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ほろ苦かった初めてのオンライン読書会

僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルーの読書会がありました。自分自身としては反省点が非常に多かった読書会でした。

個人個人に意見を出し合えるのが読書会のはずなのにどこか正解探しを自分の中でしていて、無難なことを言ってしまう。あるいは他の参加者のレベルの高さに圧倒されまいと、無理矢理合わせようとして結局まとまらないことを言ってしまう。

本当は自分の中にある意見やモヤモヤをもれなくアウトプットして、その批評を浴びる。それが読書会の醍醐味だったりすると思う。

具体的には参加者の方々が口々におっしゃっていた、ブレイディーみかこさんは息子さんをとても信頼している。というのが実は少し引っかかっている。

ブレイディーみかこさんが息子さんをとても尊重しているとは思う。ただそれはイコール信頼なのだろうか。尊重する=信頼ですよと言われたらそれまでなのだが、私の中ではイコールに感じない。

私の中の信頼と言う言葉のイメージを深掘りしてみたいと思う。

例えば急に気絶したときにそばにいる相手がきっと助けてくれるだろうなぁと他者依存的な信用が信頼のイメージである。自分の力を抜いて相手に完全に身をまかせられる。相手がきっと良いようにしてくれると言う完全に頼るイメージである。

11歳の体の小さな中学生に母親が「信頼している」と言うのが上記のイメージに結びつかない。

相手を人間として認めている「尊重」と言う言葉が私にはしっくりくる。


この言葉の選び方問題は正直取るに足らないことだ。問題なのは、私が疑問を感じたなら、なぜそれをライブで言えなかったかということだ。


参加者の方々が母親が息子を信頼していてすごいよねーと盛り上がっている中であえて水を差すようなことを言っちゃいけないなぁと言う一種の忖度をしていた。

小学生や中学生の頃、空気の読めないような一言を放って場を凍らせたことが何度かある。意図的にやっていたわけではないが、それを今回はできなかったわけだ。おそらく痛い目を何度も見ながらある意味「正解」を学習してしまって、つい「正解」探しをしてしまうクセが顔を出したのだろう。

あるいはいい顔していたいみたいな。


他人軸の「正解探し」をしているうちに自分の五感は非常に衰えてきていたなぁと思う。

ここ数年は妻の助言もあり読書を生活の中で重要なウェイトを持たせて、以前よりは知識量も増え発想の幅も広がったと思う。そのうちの一つで五感の重要性というのも認識はしている。五感を研ぎ澄まして「自分軸」を磨き、自分なりの答えにたどり着く工程が大切だ。

「僕はイエローで」の息子さんはこの自分軸がかなり太く強固である。それ故、目の前で起きる事に対して他人の解釈ではなくて自分の解釈で判断する思考ができている。表紙の裏に「子どもは全てぶち当たる」とあるが、彼はそれらを糧にして今後大きく成長するのだろう。


今の時代は「意味合い」が重要なフェーズなんだと思う。目の前で起きていること、今自分がやっていることにはどういう意味があるのかということを常に自問自答する。

おそらく正解はないが、自分で納得解を導き出す。時間が経てばその納得解を変化させることができる柔軟性もまた必要になってくる。

考える事は非常に疲れるし、めんどくさい。そのため世間では単純な二項対立があちらこちらに存在する。こっちが正しいのだから、あっちが全て悪であるみたいなものである。これはおそらく「私たち」と「あの人たち」と区別が太古の昔からの意識がDNAが根深くあるのだと思う。

3歳児ぐらいのピュアさがあれば、区別=差別はしないだろうし、概念すら無いのかもないかもしれない。ただ現実的にはアラフォーの私には難しい。


ホモサピエンスが生き残れたのは好奇心と慎重さと虚構を作る能力が要因だとよく言われる。

「常識」と言う虚構と「周りと同じことをする」と言う慎重さには日本人は長けていると思う。

普段はない衝動に駆られて行動するのが「好奇心」である。好奇心を100%だとおそらく大変な火傷をすると思うので、「慎重さ」とのバランスが必要であろう。

多くの人が好奇心にブレーキをかけすぎているので、もう少しアクセルを踏み込む勇気が必要だと感じる。


他の人がしている区別に疑問を持ち、自分の好奇心を加速させる。そうすると昨日まで見えていた風景が今日は違って見えるかもしれない。

中学生の彼は自身の違和感に向き合い、言語化に努めている。

中学生の彼に尊敬の念を抱きながら、彼のように在りたいと願うばかりだ。

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