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多様な社会の実現で、躾とマナーが滅びるという仮説

マナーが悪い人や行儀が悪い人を見て不愉快な気分になるのはなぜだろう。

クチャクチャと音をたてて食べたり、足を机に置いたりして生理的に嫌な気分になるのはなんとなく理解できるけれど、例えば箸の持ち方が違うとかだけでなぜ不愉快な気分になるのだろう。全くと言っていいほど実質的な害は被っていないのに、なぜだかモヤッとしてしまう。

その自分の感情に向き合ってみたら、多様性についても考えることになった。

行儀がいいぼく

ぼくは子どもの頃、食事の作法などを厳しく躾け(しつけ)られて育った。食事は正座で、肘をつかず茶碗を持って食べる。ふざけていてコップに入った牛乳をこぼしたら、「歯を食いしばれ」と言われて父親から平手打ちをされることもあった。それは感情に任せたものではなく「子どもの将来のため」を思って愛情を持って行われたしつけだ。また、幼少から武道にも触れていたため、所作や礼儀も厳しくしつけられた。ゆとり世代にしては少々古めかしいしつけ方法のおかげでぼくは人並み以上に行儀のいい振る舞いができるようになった。

しかしながら、大人になってからその行儀の良さのおかげで感じるのは「生きやすさ」よりも「生きづらさ」のほうだった。

周りはそこまで厳しい家庭ではなかったようで、友人と楽しく食事をしていても肘をついたり左手を出さずに食べているのを見るとつい目がいってしまい、「なっていないな」と気分を悪くした。同じような躾を受けた人と、なっていない人を見て「育ちが悪いね」と自分たちが正しいということを確認しあったりもした。もっと言うと、ただマナーがなっていないだけで、人格までも否定する感覚をぼくは持っていた。

ただの振る舞いだけでその人の中身までも分かったような気になってしまっていた。それは、できていない人をみくだしているということだ。できていないのは、「ぼくが知っているそれ」ではないにすぎないのに。それを見て不快になるのはそのマナーを「正しいこと」としつけられてきた人だけなのに。誰にも迷惑はかけていないし、それを指摘したら指摘された方が不快になるのに。

「人として身につけなさい」と学んだことは、それをできていない人を「人として欠落している」と見てしまうのだ。なんて恐ろしいんだろう。

ぼくが厳しく躾けられて育ったのは、周りの人をうっとりさせるような美しい所作ではなく、それができていない人を見て許せなくなる独りよがりな正義感と、それを非難して顰蹙(ひんしゅく)を買う力の方だった。

それに気づいてから、ひとそれぞれの形があると思うようにはしている。けどね、たまにぼくの知っている礼儀作法から見れば失礼にあたる人を見てモヤッとする。そんなときは無理に「自分は多様性を受け入れられない人間なんだ」なんて思わないようにはしている。

そういう価値観を持っている自分もまたそれぞれの中の一つなのだと。ただ、押し付けることはできるだけしないように、あの人はあの人だと、ぼくは知らないだけなのだと思えたら。

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文化としてのしつけとは

表題に「しつけとマナーは滅びる」と書いておいて何だが、文化としてのしつけやマナーは残ると思っているし、残って欲しいとも思っている。

ただ、子どもに「将来恥をかかないように」と教えるしつけは文化なのだろうかと考えてみた。

躾やマナーについて友人と話していたときに、「文化だけではなく、階級の証、身分の証もあるのではないか。お里が知れるという言葉があるように、周りから蔑まれないようにという意味もあるのではないか」という話になった。「子どもの将来のために」「育ちが悪いと周りからバカにされないように」というのは、まさにこれだろう。

これを文化と呼ぶのだろうか。

上流階級はしっかりと躾けられて育ち、貧困な家庭は躾に疎く育ち、大人になってからその差が現れて躾けられた者が躾られてない者を虐げる。虐げられないように厳しく躾ける。そんな時代もあったのかもしれない。けれど、いまの時代にそれを文化とは呼んでいいのだろうか。ぼくの知っている言葉だとそれは文化ではなく差別と呼ぶ。

文化というのは、社会やコミュニティの仲間たちが共有しているもので、それはその社会やコミュニティを豊かにするものだ。その中で伝統として醸成されてきた作法や礼儀はその社会を尊び仲間意識を育み、より結束を固めていくのだと思う。

