「後悔」は「憎悪」の親たり得るか。

抹殺をしたい「ある名」

ある名をば 叮嚀(ていねい)に書き
ていねいに 抹殺をして
焼きすてる心

夢野久作「猟奇歌」より
青空文庫参照

 己の過去からも、
 己の記憶からも、

 或いは社会からも、
 或いはこの世そのものからも、

 抹殺したい名前のひとつやふたつ、
 誰にでもあるものだろう。

 「自分自身を抹殺したい」などという、
 自己憐憫を笠に着た
 綺麗事、自己陶酔は不要である。

 もっと自己中心的で
 他力本願的かつ
 無責任な答えでいい。

 己に理不尽な苦しみを与えた
 「憎々しい他人」を
 純粋に抹殺したい心は、
 誰しもが一度は抱くものであろう。

 そうでない、
 潔白な人間がいるのであれば、
 それはまだ「憎悪」という概念を知らぬ赤子か、
 「感情」という概念そのものを放棄して
 「人間ではないもののフリ」をする人間か、
 もしくは、誠に異形であるか。

 いずれにせよ、私は、
 この世に「事実上の人間として」生を受けたものが、
 「他人に悪感情を抱くこと」は
 至極自然なことであると考えている。

 そういう感情を抱く
 己への嫌悪感も否定はしないが、
 その嫌悪感を抱くこと自体、
 「他人への悪感情」を感じなければ
 成立しないだろう。

 人間は誰かを憎んで当然であるし、
 無論、私も誰かを憎むし、
 生涯叶わないこととしても、
 その「誰か」を
 この世のありとあらゆるものから
 抹殺したいと願うことはある。

