才能への無気力感と努力
最近絵師の人と話した感想です。なるべく短くまとめます。
怖がり
自分は小さい時から他人と話すことが億劫でした。(今も)
勉強だけは頑張って地方では割と偏差値の高い高校・大学に進んだ結果、周りの人間は「賢くて物知りで面白い」人たちばかりになりました。
そんな友達と話している時の自分は劣等感を感じてばかりでした。それは、何を話しても
「知識量についていけない」
「相手ほど深く物事を考えられていない」
という状態で話についていけなかったからです。
次第に、自分には友達のような「賢い・物知り・面白い」といった才能が無いと思い始めました。その結果、すこぶる頭のいい友達を尊敬するのと裏腹に、会話をするのが億劫になりました。
無力感
才能が無いと感じた次は無力感に襲われました。才能のない自分が何をやっても意味ないと思うようになったのです。
例えば…
・絵を描くこと
・ピアノ弾くこと、曲作ること
・ゲーム業界への就職
など、色々と諦めてきました。
才能の否定
ところが、最近話した絵師さんは才能を真正面から否定してきました。「好きなことなら才能関係なしに上達する。必要なのは努力だ」と。
自分にはそうは思えませんでした。例えばスポーツ選手も、漫画家も、研究者も、お笑い芸人も、ゲーム開発者も、才能があるからこそ世の中で輝くことができる、と。
それでも、目の前で話している絵師は努力の素晴らしさを説いてくる。実際に本人の話を聞くと、何かを好きになって努力することで色んな物事を身に着けた事が伝わってくるし、絵を見ても努力によって上達した過程がよく分かる。何度かこの絵師さんと会って話をしているのですが、会うたびに話の内容も広く・深くなっている。
これが努力というやつなのか。
努力と希望
絵師さんと話した後、自分が今まで感じていた
「知識量についていけない」
「相手ほど深く物事を考えていない」
という劣等感が才能の無さによるものではないのだと感じ始めました。ただ自分が努力していなかっただけだと。
逆に言うと、努力できるなら自分が羨望の目を向けていた高校・大学時代の友人とも対等に話ができるのかもしれない。そう考えるようになりました。無力感で諦めていた筈の事が、いきなり自分にもできるという希望に変わったのです。
自分もあの友人たちと一緒に話すことができたならどんなに楽しいか…。何度も夢見ていたことでしたが、今は努力すればそれを実現できる。という希望があります。ワクワクしますね
それでも才能はある
最後に。
元も子もないような事を言いますが、結局「才能は存在する」というのが僕の意見です。
特にスポーツや将棋など競争の世界では顕著です。努力ではどうにもできない、神に選ばれた人間にだけ与えられる才能。
その才能を持った人間がどういう人生を歩んでどう輝くのか、ということに強く惹かれるのです。これは「人間」という種がどこまで限界を超えられるのか、という部分に面白みを感じているのだと思います。
まとめ
今回の絵師さんとの話を経て、自分の中に努力をすれば色んな事ができるようになるという希望が見えました。それと同時に、それでも自分は才能が好きであるという結論も出ました。
色々とモヤモヤしていた事が、自分よりはるかに若い人間と話すことによって解決できたというのも自分にとってはいい経験だったと思います。この経験で年齢は関係ないことがようやく分かりました。
では
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