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母親以外の何者でもない夏|2023.09.20

先日、子が生後7カ月を迎えた。そしていつの間にか9月になっている。7月、8月はとても暑くて、あっちっちぃね〜、と言いながら家の周りをぐるぐるしているうちに溶けて消えていった。この夏、私はほとんど半径1キロ圏内で生きていて、その間、子には歯が2本生え、寝返りもほふく前進もできるようになり、ベビーチェアに座れるようになり、離乳食を食べるようになった。

離乳食の回数は当初1日1回で、今では2回になった。形状も、初期(生後5、6カ月ごろ)のトロトロペーストから次第に水分を減らしてベトベトポッテリになり、中期(生後7、8カ月ごろ)に入った今は豆腐のように舌で潰せる小さな固形へと移行しつつある。

目下、私の頭はこの離乳食中期の作り方、食べさせ方でいっぱいだ。暇さえあれば離乳食のことを考えているといっても過言ではない。スーパーに行けば離乳食に使える食材を探し、スマホを開けば離乳食の本やアプリを眺め、手があけば野菜や豆腐、魚をすりおろしたりすりつぶしたり刻んだり、お粥を炊いたり、出汁をとったりして冷凍保存している。

別に、何かこだわりがあるわけではない。ただ普通に、月齢に合ったものを、食べられる量と形にして与えようとしているだけだ。生協を使って離乳食支援の食品(裏ごし済みの野菜などの冷凍食品類)も多用しているし、お粥を炊くのも鍋ではなく炊飯器だし、すりつぶすのもすり鉢ではなくハンディブレンダーだ。手を抜けるところはたくさん抜いている。それなのに、考えることも手作業も、私の生活をほとんどたっぷり満たすくらいのボリュームで存在する。

頭と手と足をせわしなく動かして準備したその食事を、子に食べさせるのもまたひと仕事だ。初期のうちはわりと従順にスプーンを見て口を開け、もむもむと1、2秒口を動かしてごくんと飲み込んでいた。しかし今はもうそんなおとなしい子は見られない。チェアから身を乗り出して器に手を伸ばし、お粥や野菜をむんずとつかみ、掻き回し、テーブルやチェアに塗りたくり、その手で自分の髪を握りしめ、私の服を引き寄せて顔をすりつけ、スプーンを奪い取って噛み噛みし、テーブルに叩きつけ、わざとじゅうたんに落とし、スプーンを拾う私の髪の毛をつかんで笑っている。

そうやって遊びながらであればぐずることなく食べてくれるのを発見して以来、毎日2回、そんなありさまである。私は器を子から奪い返して遠ざけ、代わりに左腕を差し出し、そこに少量のお粥をこぼして気を引き、そこで子がこねこねと遊んでいる隙に右手でスプーンをこの口に運ぶ。するとぱくんと食べる。もぐもぐもぐと5秒から10秒ほど口を動かしてから飲み込む。子が飽きてきたら器を近づけてつかませる。こねこねべちゃべちゃ、その隙にスプーンを運ぶ、ぱくんと食べる。それを繰り返すこと数十回(時間にすると20分から30分くらい)、ぶじに80グラムの7倍がゆと野菜ペースト数十グラムを完食である。やったー!

大げさに喜んで褒めたあとは、一面に塗り広げられた食べ物を拭いていく。私の腕、テーブル、子の手、子の顔や頭、腕や足、椅子、床、……。拭いても拭いてもどこかがカピカピしていたり粉っぽかったりするけれど、永遠に拭いてもいられないので諦める。食器と食事用エプロンを片付けたら、汚れすぎた服は着替えさせ(時には私も着替え)、髪に櫛を入れ、濡らしたガーゼで2本の歯をちょんちょんと磨き、子の皮膚がかぶれないように保湿剤を塗る。さあ、その後ようやく授乳して、お食事完了である。

大変だ、と言いたいわけではない。まあ、もちろん少しうんざりするくらい大変ではあるのだけど、このくらいの大変さなら、しんどさよりも面白さのほうがまさっている。しかも何よりありがたいことに、息子はちゃんと食べて成長してくれているのだから、手応えもしっかりあって、言うことなしである。

食べさせている最中はもちろん、買い出しに始まり後片付けにいたるまで離乳食に関わっているあいだじゅう、私は100パーセント母親であって、それ以外の何者でもなくなる。やがて復帰する仕事のことも、迫りくる保育園選びの面倒くささも、読みたい本のことも、会いたい友達のことも、その他の憂いごとも忘れて、ただ目の前の子どもを育てている。

母乳をやるだけよりも、食材を調理して食べさせる行為のほうが「子どもを育てている」という実感が強いというのは少し意外だった。子を産む前にはぼんやりと、母乳をやるのは母性の象徴のように思っていたけれど、そうでもなかった。逆に、つい最近必要に迫られるまでまったく意識していなかった「食べさせる」行為が始まった途端に、こんなにも自分が母親になっていくのだということに驚いている。母乳を与えているときには、感情というよりも原始的な感覚があって、無理やり言葉にするなら「うん、飲まれているな。なんだかよくわからないけど、赤子はこうやって育つんだな」という感じだったのだ。感情を抱くとすれば「母乳飲んで育つなんて不思議なもんだな」とか、「生まれて間もないのにこんなに一生懸命吸えてすごいな」というようなもので、いずれにせよちょっと他人事、というかむしろ人智を超えたところで起きている現象を見ているようだった。それに比べて、食べ物を与えるのはもっとずっと手間のかかる能動的な行為なのだから、「育てている」意識が強くなるのは当たり前なのかもしれない。

母親であることがあまりにも充実しているから、もう他には何も考えなくてもいいんじゃないかとさえ思う。そして、子どもが眠りについたときにふと、「そんなわけないだろ」と我に返る。子どもが私のすべてになってしまったら、いつかきっと私は子どもなしに自分を保つことができなくなるのだろうから。成長した子を束縛し続ける母親たちの姿を見るにつけ、私は自分を見失ってはいけないな、と反省する。なんだかとっても当たり前なことを言っているけれど、でも、母親として振る舞うことの圧倒的な充実感を前に、それに飲み込まれないで生きていくことはけっこう難易度の高いことなんじゃないかと今、初めて当事者として実感しているのだ。

大げさに不安がってみたけれど、仕事に復帰すれば、「100パーセント母親」状態は自動的に回避されるだろうとも思っている。職場では職場の役割を果たし、仕事の成果を出さなくてはならないわけで、考えるべきことが必然的にどんどん増えて、母親であることだけに集中することはできなくなるのだから。

そう思うと復帰が少し楽しみにもなってくる。敬愛する先輩が以前、「育児と仕事の両立が楽しい。切り替えができて、どっちもリフレッシュした状態で向き合える」というようなことを言っていたのを思い出して、にんまりする。そんな理想的な状態に私もなれるかどうかはわからないけれど、少なくとも母親以外の誰かとして思い悩むことはできるようになるだろう。

だからひとまず残りの育休期間4カ月は安心して、100パーセント母親状態を味わっていようかなと思う。睡眠、食事はもちろん排泄さえ自分の思い通りのタイミングでできないような日々、……そしてたまに乳房が腫れて激痛と高熱にうなされることのある日々……と言えばそうなのだけど、それも含めて楽しいと言えるような環境にいられてありがたいことかぎりない。

そろそろ涼しくなってくるから、散歩も遠出ができそうで楽しみだな。
それではまた。


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