見出し画像

雑誌、塾…思考をMECEしながら振り返ってみよう!

ちょっとゴチャゴチャしてきました。
いろんなことが絡まって解けないように見えるのは、切り分けられるべきものが切り分けられていないからかな?


はじめに

拝啓みなさま、お疲れさまです。木端みのです。
秋とは思えない暑さの日もあれば、ほんの少しの肌寒さが迎えに来る朝もあります。
冬が好きです。夏の日にクーラーをつけると気持ちがいいように、ぶるぶる震えながら飲むあたたかいコーヒーが好きなんです。
今日は小春日和。いまの季節にだけ感じられる、とくべつな春です。

ちなみに今バックでドビュッシーを流しながら書いています。
深い意味はありません。詳しいわけでもない。
YouTubeの自動再生機能でドビュッシーが、途中からショパンに変わったところで気づくかもわかりません。
でも、今この音が気分にあって心地よいと思うから聴いています。
芸術の敷居は低くていいと思う。いろんな楽しみかたをしていい。
全ての箇所が最高に好きというのは、もちろんすばらしい。
同じくらい、この部分はわからないけど、ここ!ここが何にも代えがたく良いと思う!!という限定的な熱い気持ちもあっていい。
だから私はオタクと対比的に語られる、ニワカという存在はもっと市民権を得ていいものだと思うんです。
ニワカがにわかに、庭に蟹がにわかに…

さて、今日もお話していこー!かたわらに、好きな飲み物の準備はできましたか?

雑誌と塾のいまんところ

前提の話をします

先日、わたしが運営しているこどもさん向けの月刊漫画誌を再開します!という告知をしました。このnoteをフォローしてくださっていても、まだ知らない方もおられると思います。
わたし、木端みのは15年くらい商業誌で活動しているマンガ家です。途中ブランクはありましたが、21歳で漫画賞をとって以降マンガを描き続けています。
大きなヒットは出していません。いろんな本も読むのでマンガを読むことに一途というわけでもなかった。それでも、描くことにおける熱は持ち続けていたと思います。
今37歳です。適齢期と言われる年齢をとうの昔にすぎてしまって、独身です。友達のように恋人ができる人と結婚してもいいかなぁと思っているのですが、こどもについては考えていません。
そんな私ですが、いつからか『こども向けの漫画塾』ができたらいいなという夢を抱くようになりました。それが自分の中で膨らんでいくにつれて、『こどもさんの作品を載せる漫画雑誌』を作りたいという思いも派生してきました。
その都度たくさんの言葉をもちいて、その意義を説明してきたつもりです。自分の中では、理屈が通っていた。それがだんだん、屁理屈かもしれない。と思えてきたのは、ごく最近のことです。

わたしは言い訳をするのがうまいです。昔からそうです。
面と向かって喋るのは下手なのですが、見ての通り、こうして時間を取って考えながら文章に起こすことが好きなので。
文字をつらつら並べることでなんでも『それっぽく』できると思っている節がある。

でも、頭がよくないんです。だから本当のことを知っている、かしこい人にはすぐに見破られてしまいます。コイツはただただ、自己肯定をしているだけだと。

その時、気づくんです。
だませていたのは、他人じゃなくて自分だったこと。

今回この記事を書く目的は、『塾』と『雑誌』をどうしていくのがいいのか。今の状態にいたるまでの経緯を振り返って整理をしながら、今後行くべき道筋を見定めることにあります。

待ってくださるかたや協力してくださるかたが少しだけ声をかけてくれるようになった。一人で勝手にはじめたことに、責任をとる必要が出てきた今です。

だからこそ、一回立ち止まって振り返ろう。

今回は、そんな私の夢に関する過去の発信を振り返りながら、いくつも分岐している道のなかから一本進むべき道を決めていきたい。
そのために、MECEという論理的思考法を使います。

MECE?

MECEとは『モレがなく、ダブりがなく』という意味です。
要素が全部洗いだされ、ひとつひとつが重複しない。
悩みを切り分けて考えるこの思考がいま、自分に必要でした。

振り返り

さいしょのさいしょ

絡まりあってゴチャゴチャのグチャグチャのひとかたまりになった物事を、解きほぐしながら要素をひとつひとつ取り出して並べなおして収納する。
わたしがMECEに抱いた印象はそんな感じ。

今のわたしの中のゴチャゴチャのグチャグチャ…『塾』と『雑誌』。
これを解体していこう!