 愚かであると、自虐しつつ。

「憎悪」のひとつ前

 上述の夢野久作の詩歌と、
 私が抹殺したいと願う「ある名」を
 思い出したのは、

 今年7月15日から、
 毎週土曜日22時放送中の、
 日テレ系ドラマ
「最高の教師
 1年後、私は生徒に■された」
 を見たからである。

 昨日、第7話が放送された。


主人公は「九条里奈」
鳳来高等学校3年D組の
担任教師である。

事なかれ主義で、安全第一。
学校でもプライベートでも
起きた問題は、
なあなあにして片づけてきた。

そんな九条は卒業式の日
学校の高所から
「自分のクラスの生徒に」
突き落とされて
命を落としそうになる。

瞬間、彼女は、
1年前の「始業式」の日の、
自分のクラスの教壇に立っていた。

ここから九条は、
1年後に訪れるであろう
己の死の運命を避けるため、
卒業式の日に
自分を突き落とした犯人を捜すため、

事なかれ主義と安全性を捨て、
「なんでもやる」を口癖に、
行動を開始する。

そうした彼女の二周目の人生は、
担任クラスの生徒のみならず、
家庭も学校も巻き込んで、
着実に変化していく。


 このサスペンス調の学園ドラマでは、
「九条里奈が
 自分の死の運命から逃れるため」の行動が、
「担任クラスの
 生徒の問題を解決すること」に繋がっていく。

 その問題は、
 クラス内でのいじめの他、
 生徒の家庭問題、
 生徒個人の「居場所の感覚」など、
 多岐に渡る。

 九条は、
 それらの問題を解決するために
 言葉通り「なんでもする」。

 そして、
 問題が解決するまで
 ひたむきに「向き合い続ける」。

 それは、
 頑なだった生徒の心を解かし、
 かつての九条と同様に
 事なかれ主義であった
 教師たちの心をも動かしていく。

 一方で、
 「己の死の運命を回避するためだけ」に
 行動を開始した九条自身の心にも
 変化が訪れるのも
 ドラマの見どころの一つだろう。

 「理想的な教師像のひとつ」を描く
 この「フィクション」は、

「もしも、
 18歳の自分がこの教師と出会えていたら」
という
 「たらればのカタルシス」を与えると同時に、

「大人になってしまった自分は
 『社会的に模範的であること』と
 『個人的な信念を貫くこと』との
 天秤をどう傾けるのか」
 を問いかけてくる。

 同時に、
 綺麗事は通用しない
 「ノンフィクション」を突き付ける
 刃となる。

 断っておくが、
 私は「ドラマそのもの」は、
 楽しんで視聴している。

 一方で、
 「事なかれ主義」「安全第一」
 「行動しなかった後悔」と、
「理不尽に突き付けられた
 現実から逃避した事実」

 思い出させられるのだ。

 その後悔の先に、
 今の憎悪が立つ。

「後悔」のその先

 私の抹殺したい「ある名」は、
 ここでは「S」とでもしよう。

 Sは、ちょうど高校の教師で、
 3年生の私の担任だった。

 あの時の私に
 今ほどの度胸と勇気があれば、
 「卒業式の日にSを■した」のは
 私だったかもしれない。

 10年以上経つ今になっても、
 あのとき何もしなかった私ごと、
 Sが憎くて仕方がない。

 Sの年齢なら、
 まだのうのうと
 教師を続けていてもおかしくはない。

 卒業してから10年経っても、
 「お前を抹殺すればよかった」と
 後悔している元生徒が
 存在しているとも
 Sは考えてもいないだろう。

 そして私は、
 あの時抹殺すればよかったと思いながら、
 Sの名前を丁寧に丁寧に
 紙に書きつけて、
 その紙を燃やして
 留飲を下げることくらいしかできない。

 このnoteも、
 その紙の代わりだ。

 こうして丁寧に書きつけて、
 後悔と憎悪を掻き立て、
 Sの抹殺を願う。

 一体どうして、
 Sがこんなに憎いのか。

 10年経つうちに、
 詳細なことは忘れてしまって、
 憎悪だけが燃えている。

 否、
 「きっかけ」は
 はっきりと覚えている。

「生徒の自発性を誘発する
 『良い教師』の面をした悪魔Sの
 化けの皮が剥がれた」
のを、
 私は高校卒業間近に知った。

 Sはノンフィクションの存在でありながら、
 フィクションの教師たちと同じ、
 「事なかれ主義」で「安全第一」、
 生徒を卒業させることだけを
 生業としていただけだった。

 アレは、
 「教師」ではなかったのだ。

 尤も、
 「今の私だから」そう考えられているだけで、
 「18歳の私」が
 そこまで考え至る事は出来なかった。

 そこまで考えるには、
 知識も経験も
 出会った人間の数も
 諦めの回数も、
 あまりにも少なかった。

 仕方のないことではある。

 「学校」と「家」という
 必要最低限の檻しか知らないガキに、
 「大人の事なかれ主義」など
 理解できないのだから。

 だからといって、
 お前ももう大人になったのだから
 許せと言われて
 許せるものでもない。

 私はやがて、
 Sへの憎悪のきっかけも
 忘れてしまうだろう。

 しかし、
 この憎悪の種火は
 燻り続けるに違いない。

 あの時、
 Sを抹殺しなかった後悔は、
 もう二度と果たされることはないのだから。

「後悔」は「憎悪」の親たり得るか。

 一度だけ、
 私にはSを抹殺するチャンスが与えられていた。

 親が、
 Sに傷つけられた私の味方を
 してくれたのだった。

 Sの仕打ちに対して、
 学校へ電話入れて
 抗議をしてくれたのである。

 モンスターペアレントとでも笑えばいいが、
 あの時の私にとって、
 親がとったその行動は
 純粋に嬉しいものだった。

 抗議の電話の中で、
 Sの行為の理由を知り、
 私は改めてSはクズだと認識した。

 「最低の教師」という皮肉は、
 今まさに、
 Sのために存在するだろう。

 しかし、
 あの時の電話、
 親はSに抗議し
 アレの言い訳を聞いた後、
 私に言った。

 「何か、Sに言いたいことはあるか」と。

 Sに憔悴しきっていた私は、
 「二度と話もしたくない」と
 それを断ってしまった。

 あの時、
 18歳の私なりに
 勇気を振り絞り、
 憎悪のひとかけらでも
 直接Sにぶつけていたならば。

 10年後の私が今こんなに、
 二度と解消されない憎悪に
 苛まれることなどなかっただろう。

 「後悔」より生まれた「憎悪」は、
 人間の身には長すぎる時間を費やして燻り続け、
 僅かな衝撃で燃え上がる。

 「娯楽」である
 「ドラマ鑑賞」に紛れて、
 あの時、アレを抹殺していればと、
 後悔と憎悪が押し寄せる。

 今となってはもう、
 空想の中で抹殺するだけが
 精一杯であるというのに。

後悔先に立たずであるならば。

 だからこそ私は、
 「憎悪」の芽を摘む生き方を選びたい。
 「後悔」は先には立たないのだから。

 「後悔」が「憎悪」の親であるならば、
 後悔しない生き方をすればいい。

 たとえ、
 行動の結果が
 己の予測と大きく外れたとしても、
 「そのとき何もしなかったこと」で
 二度と悔やみたくはない。

 後悔と無縁の生活を送ることは
 不可能だろうが、
 その回数を減らすことは
 十分にできるはずである。

 不完全燃焼の悪感情を
 燃やし続けて生きるのは、
 もう疲れてしまった。

 どうせ燃えて生きるなら、
 コンロの火や、
 花火や、焚火の火のように、
 しかと赤々と燃え、
 何かの役に立つ
 柔軟な炎を燃やしたい。

 まあ、なんだ、
 私、射手座だし。


20230903 執筆
20230903 投稿

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