ポール・ディラックの原論文を読んでみよう(1927年:生成消滅演算子)
マッチを擦ると火がつきます。つまり何もないところにいきなり光が生じるわけです。
そこに息を強く吹きかけると、マッチの火が消えます。つまり光がいきなり消えてしまいます。
皆さんもご承知のように、光の正体は、電波です。正しくは電磁波といいます。WiFi や GPS の電波が、お日さまの光と同じものというのは感覚的にピンとこないでしょうが、人間の目玉は電磁波の、ある特定の周波数帯のみ感知するようにできていて、ほかの周波数のものは感知しないので、「光」と「電波」を別物としか認識できないのです。
電波、正しくは電場と磁場が組み合わさった電磁場の波「電磁波」といいますが、これの研究が19世紀のヨーロッパで大発展しました。ボルタ電池が19世紀頭に実用化されたおかげで、電気についての研究をじっくり行えるようになったおかげです。それに数学の発展も追い風になって、電気それに電磁については数学的体系化が進みました。いわゆるマクスウェル電磁気学です。マクスウェルの死後、彼の研究をいろいろな科学者や数学者たちが洗練させていったのがこれです。
ただ、この電磁気学では、先ほど述べたマッチを擦って光(電磁波)がいきなり現れる現象や、マッチに息を吹きかけて光がいきなり消えてしまう現象については、うまく数式で語れなかったのです。
マクスウェル電磁気学では、電磁波つまり光について「波」として扱っています。波は、途切れなく続いていくものです。一方で光っていきなり現れたり消えたりするので、波として扱うと、うまく説明できないわけです。
ここのギャップをうまくつなげてみせるのが「生成消滅演算子」という技です。詳細は、検索すれば解説がどっさり出てくるのでそれにあたっていただくとして、要点だけ述べると、波であるものを粒子として数式化できるという、そういう演算子です。
これ、大学で量子力学を習うとき、割と早めに出てくると思います。そのくらい重要な技というわけです。ただ、天下り的に習わされるので、ほとんどの方はその唐突さに戸惑います。
そのうえ教えるひとたちもよくわかっていないのですよ。聞いた話では、ある数学者さんはこれを学生に教えるとき「よくわからんが物理学者がこういう数学テクニックを編み出したそうだ」と軽く触れて、後はひたすら証明を黒板に書き散らしていくなんてことをしていたそうです。
「よくわからんが」はないですよね。私もずっと気になっていたので、調べてみました。誰がこんな簡明な技を、どうやって思いついたんだろうって。
計算テクニック自体は19世紀後半にすでにあったようです。電気工学の奇才・ヘヴィサイドが実用化しています。この方はかなりの変人で、数学的厳密さに欠けるという批判に対して「食事をするとき、自分の食べたものが体内でどんな風に消化されているのかいちいち知ったことではない("I do not refuse my dinner simply because I do not understand the process of digestion.")と言い返したそうです。あはは。
しかし粒子と波の理論を相互変換する数式として活用した最初はというと、20世紀以降ですね。いろいろ検索して、文献にもあたってみて…
突き止めました。数日前にこのブログですでに紹介済みの、ディラックの論文でした。1927年2月の論文 "The Quantum Theory of the Emission and Absorption of Radiation"。日本語にすると「放射線の放出と吸収の量子論」。ここでは「放射線」と訳しましたがニュアンスとしてはむしろ「光」に近いです。
この論文の中に、なるほどくだんの演算子とおぼしいものがでてくるのですが…
論文の全文に「creation」(生成)と「annihilatio」(消滅)で検索を賭けてみたのですが、出てこないのですよ。
このディラック論文は、ハイゼンベルクの不確定性原理が提唱されるより少し早く世に出たものです。この原理(それからボーアがこれ以前より提唱していた「対応原理」)がわかっていれば、論文中で q-number とか c-number とか出てくる理由がイメージできるのですが、知らないと何が何だかわからない、そういう難解さがあります。
この論文を整理してみせたのは、パウリでした。あのパウリです。ご自身ではそれほど論文を出さなかったけれどひとの論文のチェックについては法王さまのように厳格で、抜きんでた洞察力を発揮したという、あのパウリです。ディラックによる、光波をデジタルに可算可能とする数学技を「生成消滅演算子」に整えたのがパウリだったのかどうかはわかりませんが、とにかくこの論文の難解さをほかの学者たちがかみ砕いていく過程でそうなっていったのだと推察します。