そのそれぞれの社会やコミュニティが共存してさらに大きな社会を形成する。

その中でわざわざ分断する必要はない。認めてもらえないと怯えるのも、できていないからと村八分にするようなことも、これからの時代に必要なことだとは思わない。

これから向かうのは「みんなが同じ」ではなく「お互いが違うこと」を認め合える、多様性が尊重される社会だ。

それは、だれもしんどい思いをしない社会だ。できることを認め合うのではなく、できないことを許し合う社会だ。

多様性がもたらすもの

家庭も小さな社会だ。子どもと関わる仕事をしていると、さまざまな家庭の子どもたちと関わることになる。

それは、多くの価値観に触れるということで、もっと言うと多くの小さな社会に触れるということだ。同じ日本に住んでいるからといって、生活様式も宗教も様々だ。保育指針にも「文化の尊重」とあるが、文化とは国籍だけではない。それぞれの生活にある、それがその家庭の文化なのだと思う。

多様性の尊重とは「素晴らしいね」ということではない。「わたしには理解できないけれどあなたはそれを大切にしているんですね」と受容することだ。否定しないということだ。自分が傷つくことも、だれかを傷つけることもない。

背が高い人もいれば低い人もどちらでもない人もいる。男性もいれば女性もいるしどちらでもない人もいる。健康な人もいれば病気をしている人もしるしどちらでもない人もいる。それぞれがそれぞれとして尊重され、それぞれが生きやすく生きて小さな社会やコミュニティを営んでいく。

それぞれの小さな社会やコミュニティが共存してさらに大きな社会を形成するために、それぞれの文化が違うことを受け入れながら生きていく。

自分たちにあった生き方を自分たちで大切にして、それを周りは尊重し合う。

それが「多様性を尊重した社会」だ。社会に合わせて育っていくのではなく、社会が人間に合わせて変容していく。そのなかで、身につけていきたいのは「社会“を”生き残るための正解」ではないだろう。

相手が自分と違うというのは、同時に、自分も相手とは違うということだ。
お互いに違うことが当たり前になったとき、「当たり前」がなくなる。できて当然だと思っていたことも、その「自分の当たり前」は自分のものでしかないことを知る。


そして、多様性を尊重する社会の実現で、しつけやマナーが滅びるという仮説

ここで考えたいのが、多様な社会へと移り変わっていくことで、多様な言語、多様な価値観が混在し、より分断が起き、コミュニケーションが図りづらくなる。…と予測されているかもしれないが、それは逆なんじゃないかということだ。


同じ言葉を使っているのに話が通じないことがある。毎日一緒にいるのにすれ違うことがある。同じ仕事をしているのにいつの間にか違う方向を向いていたということがある。

それらは、「相手はわかっている」「伝わっている」という思い込みから、「あなたも同じだからわかるでしょう」というある種の傲り(おごり)があるから起きているのではないだろうか。同じ言語を使っているから、同じ文化だから、同じ会社だから、同じ家族だから同じ性別だから「答えは一つだろう」と。細かく言わなくてもわかるでしょう、当たり前でしょうと。

多様な社会ではそうはいかない。みんなが「同じではない」ことが当たり前になる。そうなれば、「あなたはそうじゃないかもしれない」と思いながら話すことになる。あなたは違うかもしれないけれどぼくはこう思うんだ、と。

「私の価値観や言葉は伝わらないのではないか」と思って伝えるなら、自ずと一方的な「当たり前」を前提に話すことはなくなるだろう。海外から来た友人をもてなすようにゆっくりと丁寧に相手にもわかる言葉と説明で話すだろう。

受け取る側も、相手の言葉に違和感を感じた時に「本当にその意味でその言葉を使っているんだろうか」「違う意味で使っているんじゃないか」と言葉尻ではなく相手の本意を想像しながら聞くだろう。違和感を感じても「失礼だ!」と憤慨することもなく「相手の意図を受け取れているだろうか」と慮り「こういう意味で合っているかな?」と聞くのではないだろうか。


相手と自分が違うことを前提にしていたら、自分が正しいと躾けられてきたことを相手がしていなくても、不快に感じないだろう。そういう文化なのかもしれないと思える。そして、もし相手に不快だと言われたとしても「なにも失礼なことはしていないのに」と思うのではなく「自分は当たり前だったけれど相手にとっては嫌だったのかも」と思えるかもしれない。

その文化の儀式や芸道でその歴史を無視した作法をするのは失礼にあたるだろうし多様性では済ませられないだろうけれど、箸の持ち方はその人の生活だ。その人の生活が「日本人としての文化を重んじていない文化」でも、僕たちには関係ない。それは多様性の一つとして受け入れられるのではないだろうか。