時系列で話していこうと思います。

一番初めに、『塾』のことに触れたのは去年の11月、一年前のYouTube動画でした。

ここでは、簡単な手書きのイラストを描きながら自己紹介と夢について語っています。

ここから、夢について語っている部分に絞って要素で抜き出していく。

マンガの塾を開きたい

  • 漫画家養成のための専門学校とは違う

  • ただ描くことを楽しむための場所である

  • 部活のような場所で、わたしは見守るだけの顧問

だいたい、この3つのことを話していました。
今と違う部分があるなって思うのは、
「ただの顧問なので、ヒット作家になる必要がない」と言っている部分ですね。私は今はヒット作家になりたい。そしたらそこが部活で顧問の立場だったとしても、部員の「こまった」が取り除けるかもしれないですもんね。

自分の動画なんですけど、AIに関する感じかたが1年前とほとんど変わっていないのはビックリしますね。

AIの台頭で、うまく描くことの価値がだんだん減っていく。
そのなかで人間が描くことの意義は、『楽しむこと』だと思っている。
だから、楽しさを残していきたい。

そんなことを言ってました。
これは、今も本当にそうだと思ってます。今よりシンプルですね。

このシンプルさは今はないです。
幼稚さともとれる自由さが、今大人のひとを巻き込むために整えている体裁に押しつぶされている感じがある。

今はそれに加え、AIが描く=楽に描ける=楽だから楽しい
この方程式が、イコールになりえないのだろうということを思っている。
創作に限って言えば、産みの苦しみからしか得られないものがあると思ってる。
同じ絶景でも、自分の足で登った山とモノレールで登った山で見た景色が違うように。

でもそれは、主張を強固にするための注釈でしかなくて、聞かれたら答えられる理由であればいい。

AIが出てくることで描くことの意義を見失うひとがいると思う。
だから塾を作りたい。

これを『塾』の柱にしよう。
『塾』の話は、その後のnote記事でも触れています。

2つ目の記事では手帳のようにマンガを描く、という話をしています。

手帳のように、自分自身のために
描く漫画があってもいいんじゃないかと思ったんです。

漫画ってエンタメだから、読者がいないと成り立たないよ!
っていうのもわかります。
面白くなきゃ、っていうのも。

それはそれとして、
前段階として、
自分だけが楽しめる漫画。
描いてもいいんじゃないかなぁ

『趣味で描くこと』を伝えていきたい。
このことは、この時点ではもう決めてたみたい。

しかし、ここでは『こどもさん向け』『雑誌』のことはひとことも言っていませんね。
この時点では、対象を絞ってなかったんだと思う。
どこで、こどもが対象になったんだろう。
そして『雑誌』はどこから出てきた?

その原因はここにあった。

やっぱ子どもさんに漫画見てもらいたいー!

作家としての思い

この気持ちがあるんだなぁということに、ある日ふと気づいたんですね。
これは、自分がその時興味があったタテスク漫画の編集部に持ち込んだ直後の記事。
こんな記事は自分の力不足を人のせいにした最たるものですよね。
自分に実力さえがあれば、それがどんなに狭き門でもたたくことを許されるはずだった。

なので、タテスクのこと何も知らないでよくこんだけ適当なこと書いたな…と今は頭が痛いですね。
ただ、webtoonに限らずツイッターの漫画広告見てると不倫であるとか、陰惨なイジメであるとか、気持ちが重くなるものが多いと感じていたんですよね。
スカッと感やザマァという言葉によく表れていると感じるのですが、明確な悪に対するうっぷんを晴らしたいっていう考えかたに違和感があって…。
その悪は本当に純度100パーセントの悪なのだろうか?
それを裁く正義は?そして、それを楽しむということがどういうことなのか。
一種のカタルシスであるんだろうけど、健全には見えなかった。

そんな時、こどもさんに向けたものを描きたいと思ったんです。
そこまではよかったと思う。
そこに短絡的に夢の話をつなげたのが、違う道に迷い込むきっかけだったのかな?

宣言してるんです。
『こどもさん向けの塾』と
『そこで描かかれたマンガをまとめた雑誌』を。

お金がなかった

過去記事の中でも言っているのですが
当初、塾は地元・長崎で開くつもりだった。
すぐにはお金がなかった。
だから、練習をかねてYouTubeを始めようと思ったんです。

長崎で小さな塾をして、その活動を冊子にまとめる。
本来、定めた目的はここでした。

ただ、練習であれYouTubeという大きく開かれたメディアを想定したことである意味隠せなくなったんですよね。
こういう考えがあること。
話し始めたからには、最初から最後まで思いを語らなければ
誤解を生むと思ったんです。

そこからどんどん肥大化していったように思います。
だんだん頭でっかちになった。

それで、『手紙』という形で思いを発信し始めました。
そのなかで、ひとつ自分に大切な軸を見つけたのでそこから広げていった。

それが、『描くことを未来に残す』だったんです。

描くことを未来に残したい

何通もの『手紙』

『手紙』のなかでたくさんのことを話しています。
そのどれもが全部自分の中から出てきた言葉です。
間違っていたとしても、嘘じゃない気持ちだった。
特に、ひとつのことを強く訴えました。

よくないものでも、残さなきゃいけない

時代を通じて、残ってきたものがある。
『名作』といわれるものです。
その時代に、爆発的に流行ったものがある。
たくさん売れて、時代の象徴になったもの。
そういったものは、残る。

そのほかに、その時は評価されないものが
のちのち大事なものだったとわかる瞬間ってありますよね。
そういうものって残りにくいと思います。

もし残ったとして、後世のひとにも評価されなかったとしてもです。
評価されないことが明白なものも、残していくべきだと思った。

だって、それって誰かが大切に作ったものです。
そんなものごとの積み重ねの上に、いま生きている。

そこを大事にしないと、作る人は増えないと思ったんです。
価値のあるもの以外は
機械が作った全部同じ規格の既製品、完璧な完成品ばかりになる。
未完成なものを愛でることで、作る人が増えていったらいいなって。

だから描くことに関しても、
未来に残すなら未熟なものこそ積極的に残していくという考え方が必要なんじゃないか。

売ることが目的だから、大多数のお金を持った人たちの嗜好に淘汰されてしまうものがある。
そうじゃなくて、すごくないことこそ認められる場所があったらいいな。
それが『非商業』の『雑誌』であれば、できると思いました。

それが、『めくるめく』の根底にあります。

問題なのは、まぜたこと!

