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小説|汗汗汗汗汗汗

うるさいほど聞こえるセミの鳴き声と、吹き出してくる汗に耐えながら冬樹はホットコーヒーを飲んでいた。イヤホンの音量をいじりながら思う、とにかく暑いし熱い。クーラーをつければいいじゃないか。クーラーは昨年の夏から故障中だった。扇風機はどうだ。扇風機は家族がどこかに持っていってしまったらしい。部屋には高温の空気がこれでもかと充満している。

そんな状況でホットコーヒーを飲む。中々体験できることではない。もしかしたら最も身近で体験できる異体験ではないか、そんなふうに思わずにはいられなかった。そうでもしないと飲めたものではない。背中を汗が伝う。脇、曲げた肘、膝の裏。そんな場所から体内の水分がどんどん排出されていく。自分は特別なことをしているのだ、そうでも思わないと今にも諦めそうだった。

一口すすると、コーヒーの熱が口、喉、胃へと広がっていく。そのたびに湧き出てくる身体の拒否反応を自我で無理やり押し込めた。

ところが、コーヒーを飲みすすめるうち、カフェインによって冬樹はわずかに興奮しはじめていた。わざわざこんな状態でホットコーヒーを飲むという自分に対してだ。しかし、それはコーヒーによるものではなく、普段、無意識のうちに冬樹が心の奥底に押し込めていた感情だったのかもしれない。

「やればできる」

どこかの誰かの言葉だ。本当にその通りだと思っている。人間に不可能など無い。冬樹は自分の体温が、さきほどよりも上がっていることに気がついた。

「人間が想像できることは実現できる」

これも誰かの言葉だ。そのうち車は空を飛び、ドアを開ければすぐ目的地に瞬間移動できるだろう。この暑さの中、ホットコーヒーを飲んでいる自分がそれを証明している。冬樹の顔は、より一層赤みがかっていた。

「耐えた分だけご褒美がある」

冬樹の言葉だ。いや、まだ誰かに言ったことはない。心の奥に仕舞っている言葉だった。しかし、今の冬樹にはこの言葉が思考の最前線に出てきている。

汗だくになりながらも、ようやくコーヒーの終わりが見えてきた。そういえば戸棚に辛口のスープがあった、次はそれにしよう。冬樹の中では、辛さと気持ちよさが同等に存在していた。最後の一口を飲み込むと、階段下から声がした。

「あなた大変よ! 来週の我慢大会、中止になるらしいわよ!」

冬樹はパソコンから流れる真夏の映像を停止すると、ストーブを消し、着込んでいた服を全て脱ぎ捨てた。

窓を開けると、一片の雪が舞い込んできた。



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