見出し画像

#0204【得意満面の悲願達成(後醍醐天皇と鎌倉幕府の滅亡、日本史通史)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
月初の日本史通史シリーズ。最初の武士による武士のための政治機構、鎌倉幕府が滅んでしまいます。

(前回:No.203【燃え広がる倒幕の火(後醍醐天皇と楠木正成)】)

1331年に元弘の乱が起きますが、首謀者である後醍醐天皇は虜囚の身となり、1332年には隠岐の島に流されます。

しかし、鎌倉幕府に対する不満は既に日本全国に充満しており、一度ついた倒幕の火が消えることはありませんでした。

悪党、不満を持つ御家人、寺社勢力が各地で抵抗運動を起こします。

さらに行方不明となっていた楠木正成が再び、近畿地方でゲリラ戦を展開していきます。

焦った鎌倉幕府は反乱軍を鎮圧しようと兵を派遣します。

正成が籠った山城を鎌倉武士団が幾重にも包囲しますが、正成は攻めよせてくる敵を知略の限りを尽くして撃退していきます。

正成を討伐できない鎌倉幕府をみて、「幕府を倒せるかも」と思った人々がさらに蜂起していくという悪循環に陥ります。

そして、隠岐の島に幽閉していた後醍醐天皇が脱出し、船上山(せんじょうさん、現鳥取県)で再度号令を発します。

鎌倉武士団の有力御家人だった足利尊氏(たかうじ)と新田義貞の二人が鎌倉幕府を裏切ります。

足利氏も新田氏も清和源氏の流れを汲む名門です。鎌倉幕府の中でも重鎮でした。

足利尊氏(このときは、高氏ですが尊氏で通します)は、近畿平定を幕府から命じられますが、逆に六波羅探題(ろくはらたんだい)という幕府の京都出先機関を滅ぼします。

そして、新田義貞は関東北部から南下し、鎌倉幕府の部隊を蹴散らしていきます。

鎌倉に迫りますが、鎌倉は周囲を山に囲まれ、南は海(由比ガ浜)に面した難攻不落の地です。

山道は「切通し」という道を封鎖すれば簡単には突破ができません。

新田義貞は鎌倉を目前としながら攻め手に欠けていましたが、潮の満ち引きの関係で隙が出来た 稲村ケ崎から鎌倉へと攻め込みました。

鎌倉幕府の中心であった北条家の当主北条高時は自刃。ここに約140年の鎌倉幕府の歴史に終止符が打たれました。

後醍醐天皇が隠岐の島を脱出してから、わずか1か月たらずで鎌倉幕府は消滅したのです。

後醍醐天皇は得意満面となって京都へと帰還しました。いよいよ自分の思い通りの政治ができる。

彼の政治が日本をどう動かしていくのかは、また来月の日本史通史シリーズにて。

以上、今週の歴史小話でした!

(続き:No.214【言行不一致が不信感へ(建武新政の不安定な門出)】)

========================
発行人:李東潤(りとんゆん)
連絡先:history.on.demand.seminar@gmail.com

twitter: https://twitter.com/1minute_history

主要参考文献等リスト:
https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
※本メルマガの著作権は李東潤に属しますが、転送・シェア等はご自由に展開頂いて構いません。
※配信登録希望者は、以下URLをご利用ください。https://mail.os7.biz/b/QTHU

========================

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?