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覚醒#8

逢魔時ー。地下鉄のホームは、学業や労働を終えた市民達でごった返している。しかし賑やかさなどは微塵も無く、列車の出発を知らせる構内放送が、虚しい独り言に聞こえる程に、極めて閑静だ。かと言ってその閑静の内に、劇場や書房を思わせるような上品さは伺えず、どこか鬱屈としていて、嫌な匂いが立ち込める。その匂いの誘因となるものは、人々の身体から発せられる、目には見えない、濁りを帯びたガスだ。それらがホームに充満し、薄暗い空間を照らす心許ない蛍光灯や、薄ら冷たい感触の壁や床、柱にこびりつく。このガスが目視できるものであるなら、喫煙家の爺共で賑わう喫茶店のヤニ汚れに等しいシミが、とっくに広がっているであろう。どう手を尽くしたって、拭いきれない厄介なシミ。誰もそのシミに気付かない。シミは愚か、馬鹿に大きい駅看板にすら、奴らは見向きもしない。看板に映っているものが、艶めかしい視線を送ってくる美女だとしても。その美女の目元や唇に塗られている化粧品の色味が、幾ら魅力的だったとしても。人々は俯いたまま、手元の電子機器を弄り続けるか、期末の試験に向けて問題集を解き続けるか。
後者である一人の男子学生は熱心に、呆国史の問題集に並べられた単語の羅列を指でなぞって、ぶつぶつと呟いていた。あまり褒められたものでは無い暗記法に、学生は静かに苛立ちを見せるも、他にどうすることもなく、ひたすらに問答を繰り返していた。やがて学生の煮えたぎった脳は、呆国史に残る文化や事件概要、その他ありとあらゆる知識を一切受け入れられなくなり、QとAの二文字だけが、餌に群がる無数の黒蟻の如く、学生の脳を蝕んでゆく。学生が小さく歯軋りをしていると、右隣にガタイの良い輩風情の男が現れた。輩男はただ、一番列が短いと感じて学生の隣に並んだだけであって、学生のことなど眼中に無いわけだが、何故だか学生は輩男の威圧感に妙に動揺し、集中が途切れてしまう。嗚呼、畜生、参ったな。学生が目眩に近い感覚を覚えたその瞬間、なにか鈍い音が小さく響き、同時に、開いていた頁に、数滴ばかりの液体が降りかかった。思わず我に返った学生は、液体の出元をなんだろうかと右斜め上を見上げてみる。
輩男と目が合った。輩男の目は血走って、涙ぐんでいる。輩男の顎は外れんばかりに歪んで、涎が溢れている。なんだよおい、あんたの涎が飛んできたのか、汚いなあ。学生が不快そうに眉をひそめる。だがそれは僅かコンマ1秒程の事で、学生はすぐに、おかしいなと思う。おかしいな、この人、頭の向きがやけに横に真っ直ぐだな。そして、そうかと気付く。そうか、この人、首がへし折られてるんだ。
輩男の頭と首には、恐ろしく太い二本の腕が、大蛇の如く絡みついている。輩男の首をへし折ったのはこの大蛇だろう。やはり大蛇は危険な生き物だ。しかしどうして地下鉄の駅に大蛇が。いや待て待て。そうじゃないだろ。学生は更に上を見上げてみる。もうひとつ、輩男とは別の首が見えた。大蛇の飼い主か。阿呆、だからそうじゃないだろ。輩男の首をへし折った奴だ。なんて身体の大きい人だろう。僕もたくさん鍛えて、これくらい屈強になりたいものだ。そうしたら勉強なんてしなくても、なんだか生きていけそうじゃないか。ねえあなたもそうなんでしょ。いいなあ。渇いた笑いをこぼす学生とは相反して、堰を切ったようにホームから必死に逃げ出す人々の、酷くやかましい阿鼻叫喚が、先程までの鬱屈とした静寂を無惨に切り裂いていく。
大蛇の飼い主は、その身体からうねらせる大蛇を輩男の首から剥がそうともせず、そのまま輩男の頭部に頬擦りをしている。これでもかというくらいに輩男を愛でたあと、気まぐれにその屍を放り捨て、未だ渇いた笑いを絶やさずにいる学生の、憎たらしい口元に手を伸ばし、舌を引っ掴んだ。尚もへらへら笑っている学生に苛立った大蛇の主は、空いてる片手で学生の顔面を押さえつけ、舌を引っこ抜いた。たまらず溢れる赤黒い血に、ごぼごぼと溺れかけながら、学生はその場にぐしゃりと倒れ込む。彼は見事、忌々しい学業に追い込まれる生き地獄を脱することができたのだ。祝え、祝ってくれ、と言わんばかりに、学生は、だらしなく血と涎に塗れた顔いっぱいの笑顔で、天を仰いだ。

