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オーソン・ウェルズ、嘘の天才-『オーソン・ウェルズのフェイク』

オーソン・ウェルズは天才だ。
そんなことは『市民ケーン』が公開された80年前から周知の事実である。では、オーソン・ウェルズはなにをもって天才なのか。それだって切り口次第で無数の「○○の天才」という肩書きを与えることができるだろう。

そんな無数の肩書きの中でも、自分としては「オーソン・ウェルズは嘘の天才だ」というのが一番しっくりくる。

「火星人の襲劇です!」というアナウンサーの声と共に世間を混乱に陥れた1938年のラジオ放送以来この方(いや、きっとそのずっと前から)オーソン・ウェルズは嘘の天才で、世界屈指の食わせ者だった。


『オーソン・ウェルズのフェイク』(1973)はそのものズバリ「嘘」についての映画である。

ウェルズ作品には珍しくドキュメンタリーだ。20世紀最大の“贋作”画家エルミア・デ・ホーリーと彼の伝記を執筆したクリフォード・アーヴィングを題材としている。

ホーリーの方はその肩書きの通り贋作を描いては大金を手にし大豪邸暮らし。それを臆面もなく隠す様子もない。
一方のクリフォード・アーヴィングはかつてハワード・ヒューズの自伝を捏造して金を騙し取ったとして服役をしていた人物だ。ラッセ・ハルストレム監督の『ザ・ホークス ハワード・ヒュースを売った男』(2006)で描かれてた人物といえば思い浮かぶ人もいるかもしれない。そんな彼が次の標的(カモ?)に選んだのがエミリア・デ・ホーリーというわけだ。

大嘘つきの画家VS大嘘つきの作家を、映画界きっての大嘘つきオーソン・ウェルズが取りまとめる。20世紀きっての大嘘つき三者が揃い踏み、三つ巴というのがこの作品だ。

ついでに、ハワード・ヒューズとオーソン・ウェルズの因縁といえば、ウェルズは『市民ケーン』の当初の企画はハワード・ヒューズをモデルに考えていたという話があり、この作中でも少し触れられている。結果的に新聞王ランドルフ・ハーストをモデルにケーンというキャラクターを作り出したが、ハーストと同様に20世紀アメリカを象徴するような大富豪としてハワード・ヒューズの名前が挙がるのもさもありなんという気がする(この話が本当なのかすらよくわからないが)

「最初の1時間は皆さんに真実を見せるとしよう」という、いかにも意味深なウェルズのイントロダクションから始まるこの作品。上映時間は89分なので残りの29分に関しては…ということでもある。

問題の後ろから29分については見てもらうのが一番だと思うので、あまり触れないでおこう。
しかし、ここで考えたいのは、むしろ「じゃあ、最初の1時間は本当に真実なの?」という点についてなのだ。

この映画を構成するホーリーとアーヴィングのフッテージは他の作品のために撮られていたもので、それを企画ごとウェルズが引き取ったものだそうだ(出典を見失ってしまったので正確な情報かはわからない)。
しかし作中にはウェルズや当時の彼女だったオヤ・ゴダール、その他ウェルズの知り合いらが頻繁に登場する。それもイントロダクションとしての役割を超えて、まるでホーリー邸にいるかのようなカットすらあるのだ。
加えて、間に挟み込まれるイントロダクションも、まさにフィルムを繋ぎ合わせてる最中の編集室からというメタ構造をとっている。
この時点でオーソン・ウェルズ御一行が出現する部分だけいっても、その信憑性は低い。

そういう、はなから「事実」に忠実でいる気のない作り手が用いる映像は、実際のフッテージだからといえ信頼に足るだろうか。
もちろん、足らない。


この映画を何も考えずに見ていると、まるでホーリーとアーヴィングが口論をしていて、その間をオーソン・ウェルズが仲裁しているように見える。
だが、そんなことはありえないにきまってる!
ホーリーもアーヴィングも、別個のインタビュー映像をまるで二人が水掛け論を繰り広げているように巧妙に編集されている。そこに追加で撮影されたオーソン・ウェルズがいかにもその場にいるように、いかにも訳知り顔で二人のカットの間に入り込んでいるのだ。

たしかに用いられているフッテージ自体は存在しているし、ホーリー/アーヴィング両名がそうインタビューに回答したのも事実だ。しかし、この映画で語られた話が事実であるという保証はどこにもない。
事実は編集によっていくらでも歪曲できうるし、その実権を握っているのがオーソン・ウェルズなのだから。

なにが事実かを把握するためには元の素材を確認してみるしかない。しかし、それを確認したところで言えるのは「ホーリー/アーヴィングはインタビューでこう発言していた」という事実だけでしかない。それはカメラという対世間への表向きの顔で発する言葉だ。そこにいかほどの真実が含まれていようか。それなら彼らの真実を知るためにはカメラのフレーム外の姿を見るしかないのか。相手が気を許した友人に対してならば、ホーリーとアーヴィングは腹を割って話すだろうか。そうは思えない。彼らは贋作作家である偽伝記作家だ。例え真実を話していたとしても、こちらからすれば信憑性にはかける。

では、真実とはなんだ。映画である時点で真実などないフィクションじゃないか。

1時間目まで、ウェルズのいう「真実をお見せする」パート以降の真偽の保証のないフィクションの領域に突入すると、不思議なことに、むしろそこにこそ真実を感じられるのだ。
起きていることは「フィクション=嘘」かもしれないが、そこで語られていることは真実だ。それは真理という方が的確だろうか。

もし「事実」を二進法で表現したなら有象無象の0と1が並ぶだろう。
だが映画に限らず全ての芸術には作り手の作為が介入する。その0と1を見栄えがよくなるよう、わかりやすくなるように手を加えて並び替える。それは言い方を変えれば「捏造」とも言えるかもしれない。作為の介入を許した時点でそれは「事実」ではなくなってしまい、そのコードから「事実」としての価値は喪失してしまう。

だが、オーソン・ウェルズのような芸術家たちはそもそも0と1からなる「事実」など初めから興味がない。その0と1を並び替えることでそこには規則性が生まれる。それまで0と1の羅列であるからこそ価値のあった「事実」は作り手の仕組んだ規則性を紐解いて解析可能な暗号となる。
そこにこそ、ただの「事実」では伝えられない、真実を語る可能性がある。

オーソン・ウェルズは嘘の天才である。
それはつまり真実を語る天才であり、真の芸術家なのだ。

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