ところで調べてみるとディラックとほとんど同時、いや刊行はもっと先だったという、同種の論文があります。彼と同じくイギリスの科学者ジョン・スレイター(John Slater)が1927年1月に刊行した「Radiation and Absorption on Schrödinger Theory」(シュレディンガー理論における放射と吸収)。あはは、タイトルもよく似てますね。ディラックがかなり後になって回想した話によると、彼もまたシュレディンガー方程式をあれこれいじっているうちに思いついたのだそうです。
ただスレイター論文は6頁足らずのもので、ディラック論文は同じアイディアを使いながら、その先までずんずん進んだ内容でした。そのせいかスレイターのものは今ではあまり知られていないようです。彼は彼でディラックの論文を読んで賞賛したものの「彼の論文は、私にとって敬遠したくなるような類のもので、はっきりいうと、これはいらないだろうと思うような、形式に偏った数学がこれでもかも押し込められたものだった。」 ("His paper was a typical example of what I very much distrusted, namely one in which a great deal of seemingly unnecessary mathematical formalism is introduced.")と腐しています。
繰り返しますがディラックのこの論文は当時としては少々先を行き過ぎていて、消化するのに少々手間がかかるものでした。なにしろ著者そのひとがこの後自分の研究を理解しきれず、今となってはアサッテな主張「ディラックの海」を繰り出してパウリやオッペンハイマーから「Crap(あほや)」と言われてしまったほどです。後の話ですけどね。念押ししておきますが今回検証している論文じたいは壮絶優れものです。
以下は論文の三頁目より。
以下は DeepL による日本語訳:
ここでハミルトニアン(1)に(古典論から引き継いだ)相互作用項を加えれば、量子力学のルールに従って問題を解くことができ、放射線と原子が互いに作用する正しい結果が得られると期待できる。 実際に、放射線の放出と吸収に関する正しい法則と、アインシュタインのAとBの正しい値が得られることが示される。 著者の以前の理論では、放射線成分のエネルギーと位相がc数であったため、Bの値しか得られず、放射線に対する原子の反応を考慮することができなかった。
「アインシュタインのAとBの」とあるのは、1917年の論文 “Zur Quantentheorie der Strahlung”(放射線の量子論)のことです。[追記 正しくは 1916年の論文] 今でいうレーザーの原理です。詳しいことはここの二頁目に解説があります。
この論文と同じ結果を、さらに進んだメソッドで我(ポールくん)はやり遂げたぜベイベー!と高らかに宣言しているのです。
続きを見ていくと…
以下は DeepL による日本語訳:
また、原子と電磁波の相互作用を記述するハミルトニアンは、粒子の相互作用エネルギーを適切に選択することによって、光速で運動しアインシュタイン・ボーズ統計を満たす粒子の集合体と原子の相互作用問題のハミルトニアンと同一にすることができる。 粒子のハミルトニアンの力学変数として使用できる、任意の運動方向とエネルギーを持つ粒子の数は、波のハミルトニアンの対応する波のエネルギーの量子の数に等しい。 このように、相互作用の波動記述と光量子記述の間には完全な調和がある。 我々は、実際に光量子の観点から理論を構築し、ハミルトニアンが波のハミルトニアンに似た形に自然に変換されることを示す。
この理論の数学的発展は、著者の量子行列の一般的変換理論によって可能となった。 時間をc数として数えるという事実のおかげで、任意の瞬間の任意の動的変数の値という概念を使うことが許される。
c数(c-number)というのは古典物理のことと思えばいいです。彼がこのときまさぐっていた量子物理は q数(q-number)の統べる世界であり、q数で計算した結果を c数にすると、アインシュタインが前に計算した結果と一致するぜいっ!と。
波と量子は両立できるぞ宣言です。「このように、相互作用の波動記述と光量子記述の間には完全な調和がある」(There is thus a complete harmony between the wave and light-quantum descriptions of the interaction.)
もっとも後に、c数とq数の入り乱れについては、波動関数が前者で量子場が後者を表すものと、パウリ&ハイゼンベルクの二人によって整理されていくにつれて、ディラックは先頭ランナーから後退していくこととなったのでした。
おまけ:生成消滅のアイディアは論文発表の前年である1926年、つまりコペンハーゲンのボーア研究所にいた頃に固めていたようです。
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