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#23 暴れん坊将軍というよりも、米将軍徳川吉宗の改革

このエピソードで学ぶこと

戦乱はもはや遠い過去となった日本ですが、
コメを中心とした社会体制に矛盾も生じ始めます。
困窮していく武士と幕府を立て直すため、
徳川吉宗が将軍となって改革を進めていきます。

本編(0分46秒)

・幕府も出来上がって100年以上が経ち、綻びが見えてきた。
・7代将軍徳川家継は跡継ぎ不在のまま亡くなってしまい、分家の紀伊藩から徳川吉宗が本家を継いで8代将軍になる。
・徳川吉宗は紀伊藩の財政を立て直した実績があり、幕府本体でもその手腕が期待された。
・吉宗は質素倹約で支出を減らし、税率を上げたりコメの価格を統制したりして収入を増やした。
・結果、何とか財政を立て直しつつ、人材登用を促進できるように足高の制を導入したり、広く意見を集めるための目安箱を設置したりするなど、幕府政治の修正を実施していった。
・これらの徳川吉宗の改革を当時の元号を使って享保の改革と呼ばれる。
・享保の改革は幕府財政の均衡という面はあったが、支出を絞った結果、社会の不安定さが増した側面もあった。

今回のおさらい(12分00秒)

Q1:徳川吉宗はどうやって将軍になったの?
→将軍家とは別の徳川一族である御三家紀伊藩から将軍本家を継いだんだ。
Q2:徳川吉宗が米将軍と呼ばれた理由は?
→武士や幕府・大名の収入は米がベース。そのため米の生産と米の価格に気を配ったから。
Q3:徳川吉宗はどんな人材登用をしたの?
→身分の低い人でも重要な役職に就けるよう足高の制を導入したり、目安箱を設置して庶民からも意見を募集したんだ。
Q4:結局、徳川吉宗の享保の改革はどうだったの?
→支出の引き締めによって幕府の財政は安定化。一方、年貢は厳しく物価は上がり、社会の不安定さが増す側面もあった。

次回予告(13分00秒)

初めて徳川本家以外の御三家から江戸幕府の将軍となった徳川吉宗。
前例に捉われない人材登用や、倹約の姿勢から傾いた幕府の財政を何とか立て直すことに成功しました。
しかし、農村家内工業が発展して貨幣経済が浸透していっているにも関わらず、
旧態依然とした米や商品作物の栽培など、農業主体の方法論に依拠したやり方でした。
社会はゆっくりですが、前に進んでいき、商業の重要性が増していきます。
そんな中、コメを中心とした幕府財政では、限界を迎えていってしまう。
時代は、商業をどう取り込んでいくのか。重要なファクターになってきました。
次回、ワイロで悪名高い田沼意次ですが、その政治が目指したものについてキチンと理解しましょう。

次のエピソード⇒#24_商業の発展を背景に栄える文化と災害多発の田沼意次の時代

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