他者のレールを、自分のレールと思い込んでいた人
選択肢が多すぎて人生を迷っている
「❶どこで ❷誰と ❸何をして、暮らしていくの?」という問いに苦しんでいます。答えが全然出ないから本当に苦しい、いっそ誰か決めてくれとさえ思うこともあります。
「誰かに決められたレールを生きるなんてとんでもない!!!」と学生時代のわたしなら大批判しているでしょう(わたしは学生時代に社会学をかじっており、指導教官もリベラル寄りだったので、「自由」「平等」ということにとても関心がある人間に育ちました)。
もちろん、自分で選択することを諦めているわけではない。
でも、Society5.0目前の現代社会において、人生とは膨大な情報をもとに、迫り来る選択肢を判断し続けること、に終始してしまいそうになる自分が怖い。
がむしゃらに、レールを突っ走っただけだった
働き始めたころは、どんなに理不尽なことがあっても「まずは守破離の守だ〜」と泣きながら、歯を食いしばりながら頑張っていたように思います。漠然とした未来(なにか自分でやってみたい!)に希望を求めて、がむしゃらに過ごしていました。
そして、ちょっとずつ自分にもスキルがついて、転職をしてある程度の経験もあるようになって、声をかけてもらって副業もしたりするようになりました。そうして、本業と副業もかねて働くようになって、これから自分の好きなように働ける!と思って数ヶ月過ごすうちに、あいまいだけども本質的な疑問が湧いていました。
「わたしのやりたいことってなんなんだろう?」
「…いやいや、これまでだって”自分のやりたいこと”をやってきた」
「…やりたいことを求めて転職をしてきたじゃないか!」
「…働いて辛かったけど、楽しかったこともあったし、それってやりたいことが仕事だったからだよね?」
「…今回の転職だって、そう!やりたいことの実現のためだよ!」
「…でも、なんでこんな不安な気持ちになるんだろう?」
わたしは、本当に自分のやりたいことをやってきたのか?
そういえば、自分でやりたいことを言語化したことってあるのか?
ここで気づきました。
今までのわたしは、だた他人が言語化してくれたやりたいことを、自分のやりたいことだと思い込み、他人が用意してくれたレールの上をがむしゃに突っ走っているだけだったんだと。
だから、いざ「好きなように仕事をしていい」と言われたら、とても不安になってしまう。自分のレールを、自分で敷いたことなんてないからだ。
このことに気づいたのはつい最近だった。フリーランスとして働きたいと思っているわたしは、フリーランスの人と出会うと話を聞くようにしていて、何人かの人に話を聞く中で気づいてしまった。自分でレールをつくって、走っている人の話を聞いたあとは、「すごいな〜」としか反応できない。そんな中途半端でダサい自分、そこにいることさえ恥ずかしいし悔しい。
自分のことが大嫌いになって落ち込む日々
自分が満たされていないと、心の中で周りを批判するようになっていました。
「仕事ができないやつだ」「言われたことくらいやってよ」「仕事で給与もらってるのになんでやらないの」「努力してないやつばっか」「わたしはここに向いてない」
批判の言葉は、言えば言うほど、自分の心を小さく惨めにしていきました。批判している自分が一番批判したいのは自分でした。「なんでこんな自分になっちゃったんだろう」とお風呂場で何回も泣きました。でも、批判をしていないと自分を保てない、そんな弱い自分が情けなくて泣く、そんな毎日の繰り返し。落ち込んでいるときってとことん落ち込むようにできているのか、他にも嫌なことが重なり、ほぼ毎日情緒不安定、そんな弱い自分が情けなくて泣くの繰り返し。
ああ、いっそ全てを切って、どこかに行ってしまいたい。
けど、そんな思い切りのよいこともできない自分。
口だけ達者でなにもできない自分。
自分の弱さと向き合えない自分。
自分への批判を、他者への批判に置き換えてしまっている自分。
本当になにもかも嫌だ。
自分のレールを、自分で敷きたい
こんな鬱々として日々を過ごす中でも、ひとつの気づきはありました。
「それでも、人生一回きりなんだから、なんかやってみたい!」
すべてを投げ打って、やりたいことに没頭できるほど、わたしは思い切りのある人間ではないことは事実なので、他人のレールを走りながら、自分のレールを敷くことにも挑戦したい。そのレールが小さくても、短くても、でもやってみないことにはなにも始まらない!
自分のレールを自分で敷いてみる。
そんな気軽な感じで始めよう。