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#5 「道徳性の発達」と、「欲望-関心の中心点」と、「才能」と。【前編】

みなさん、こんにちは。
今日は〈欲望-関心〉の中心点を見つけ、その輪郭をはっきりとさせていくためのhowの1つを、“よい教育”の実践理論につなげるカタチでここに考案していこうと思います。

これまでは哲学に基づいた「そもそも“よい教育”とは?」などという問いを中心に扱ってきましたが、このnoteでは“よい教育”を実践するためのhowにまで抽象度を落とし、文章を綴っていきます。

まずは、いつもの通り“よい教育”の定義に立ち返るところからスタートします。

【“よい教育”の定義】
すべての子ども達に〈自由の相互承認〉の感度を育むことを土台に〈自由〉に生きるための力を育むこと。

ここにある〈自由〉の定義の中には「欲望」があるからこそ、〈欲望-関心〉に目を向けていくことが大切なことはこれまでも述べてきました。

〈欲望-関心〉を出発点にした「なしたいとなし得るの一致の感度」こそが、〈自由〉を私たちに感じさせるものです。

ここで“よい教育”の実践理論を考えるために、以下の問いと向き合ってみます。

子どもが自覚をしている〈欲望-関心〉を出発点にした学びは、確かに定義上〈自由〉に生きる力に繋がっている。では、そこに限界があるとしたら何なんだろう。
私たち自身の人生を振り返って考えてみると、顕在意識にある〈欲望-関心〉が、むしろ自身の〈欲望-関心〉の中心点を見えずらくしてしまっていた瞬間もあるのではないか。
そう考えると「どんな時に子どもの顕在意識にある〈欲望-関心〉を起点に教育をつくり、どんな時にその〈欲望-関心〉の構成要素にまで踏み込んで教育をつくっていけるとよいのだろうか」

〈欲望-関心〉を起点に〈自由〉に生きられているという感覚があったはずなのに、ふとした瞬間「私ってなんのために生きていたんだろう?本当に欲求通りに生きられていたのかな?」と内省したことがある…という人はきっと少なくないのではないでしょうか。

Ex)これまで一生懸命働いてきたけど、本当に私の人生これでよかったのかなって不安になる。確かにこれまで自分がしたいことをしてきたはずなのに…。

欲求通りに生きられていると思っていても、実はそうじゃなかった…ということは人間誰にでもあることです。

だからこそ、教育について考える際にも「どんな時に子どもの顕在意識にある〈欲望-関心〉を起点に教育をつくり、どんな時にその〈欲望-関心〉の構成要素にまで踏み込んで教育をつくっていけるとよいのだろうか」を考えることは大切です。


この問いに対する総論としては、これまでのnoteで述べてきた通り〈欲望-関心〉の中心点を見つけていく過程を含めて、〈自由の相互承認〉を北極星にしたDOとBEの探究こそが“よい学び”ですので、大前提、たとえ顕在意識にある〈欲望-関心〉がむしろ自身の〈欲望-関心〉の中心点を見えずらくしてしまう瞬間があったとしても、そんな瞬間も含めて「大切な学びの瞬間」だと捉えて教育をつくっていくことがベースです。

そのベースの上で、人間はどんな変容・探究の先で〈欲望-関心〉の中心点を見出していけるのか、またなぜ顕在意識にある〈欲望-関心〉が〈欲望-関心〉の中心点を見えずらくしてしまうのかを理解をすることで、教育者としてより子どもたちのDOとBEの探究(“よい学び”)を本質的にサポートしていけるようになりますので、そのことを目的にしてこのnoteを綴っていきます。

特に、

・〈欲望-関心〉の中心点はなぜ自分でもわかりづらくなってしまうのか
・〈欲望-関心〉の中心点の見つけていき方

に関して深く考察をし、科学的根拠・私自身の仮説を用いながら1つの実践理論としておとどけしますのでぜひご覧ください!
こちらの前編では、「〈欲望-関心〉の中心点はなぜ自分でもわかりづらくなってしまうのか」についてお話をしていきます!

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