免許証、保険証をご確認していただければいい。私が山田太であることを証明する物はたくさんあります。これは確かに私の鞄です。異論はありませんね?」
老婆は皺だらけの目を薄く開いて、面倒臭そうに答えた。
「そうさね、そりゃああんたの物だよ」
 と、一言だけ言うと、老婆は再び目を閉じてしまった。
「ありがとうございます。さて、証言も得た事ですし、証拠は整いました。今、この場にあるのは、これは私の鞄だという事実のみです。世間の一般常識に照らしてみても、疑う余地もございませんね」
 男の一方的な論調にあきれ返ってしまった。
「馬鹿馬鹿しいにもほどがある。呆れて物が言えなくなるとはこのことだ。こんな馬鹿げた理屈が世の中でまかり通るとでも思っているんですか。信じられない」
「信じる信じないは、単にあなたの主観でしょう。今、ここにある事実は、あなたには証拠が無いということ。あなたの所有物だとする証拠は一切ないということ。そして一方では、私には確固たる証拠があるのです」
 男は確信めいた表情を浮かべ、言葉には自信がみなぎっていた。
「家に帰れば妻が証言してくれますよ。去年、一緒にこの鞄を買ったのを覚えているはずです」
 と、男は涼しい顔で、
「同じデザインの鞄なんて、世の中無数にあるものです。肝心なのは、サインがあるのか無いのか、ということのみです」

どうやら、このままでは埒が明きそうもない。僕はとうとうバスの運転手に助けを求めることにした。
「ちょっと運転手さん、この人頭がおかしいです。僕の鞄を取り上げて一方的に自分の物だというんです」
すると、しばらく間が空いてから、静かにそして低い声で運転手が言い放った。
「お客様、運転中は車内を歩き回らずに、シートにお座りください。つい先日、スッ転んで頭を打ったお客様がいて、社内ではちょっとした問題になっているのです」
 運転手の予想外の返答に狼狽し、
「だから、この人が僕の鞄を取り上げようとするんです!」
 しかし運転手は表情ひとつ変えることなく、
「座ってください、とお願いしているんです」
機械的に、そう繰り返した。
「だけど僕の鞄が・・・」
 未練がましく訴えると、運転手はひとつ大きなため息をついて言った。
「鞄の一つや二つ、無くたって死ぬわけでもなし。乗客の命を預かって365日。こうして毎日安全運転だけを心掛けて運転業務を行っている私からみると、鞄ごとき、とてもちっぽけな事のように思いますがね。いえ、すいません。つい本音が出てしまいました。根っからの正直者なんで、損ばかりしています。世渡りが下手で、いつも夫婦喧嘩の種になってしまって」
 どいつもこいつも、一体何を言っているのか。
「いいですか。僕の鞄が盗られたんですよ。車内で公然と強奪が行われたんです。これがちっぽけなことだとおっしゃるんですか」
「まあ、落ち着いてください。とにかく」
 運転手は平然と言った。
「これが落ち着いていられますか。運転手さん、あんたもおかしいよ」

ベキッ!

何かが潰れるような音がして、バスが大きく揺らいだ。その拍子に、親子連れが食べていた調理パンが、軽やかに宙を舞い、焼きそばが分解して辺りに散乱してしまったのだった。
「ほら。だから、言わないこっちゃない。犬を轢いちまいましたよ。お客様、次のバス停で降車願いますよ。まったく。訴えたいのはこちらの方です」
「だから、僕の鞄が!」
 そのときだった。横から鼓膜を切り裂くほどの金切り声が響いたのだった。
「いい加減にしなさいよ。あなた一体、どういうつもり!」
横から口を挟んできたのは、先ほどまで黙々と調理パンをかじっていた親子連れの母だった。
「焼きソバが、こんなに飛び散っちゃって。まだ半分以上も食べられたのよ」
 一瞬、僕は呆気にとられて言葉を無くしたが、すぐさま体勢を立て直し、
「焼きソバなんて今はどうだっていいでしょう!僕の鞄だよ、今は」
「焼きソバがどうだっていいですって?焼きソバがどうだっていい?いったいどうゆうことよ。あなた、食べ物を粗末にしてもいいと育てられたわけ?」
 ヒステリックに責め立てられた勢いに屈してしまい、
「そうじゃないけど」
「でしょう。あなたのお母さんだって、きっと同じ事を言うに決まっているわね。食べ物を粗末にするような罰当りな事は許さない。丹精込めてキャベツ作った農家の方々、美味しい麺やソースを開発するのに尽力した人たち、そして何よりも焼きソバというメニューを考案した方に感謝しなければ、あなたに食べ物を食べる資格なんてない」
「私は焼きソバ、大好物ですけどねぇ」
と、先ほどまで、黙っていた黒ずくめの男。
「元はといえば、全ての原因はあなたでしょう。いい加減に返してくださいよ、僕の鞄」
「あなたも物分りが悪い人ですね。これは私の鞄だと、言っているでしょう」
「運転手さん!お願いしますよ、この人どうにかしてよ」
「到着しましたよ、バス停」
運転手は機械的に、フロントガラスを見ながら無感情に言った。
「そろそろ降車願います。ダイヤが乱れますので」
「そうよ、こっちも急いでいるのよ。早く降りなさいよ」
「それでは、御機嫌よう」
と、黒ずくめの男。

僕はなんだか、急激に脱力感に捉われた。一歩一歩、出口へ向かって歩いたが、未練がましく後ろを振り返り、
「そうだ、お婆さん。そのリュックサック、僕のリュックサックじゃないかな。一昨日に失くした、僕のリュックサックじゃないだろうか」
老婆は眠たい目をこすりながら、顔をこちらへ向けた。
「中身を検めさせていただきますよ」
僕は乱暴にリュックサックを開いて、中身を取り出した。中からは、形の良い大きなメロンがひとつ、出てきたのだった。
「ほら、このメロン。どこにだってあるメロンじゃないか。僕が昨日八百屋で買ったメロンそのものだ」
「ねぇ、皆さん。このリュックサックは誰の物かなんて、今はわかりませんよね。名前が書いていないんだから。ですが、これから僕の物になるんですよ」
運転手も、親子も、黒ずくめの男も、成り行きを見つめながら、ただじっと、黙っていた。
僕は乗客全てに披露するように、メロンを高々と持ち上げてみせた。 ここで僕が自分の名前を書き込みさえすれば、僕の物になるのだ。
得意になって、メロンをゆっくりと一周させていると、これまで黙々と調理パンをかじっていた小学生の男の子が、突然、甲高い声を車内に響かせたのだった。
「たなかちえ!」
「え?」
メロンには、黒のマジックで、はっきりと、名前が記されていたのだった。
黒ずくめの男が、含み笑いとともに言った。
「そのメロンは、確かにそのお婆さんの物です」

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