「こちら"γ(ガンマ)"。神宿駅構内、傾奇駅方面ホームにて、標的を確認。現時点での被害はおそらく学生らしき人物一名のみ。他の駅員や乗客等は無事避難に成功してる模様。応答どうぞ」
素早い口調で、かつ正確に目前の状況を、無線を用いて報告しているのは、やや紫がかった黒一色の戦闘服に身を包んだ、一人の男。否、一人では無い。そのリーダーらしき男を先頭に、全く同じ姿をし、拳銃や短機関銃者を構えた者たちが四名、少々派手な靴音を響かせながら、階段から地下へ駆け込んできたのだ。彼等は、呆国"粛清"機関・JBGより遣わされた執行班である。
「さすがは我らが敗戦国の愚民。逃げ足は一級品だよなァ」「緊急事態にゃ無駄に敏感で助かるぜ」「てめえの命はてめえで守ってもらわないとな」
連中が、口々に悪態を吐き捨て始める。
「まじで射殺命令下りないんすか?」「もういいじゃないすか、撃ち殺しちまいましょうぜ、あんな薬漬けのクズ」「もろは組の人間は殺しちゃならねえっつってんだろ。後が厄介だ」「せーとーぼーえーってやつだよ、せーとーぼーえー」
怪物を前にして、日々国家の治安維持活動をする者とは思えない会話を交わす部下達に、注意することも忘れ、リーダーの男は何故か無線を片手に押し黙っていた。それを不審に思った二番手らしき男が声を掛ける。
「どうしたリーダー」
「"δ(デルタ)"の応答が無い」
「…やられたか」
二番手のその一言で、"γ(ガンマ)"班が一斉に殺気立つ。
「上等だ、ドーピング野郎が」「気合入ったぜ」「遅えよ阿呆」
「麻酔弾の準備はいいかお前ら、あくまでも任務は捕獲だ、忘れるなよ」
リーダーの注意喚起に、部下達が口を揃えて、了解、と返した。
怪物は、学生から引っこ抜いた舌を飴玉のように自身の舌の上で転がしながら、"γ(ガンマ)"が向ける銃口に少し警戒している。
奴が怯んでいる隙に攻めねばと、踏み込もうとするが、すぐに留まり、突如訪れた驚くべき目前の状況に、γ(ガンマ)"班は、瞬時に、冷静に、対応する。
怪物の背後、遠く向こうにある上り階段から、同業者と思わしき姿の男が一人、足音を殺して、現れたのだ。
戦闘服はすでにぼろぼろで、ヘルメットや目出し帽すらも失った剥き出しのその顔に、"γ(ガンマ)"班は覚えがあった。全滅したはずの"δ(デルタ)"班の兵である。"γ(ガンマ)"班は総じて固唾を飲み、拳銃を握り締める無防備の兵士が、階段を一段、また一段と慎重に進んでゆくその姿を、じっと見据える。怪物の意識をこちらから外さぬよう、銃口は下ろさない。しかし怪物もいつまでも大人しくいるわけもなく、咥えていた学生の舌をぷっ、と吐き捨て、地面を蹴った。正確に言うならば、蹴られたのは地面ではなく、学生の亡骸であり、ぐしゃばらっ、と、亡骸は砕かれ、飛び散った。瞬間、発砲音と共に、怪物の右脚があらぬ方向に曲がり、怪物は、その方向へと身体ごと持っていかれて、無様に転がる。"δ(デルタ)"兵による狙撃により、怪物が態勢を乱した。間断なく発されたリーダーの号令に従い、"γ(ガンマ)"班は編隊を組み、怪物の至近射程距離内へ攻め込む。怪物が使用した劇薬ドーピングを鎮静させるには、脊髄、臀部、大腿、上腕部の計六箇所に即効性麻酔弾を撃ち込まねばならない。"γ(ガンマ)"は怪物が態勢を直す前に包囲し、各部位に麻酔弾を撃ち込み、錠を掛ける算段だ。
しかしそれは、容赦無く崩れ去る。
