#0052【ジョゼフィーヌ(フランス、18C末-19C初)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

今週は「吾輩の辞書に不可能という文字はない」で有名なフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの妻たちを取り上げます。

ナポレオンの最初の妻はジョゼフィーヌという年上の未亡人でした。彼女は16歳だった1779年にアレクサンドル・ド・ボーアルネ子爵と結婚します。一男一女に恵まれますが、夫との折り合いが悪く1783年には離婚してしまいます。

離婚後は生家マルティニーク島に戻っていましたが、1789年にパリでフランス革命が勃発すると暴動が多発するようになり、フランス本土へと戻ります。一方、フランス本土では徹底した共和主義者で理想主義を掲げるロベスピエールが政権を握っており、反対派を次々とギロチン台に送るという恐怖政治を行っていました。

1794年7月23日にはジョゼフィーヌの元夫ボーアルネ子爵も反革命分子として処刑され、彼女自身も元夫の助命嘆願などが問題視されて投獄されてしまいます。一時は死を覚悟しましたが、同年同月27日にテルミドールのクーデターが起こり、ロベスピエールは失脚、翌28日に処刑されます。ジョゼフィーヌは8月3日に釈放されて九死に一生を得ました。

しかし、元夫を失い二人の子どもを抱えて経済的に困窮した彼女はロベスピエール後に権力者となったバラスの愛人となります。当時31歳の彼女はエキゾチックな美貌を持ち社交的な性格も相まって「陽気な未亡人」と呼ばれ、パリの社交界での花形となります。

政権を握ったバラスですが、ロベスピエール派(革命理想主義者)からも王党派(反革命フランス王家支持者)からも敵対視される不安定な立場でした。そこで活躍したのがナポレオンです。パリでの王党派の蜂起を鎮め、一躍有力な軍人として政治の表舞台へ登場します。当時26歳の若さでした。

時の人となったナポレオンに興味を示したジョゼフィーヌはナポレオンと舞踏会に出かけるようになりました。ジョゼフィーヌとしては年下の有名人を可愛がっている程度の気持ちだったのでしょうが、若いナポレオンは完全にのぼせ上ってしまい、熱烈な求婚をします。ジョゼフィーヌとの関係を切りたかったバラスの勧めもあり、ジョゼフィーヌは渋々ナポレオンと1796年に結婚しました。

その直後にナポレオンはイタリア遠征軍の総司令官として出立し、パリに残ったジョゼフィーヌはナポレオンのことなど忘れて遊び呆けます。年下の美男子と早々に浮気をし、遊ぶ金欲しさに#0015で取り上げたジョゼフ・フーシェにイタリア遠征軍の内部情報を提供をしていたとも伝えられています。

イタリア遠征を成功させたのち、エジプト遠征へと出かけたナポレオンは遂に妻の不貞を知ります。激怒したナポレオンは離婚を決意しますが、涙ながらに訴えかけるジョゼフィーヌを最後は赦します。

エジプト遠征から戻ったナポレオンは最高権力者への階段を駆け上がり、1804年12月に皇帝に即位し、ジョゼフィーヌは皇后となりました。ジョゼフィーヌとの間に実子に恵まれなかったナポレオンは世襲の皇帝になったこともあり、自分の後継者として実子を欲しがるようになり、1810年に自分の愛人マリア・ヴァレフスカが妊娠したことを契機にジョゼフィーヌとの離婚を決意、ヨーロッパの王室から新しい妻を娶ることに決めます。

ジョゼフィーヌはナポレオンと離婚しましたが、離婚後も皇后の称号を保持し、年金と宮殿を与えられて生活をしました。ナポレオンの再婚後も、ナポレオンの良き相談相手となっていました。

1814年にナポレオンがヨーロッパの連合軍に敗れて退位させられ、エルバ島(地中海にある島)に流刑となった後も彼女の身分は保証されました。しかし、気落ちがちとなり、1814年5月29日に肺炎のため50歳で没します。

最期の言葉は「ボナパルト、ローマ王(ナポレオンと再婚相手の子)、エルバ島・・・」と伝えられています。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)

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主要参考文献等リスト:

https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2

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