喜劇・演劇物語 第1回『昇降』
今回のお題:演劇&爆弾
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「昇ったら降りる。人生と同じさ!」
その声で目を覚ますと自分の部屋だった。声は自分のものだった。俳優生活八十年。こんなふうに自分の声で目を覚ますことがいまもよくある。夢の中でも稽古をしていたのだろう。昼間もしたというのに、まったく幸せなことだと田辺は思う
一階に降り、キッチンで水を飲む。
いよいよ明日から引退公演『昇降』が始まる。ロシアの作家ラーロフの遺作。主人公の青年コザフは田辺にとって初めての「当たり役」だった。あれから八十年。あまりに長かった。まるで行き先のわからない階段をどこまでも昇っているような……いや、昇るだけならまだいい。いくら長くとも、昇りきってしまえばいいのだから。
労働者の悲哀を描く『昇降』は、全四幕すべてが階段の上で進行する不条理劇だ。雇い主の横暴を訴えるため労働局を訪れたコザフは、一階と二階をつなぐ階段をひたすら往復し、たらい回しを受け、結局彼はどこにもたどり着くことなく、最終幕、ひとり踊り場でその人生に幕を下ろす。
田辺はこの作品を自身の百歳の誕生日である明日から全国5都市をまわって上演する予定だった。
グラスを流しに置く。静かに。
まだ外は暗い。もうひと眠りしておこう。
寝床のある二階に続く階段に左足をかける。みしっ、という音を骨伝導で感じた次の瞬間、田辺の左足の爆弾が爆ぜた。うっ、と小さなうめき声が聞こえた。自分の声だった。二時間後、同居する息子におぶわれて二階を降りるあいだも、やっとのことでタクシーに乗ってからも、田辺は明日の本番のことで頭がいっぱいだった。
やれるのか、おれは。
いや、この膝ではとうてい無理だ。
ある研究者によると、『昇降』でコザフが階段を往復する距離は東京タワー三十三往復ぶんにも及ぶそうだ。田辺の膝が耐えきれないのは明白だった。
劇場に到着すると、田辺はスタッフたちに土下座し、公演中止を告げた。こんな形で俳優人生の緞帳を下ろすとは思ってもみなかった。
演出家は言った。
「息子さんから話は聞きました……」
演出家は泣いていた。いや、スタッフ全員が泣いていた。「ありがとう」「すまない」。田辺に言えることはそれだけだった。最後にきみたちと出会えたことがなによりの贈り物だ。ほんとうにありがとう。
舞台の裏手から声がした。
「準備、できてます!」
準備。なんのことだ。
演出家がぱちりと指を鳴らす。
と、舞台前面に吊られていた黒幕が落とされ、異様な「それ」があらわになった。
きのうまで舞台上にあった階段のセットが、そっくりエスカレーターになっていたのだ。ヴィーンと低い音を立て、いまエスカレーターは1階から2階へと昇り運転を続けている。
なんなんだ、これは。
若い舞台監督が「田辺さーん」とこちらに手を振りながらエスカレーターで昇っていく。舞台監督は満面の笑みで、あっけらかんと言った。
「これなら大丈夫ですよね~、膝!」
ヴィーン。
馬鹿野郎が。
あの名作『昇降』をエスカレーターでやるなんて、いったいどんな冗談なんだ。なにが「これなら大丈夫ですよね」だ。大丈夫なわけがあるか。馬鹿野郎。馬鹿野郎と馬鹿野郎と馬鹿野郎。馬鹿野郎たちが。
気づくと田辺は泣いていた。
嬉しくて悲しい。感情はめちゃくちゃだった。よし、この経験を次の役に活かそう、と頭のどこかで思う。それは長年の俳優としての癖だったが、もちろん新たな出演依頼はもう来ない。
公演中止によって多額の借金を背負った田辺は演劇学校で教えながら静かに余生を送っている。
最近嬉しかったのは、息子が自宅をリフォームして、階段に電動の昇降器具を取り付けてくれたことだ。それは低い音を立てて動く。
ヴィーン。
★喜劇・演劇物語 第1回『昇降』 おわり
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