絡まった糸はほどけるか

同じ人間が考えることなので、こういったいくつかのアイデアの根底にある思いには大して差がありません。

どれも、わたしが心から思い実現出来たらいいなと思ったことでした。
問題は体がひとつであること。

全部したい!と思ってしまったんです。
その結果、こういったものを全てくっつけていびつな形のものを作り出してしまった。
『マンガで生計を立てること』のほかに
本来別々のことであるべき、
『描きかた動画』『非商業の児童漫画メディア』
『地方に塾を作ること』『こどもが描いたものを載せる冊子』
の4つのことを一緒くたにしようとしてる。

ここでMECE

描くことを未来に残す(目的) のために
描く人を増やしたい(目標) を設定した。

描く人を増したい(目標) のために
描く楽しさを肯定したい(登る山) を設定した。 

登るために必要な思考(道具)は
・評価をもらい売ることをあきらめる
・自分のために描く手帳のような漫画
※これは、以下のnote記事で書いた考えをもとにしています。

好きで満たされた時間のなかで自然とわき上がってくる
「描きたい」の気持ちを、ただ描けばいい。

もし、それが売れなかったら?誰にも読まれなかったら?
と思うかもしれません。
そしたら、別のしたくない仕事をしなければいけなくなるじゃん…。
それは、そうですよね。しょうがないですよね。
別に、社会に合わなかったからと言って合わなかったというだけで
間違いだったということにはならないんじゃないですか?

木端のnoteより

描きたいものを描いて伝わったら御の字くらいに思えばいい。
正直に描きたいものを描くことで自分が満たされる。
そのことをまず大事にしよう、という非商業的な考えかたです。

その道具を持って、自分が歩める大きな道は2つあって、

描きかた動画をYouTubeでアップする
→そこで描かれたものをメディアにまとめる

地方で部活みたいなこども塾をする
→そこで描かれたものを本にまとめる

似たような道筋なのですが、上はオープン・下はクローズドな空間です。
それで、どっちをとるかと考えたときに
私はまずは上をとろうと思いました。

こどもさんに向き合うための経験値が今の自分に足りてないと思った。
そういう、単純な理由からです。
こどもさんに何かを伝えることはリスクをともなう。
準備をして、細心の注意を払い、協力者の助けをかりながら
慎重に進めていく必要があります。

もう雑誌としてのメディア『めくるめく』を公開しているということもあるのですが、こども塾を開くにはいまはまだ準備不足であることが大きな理由です。

YouTubeと『めくるめく』を展開しながら
機会を見ていまだ!と思えた時に、こどもマンガ塾を始めるつもりです。

結論

…という長い問答の末、腹をくくってYouTube及び『めくるめく』を進めていくことにしました。

今回MECEによる思考整理をして、
改めて定義づけられたことがいくつかあります。

『めくるめく』は大人さんが描いた児童漫画を載せるメディアです。
売ることで売り上げを立てることを一切目的としていません。
そのため金銭を扱う年齢層の購買欲があまり影響しない、
児童向け作品をあつかうことで競争から距離を置きます。
メディア運営は木端の資金を元手にします。
余裕ができたら、雑誌を紙の本にすることに資金を充てます。

変わること

長くなりましたが、以上の理由から変わることが2つあります。

次々号(3号)から3カ月に一回の発表にします。
そして、それ以降原稿料が出なくなります。

「原稿はほかの雑誌や個人の発信に使用してもかまわないこと。」
「原稿は描き下ろしでなく、過去に描いたものでかまわないこと。」
「原稿は原則的に、ネームを含めた作品の直しが必要ないこと。」

この条件から、手持ちの原稿で児童漫画があったらご協力をお願いしたい。というスタンスで運営していきます。

あとがき

今回は過去記事の振り返りをしながら、MECEという思考法をもちいて状況整理をしました。6千文字を超える長い記事になりました。

長い記事といえば、思い出したんですけど進化型記事の更新を止めています。たぶんしばらく止まったままなので、いったん非公開にします。
完結したら、また上げますね。進化型記事の意味とは…?

まあ、いっか。
長いあいだ読んで下さり、ありがとうございました。
BGMもいつの間にかドビュッシーからショパンに変わっていました。

この記事がよかったなって思ったら、サポートしてもらえるとうれしいです。いただいたご支援は、作品制作のために使わせていただきます!