見出し画像

#0195【生類憐みの令が目指したものとは何か(徳川綱吉③)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は、徳川幕府の歴代将軍の中でインパクトの強い「生類憐みの令」を出した徳川綱吉を全三回に亘って紹介してきました。その最終回です。

(前回:No.194【ワンマンになるには仕掛けが必要さ(徳川綱吉②)】)

側用人というシステムを導入することにより、老中たちの言いなり人形から解放された徳川綱吉は独自の政策を進めていきます。

綱吉が将軍となったのは1680年。1615年の大坂の陣以降も1637年に島原の乱や1651年の由井正雪の乱(慶安事件)など、戦国時代の殺伐とした気風が社会に残っていました。

綱吉は、これらの社会雰囲気を一掃し、徳を重んずる文治政治を推進していきます。

これは父・家光が綱吉に儒学を叩き込んだことも影響していると言われています。

自らも儒学の講義を実施したり、学問の中心地として湯島聖堂を建立したりするなど大変学問好きな将軍でもありました。

さらに皇室領を1万石から3万石に増額して献上するなど、社会の安定のために心を砕きました。

拡大する経済・市場規模に合わせて、貨幣供給量を増やすといった経済政策にも余念がありません。

そして、最大の政策が「生類憐みの令」です。この生類憐みの令は、一つの成文法ではなく135回も出された複数のお触れを総称するものですが、1685年に初めて出されてから1709年に綱吉の死をもって廃止されるまでの24年間にわたった法令です。

一般的には綱吉が、犬を大事にさせるために出した法律だという認識があるかと思いますが、その最大の目的は「命を大事」にするということを根付かせ、社会にのこっていた戦国時代の気風を一掃することでした。

この法令が出された前後で、社会の雰囲気は大きく変わったのです。

もちろん、施行されていた24年間には72件の処罰があり、堅苦しさも感じる法令だったでしょう。

当時の日本社会全体では、仇討ちが奨励され、武士のメンツのために大名(地方領主)たちが一触即発の状態となる、現代であればヤクザのような世界・社会が蔓延していました。

元々武士とは、命がけでその地位を得た人たちです。場合によっては暴力に訴え出ることも厭わない階層だったのです。

24年間にわたる劇薬の処方は、社会の意識を大きく変えました。それ以前は刀の試し切りのために簡単に命が奪われていたのです。

それが、生類憐みの令によって日本社会は「命は地球より重い」状態となったのです。

現代の動物愛護の精神から考えれば不自然なことはありません。

筆者は政策の力で大きく社会を動かした徳川綱吉を高く評価しています。

一方で当時の雰囲気を含めて歴史を書き残していくのは、綱吉がその影響力を低下させた老中などの名門一族たちです。

そして、厳しい劇薬だった生類憐みの令の不平・不満の声がそのまま綱吉の評価へと繋がっていったように感じています。

しかし、彼が「生類憐みの令」と呼ばれる一連の法律をもって、日本人と日本社会に残っていた「血を厭わない」「名誉のためなら命を懸ける」といった心の戦国を終わらせた功績は変わらないと筆者は思っています。

あまりにも毀誉褒貶、評価に差がある徳川綱吉ですが、読者の皆さんはどう感じたでしょうか。

以上、今週の歴史小話でした!

========================
発行人:李東潤(りとんゆん)
連絡先:history.on.demand.seminar@gmail.com     twitter: https://twitter.com/1minute_history
主要参考文献等リスト:
https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
※本メルマガの著作権は李東潤に属しますが、転送・シェア等はご自由に展開頂いて構いません。
※配信登録希望者は、以下URLをご利用ください。 https://mail.os7.biz/b/QTHU

========================

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?