#0026【冠位十二階・十七条憲法の制定(日本、7世紀初)】

こんばんは! 1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

月曜日に引き続いて権力を握った蘇我馬子と厩戸皇子たちが行った政治についてお話します。

蘇我馬子の言いなりロボットであることに耐えられなくなった崇峻(すしゅん)天皇は、あるとき献上されたイノシシを見て「このイノシシの首を落とすように馬子を斬れたなら」と愚痴をこぼします。

それを伝え聞いた馬子は先手を打って、崇峻天皇を暗殺させました。代わりに日本最初の女帝、推古天皇を即位させます。推古天皇が女性の身であることから、天皇職務の代行ができる摂政(せっしょう)という役職を新しく設けました。厩戸皇子を最初の摂政とし、同時に皇太子にも任命します。

馬子と推古天皇は叔父、姪の関係で、推古天皇と厩戸皇子は叔母、甥の関係です。

馬子と推古天皇、厩戸皇子の三者は血のつながりもあったため良き協力関係にあり、天皇と仏教を中心とした政治改革に取り組みます。

603年、豪族たちの序列を明確化するために「冠位十二階」を制定します。十二の等級に分けて豪族を区分しました。658年には階層が四十八階まで増えましたが、701年に三十階に落ち着き、明治維新まで続きます。明治維新後も階層は減りますが位階制度は残りました。

実は現在においても死没者の生前の功績を顕彰する叙位制度として残っており、階層は正一位・従一位・正二位・・・正八位・従八位の十六階となっています。

なお、生存者の功績を顕彰する制度としては、春と秋の叙勲制度があります。

翌604年には十七条憲法を纏めます。ここでは、最初に「和を以て貴しとなす」と宣言され、第二条で「仏・法・僧をあつく敬え」、第三条で「天皇に逆らうな」と続き、最後の十七条で再度「独断するな。みんなで話し合え」と説かれています。

十七条憲法とは、日本の「和」の精神が成文化されたものなのです。

その他にも、中国に対して遣隋使を派遣して中国と日本が対等な関係であると宣言したり、日本最初の歴史書編纂に従事したりするなど蘇我馬子と厩戸皇子は多くの功績を上げました。

622年、摂政・皇太子のまま厩戸皇子は死の病にかかります。回復を祈りながら献身的に看病していた最愛の妻が没した翌日、後を追うように皇子も死去します。享年48歳。

当時の平均寿命を考えれば若いとはいえないまでも厩戸皇子より年長である馬子と推古天皇は、皇子の死を嘆きました。

死後、皇子は「聖徳太子」として広く敬われます。1930年~1984年にはその肖像画が紙幣に使われていました。

以上、本日の歴史小話でした!

3月のセミナーパンフレットを作りました。受講者の体験談も載せましたので、一度ご覧になって頂けると嬉しいです!

https://note.mu/1minute_history/n/nf6b05458ceaf

========================

発行人:李東潤(りとんゆん)

連絡先:history.on.demand.seminar@gmail.com     twitter: @1minute_history

主要参考文献等リスト:

https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2

※本メルマガの著作権は李東潤に属しますが、転送・シェア等はご自由に展開頂いて構いません。

※配信登録希望者は、以下URLをご利用ください。 http://mail.os7.biz/b/QTHU

========================

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?