そしてもちろん、それを見て不愉快な思いをするその感情も尊重されるのだろう。

そんな風に多様性が尊重されていけば、マナーの数は今よりも多種多様になっていく。そうなると、マナーは型ではなくなるのではないか。
相手を不快にさせない振る舞い、いわば思いやりを振る舞いとして表すことと、相手の振る舞いを敬意を持って受け入れることなのではないだろうか。そうなると、しつけとマナーは無くなっていくんじゃないか。

それは、無秩序とは逆の、もっとより人として敬意を払った行動に昇華していくのではないだろうか。


何でもかんでも「多様性」ですまそうというわけではない。

けれど、いま当たり前だと思っていることが誰かを追い込んだりしていないかを考えていたい。もしそれで誰かがしんどい思いをしているのなら、その「当たり前」をしまって、新しい当たり前を見つける努力をしてもいいと思うのだ。


どんな風に伝えるか

わたしの両親がそうだったように、その子の将来を憂うことを間違いとは言いたくない。そんな時代になっていくから行儀が悪くていい、というのも暴論だと思う。

だから、どんな風に伝えるのかを考えたい。

例えば友人と飲みにいってスマホを見ることはマナー違反だろうか。目の前の相手を尊重するために見ないのが今までの価値観かもしれないけれど、「あなたは気の置けない友人ですよ」という意味で気にせず振る舞うのも一つの思いやりかもしれない。もしそれで嫌な気分になるのなら、「マナー違反ですよ」ではなく「一緒に食べている時間を大切にしたい」と伝えたい。

箸の持ち方は「こっちの方が持ちやすいよ」かもしれないし、日本の文化を伝えたければ美しい所作をユーチューブで見ながら「こんな風に食べるのかっこいいね」と伝えるかもしれない。生理的にイヤな気持ちになるのなら「私は嫌な気分になるからやめてほしい」とお願いするかもしれない。

同時に、「きみはこの方が食べやすいんだね」と伝えたい。注意したくなる気持ちを抑えて「手で食べた方が食べやすいんだね」「肘を付いた方が楽なんだね」とまずは受け止めたい。自分と違う人を見たときに「そんなのおかしい」ではなく「きみにとっては」と思ってほしいから。


あとがき

先日、子どもたちのあるやり取りを見て、多様な社会が実現できる希望をもった。

高学年の子が正しい箸の持ち方の話をしてたら、二年生が「正しい持ち方とかないやろ〜ちゃんとした持ち方って自分に合った持ち方やろ。正しい持ち方とか、無理に違う持ち方しろって言われてるのと同じやろ」と話しはじめた。

だれかの受け売りという感じではなく自分の言葉で、淡々と「無理に持ったらしんどいやろ〜指折れるやろ〜」と話していて、正しい持ち方について話していた子たちも「ほんまやなあ〜」と笑って受け入れていた。


「正しい」ということよりも、それぞれの個性を尊重する視点。「しんどさ」に焦点を当ててその解決のために、その人に合った「正しい」を再定義する思慮深さ。

そして、それをユーモアを交えながら攻撃的ではなく淡々と話すことで、相手も敵対せず受け入れて何が正しいんやろうなあと笑い合っている姿。

尊重し合うって、対話をするって、当たり前に潰されないってなんて尊いことなんだろう。もしかしたら家で散々怒られているから言い訳として思いついた屁理屈かもしれない。けれどそれでもいいじゃないか。

新しい時代なのだ。この時代の子どもたちを大切にしたいと心から思った。ぼくたちが潰してしまってはいけないと。

ぼくはまだ、「多様性を尊重しましょう」という「今の時代の正解」を誰かに押し付けてしまいそうになっていたことに気づいた。

この子どもたちのやり取りをTwitterで発信したら、多くの反応があった。賛否両論といってもいいほどの幅広い価値観を見ることができた。

それでいいのだと思う。いろんな意見があっていいのだ。この文章で、ぼくは自分の「多様性を尊重する」扉を開けたい。だれも否定することなく、正解と不正解で分断したり誰かを追い詰めたりすることがない文章を書きたいと思った。きれいごとかもしれないけれど、諦めたくない。

「正しいとかないやろー。自分に合った生き方が正しい生き方やろー。無理に生きたらしんどいやろー」そんな風にみんなが言えたらいいな。

言えなくてもいいなって思えたらいいな。

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