見出し画像

スピンオフ

 制汗剤の青い香りがあたりを優しく漂っていて、終わりかけの夏特有の生ぬるい風が僕らを包んでいた。

「今日があなたにとって最後の日でも、あなたはこうやって私と歩いてくれる?」
彼女はそう言った。その言葉は絶えず心の内側で熱を持ち、振動を続けている。部活でへとへとになった僕らは、痛いくらいに真っ直ぐな西日に向かって、田んぼの間の舗装道路をゆっくりゆっくり歩いていた。肩にかけたエナメルバッグからは水筒の氷がからんころんと音を立てていて、彼女が押す自転車の車輪はさらさらと回転していた。そのディテールのどれもが、あらゆる物事よりもずっと価値のあるものに思えた。どこまでもキラキラとしていて、視界の隅に映る土手の草木も、どんなものだって等しく鮮やかに感じられた。あの日のあの瞬間には何の価値もないものにしか感じられなかった全ては、10年経った今では僕をこの世界とつなぐ、たった一本のか細い線となっていた。いろんな意味づけと色付けがなされてぐちゃぐちゃになったその光景は、もう2度と戻ってくることはないのに、今もまだ僕を捉えて離すことはなかった。

 その5年後、彼女は客の子を孕み、近くの廃工場で首を吊った。19歳の夏、世界は僕から全てを奪い、僕はまた1人になった。僕はきっとそのとき死んだのだと思う。それからの僕の生は、退屈なスピンオフに過ぎない。緩慢と流れる27年の月日を俗物のように生きた。奪われた全てを奪おうと、それだけを考えていた。


 娘はアクリル板越しに俯き、目を赤く晴らしていた。僕は慎重に言葉を選ぶ。
「僕は君のことを恨んだりなんてしてないよ。それだけを言いに来た。僕はあの日君に刺されるべきだったし、そこで死ぬべきだった。君は決して間違ってない。」
彼女は僕を睨むように一瞥して、また部屋の隅に視線を戻した。
「僕は多くの人を傷つけてきた。思い出せないくらい多くの人をだ。君のことだってそうだし、君のお母さんのこともだ。そうやって僕はお金や地位や尊敬を得た。とても汚い手で、汚いやり方で。そうやっていろんな人のことを致命的に傷つけてきたんだ。君に刺されて気づいたのは、禊がれるべき僕の罪だ。君にはその権利がある。だから決して後悔なんてしないで欲しい。本心からそう思う。」
僕は少しだけ深く息を吸った。堅い緊張と沈黙に包まれたこの部屋の居心地はあまり良くなかった。娘は震えた声で「後悔なんてしてない」と小さな声で言った。
それでいいと僕は思った。

 彼女は出所してすぐに首を吊って死んだ。暗闇が支配する深夜2時の小さな部屋で静かに彼女を終わらせた。僕は大切にしなければならない人間を2人、似た死に方で失った。


 娘の葬儀が終わると、僕は足早に立ち去った。そこに僕の居場所は無かった。近くの川の堤防にに腰掛け、煙草を吸った。夕暮れの空はよく曇っていて、娘の煙は既にその中に溶けていた。川の流れは穏やかで、夏の匂いがした。堅いパンプスの底が階段のアスファルトにぶつかる音がして、振り返ると、そこには妻が僕の少し上の段に立ち、煙草に火をつけていた。娘を失った彼女の苦しみを表すように、彼女の頬はこけ、深い悲しみが全身を覆っていた。
「やめたんじゃなかったの?」
「お願いだから話しかけないで。」
 彼女は、煙にむせて咳きこむ。副流煙からはほのかに甘い香りがした。彼女は小さな声で話し始めた。よく耳をすまさなければ風に飛ばされてしまうような、そんなかぼそく震える声だった。
「あの子を殺したのは私たちだよ。あの子があなたを刺したのは、私がずっとあなたを憎んでいたからだと思う。あの子は私をいつも自分のことのように励ましてくれた。自分のことのように胸を痛めてくれた。でも、それがいけなかったんだと思う。」
彼女は座り、脚を組んだ。
「あなたはあの子を憎むべきだった。それなのになんで優しくなんてしたのよ。あの子はあの子の前を見失って、もうどこにも行けなくなってしまった。あの子に生きていてほしいと思うんだったら、お前なんて産まなきゃよかったと言ってあげなくてはならなかった。」
「そんなこと言えないよ。」
「そうね。私だって言えない。」
彼女は遠くを見つめていた。視線の先のグラウンドからは断続的な金属音が聞こえた。
「あなたはずっと怯えてる。幸せであり続けること、それを信じることができないんでしょ?失うことばかり考えて、それが怖くて、だから繋ぎ止めようとしない。傷つこうとしない。あなたは心の底では何も持たないことを願ってる。あなたが身を投げ出して私達を愛してくれていたなら、私たち3人は今もきっと一緒にいられた。欠ける所のない世界がきっとあった。」
「そうだね。その通りだと思う。」
彼女はパンプスのかかとで煙草の火をもみ消した。
「それだけ言いたかったの。じゃあね。もうニ度と会わないと思うけど。」
そういって堤防の階段を登り、2度と交わることのない道に消えて行った。僕はしばらく動けなかった。僕のすぐ前には死んだ蝶が1匹横たわっていて、その周りを羽の欠けた蝶がパタパタと飛んでいた。決して離れぬように静かに飛んでいた。僕はそれを長い間ぼんやり眺めていた。そうやって僕は僕の人生を、失い過ぎ去った全てを、ただ見つめることしかできなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?