地面に転がり伏せたはずの怪物が、その反動に乗じて身体を捻り、ぶるんッ、と、例の大蛇の如き太い右腕を荒々しく振るった。拳を叩きこんだのではない。何かを、投げ飛ばしたのだ。ごがぁッ、と声が上がる。投げ飛ばされた何かが、第一線を駆けていたγ(ガンマ)"兵の頭をひとつ、ヘルメットごと砕いていた。破片と血飛沫、脳味噌が宙を舞う。「コンクリの欠片か」「野郎、いつの間に床から抉り取りやがった」次鋒二名の班員は、怪物の攻撃をその目に捉えていた。「しゃあねえ。戦術変更。近距離型」「了解」足を止めた次鋒二名が、それぞれ拳銃をホルスターに収め、ベルトから黒塗りの大型軍用ナイフを素早く引き抜く。「四肢のスジを切断」「了解」次鋒二名は隊列を組み変え、挟み撃つようにして怪物の間合いへ踏み込んだ。右が腕、左が脚、それぞれの靭帯あるいは腱の部分を狙って、ナイフを振るう。連続して繰り出される二つの刃。しかしそれらは容易に躱(かわ)され、スジにもカワにも届かない。畜生、もう一振り。脚を狙う兵が、ナイフのハンドルを握り直すも、その強い執念虚しく、二撃目を振るわんとした寸前、喉元に、怪物の爪先が一閃、喰らいついてきた。吹き出した鮮血で目出し帽の口元を真っ赤に染め上げながら、兵は線路内へと転げ落ちてゆく。怪物は興奮冷めやらず、もう一匹の獲物に馬乗りになり、拳を高く振り上げた。「やめろ、やめッ…」兵の命乞いは、ぐしゃッ、軽々と怪物に殴り潰される。怪物が体液に塗れた拳をゆっくり離すと、粉々に砕けたヘルメットの破片と、醜く崩れた肉片が混ざり合い、コンクリートの床にへばりついていた。田畑の陰にゴミ屑と共に打ち捨てられている、腐った果実のようでもあった。ゆらり…と、怪物が腰を上げ、次なる獲物に、鋭い眼光を向ける。その先には、潰れた果実に目を奪われ、あんぐりと開けた口から、だらしなく涎を垂らす、"δ(デルタ)"の無防備兵の姿があった。拳銃を握り締める手が震えている。戦意喪失。この四文字に襲われたのは無防備兵のみならず、残された"γ(ガンマ)"兵の三名も同様であった。まずい、殺される。捕獲は不可能だ。"γ(ガンマ)"班リーダーが辿り着いた対処法はただひとつ。戦術的撤退、である。
「逃げろぉッ」
リーダーの男が、渇き切った口から発した必死の怒号が、無防備兵の身体に鞭を打つ。無防備兵は、瞬発的に、全身全霊、疾駆した。階段の脇を通り抜け、奥へと走り去ってゆく。凄まじい反応速度で、怪物はこれを追う。嗚呼、無惨に殺されるのも時間の問題であろう。「今のうちに逃げましょう」"γ(ガンマ)"班の部下が震える声で提言する。「勝手抜かすな阿呆。リーダー、指示をくれ」二番手に催促を受け、リーダーは、得意のだんまりを決め込んでしまう。戦術的撤退を選んだばかりのはずだが、胸の内では未だ揺らいでいる様だ。躊躇う姿を見兼ねた部下が焦り始める。「いや、無理ですって、あいつを捕獲すンには、兵の数も、武器も足りねえ。今は退くべきです」「黙ってろッつうんだ」二番手が部下に掴みかかる、と同時に、ガチャンッ、と音が響く。リーダーが短機関銃の弾倉を外し、ポケットに潜ませていた別の弾倉を用意し始めていた。「麻酔弾じゃ話にならなそうだ」落ち着いた口調で発されたリーダーの言葉に、部下が訝しげな顔を浮かべる。リーダーは、勢いよく音を立てて弾倉を装填し、手動でスライドを引き、言い放つ。「焔(ほむら)06弾。こいつなら仕留められるだろう」二番手も部下も、互いに胸ぐらを掴み掴まれという状態であることも忘れ、ただ息を呑んだ。麻酔弾は取り除かれ、実弾、それも尋常では無い威力を宿す弾丸が、たった今、銃に込められたのだ。その意味するところは、実に明確であった。「任務変更。標的の射殺」
二番手が笑みを浮かべて、リーダーに問う。
「良いのか、命令は出ていないんだろ」
「構わん。この現場の指揮者はおれだ」
リーダーの返しに、二番手が噴き出す。
「あんたのそういうとこ好きよ。無事執行した暁には、懲戒解雇前夜の祝賀会でもやるか」
「殉職の祝酒にならないことを祈るよ」
冗談を交わしながら、二人が怪物の跡を追い始める。
「懲戒解雇じゃ済まないですよ、もろは組の仇討ちを受けます、ヤバいですって」
そう叫ぶ部下に、リーダーが容赦なく吐き捨てる。
「逃げたければ逃げろ。おれたちは"粛清"機関の一員として職務を全うしたいだけの馬鹿だ。真似はするな」
その言葉に、部下は地団駄を踏んだ。「タチの悪いオッサンだ」そして短機関銃を構え直し、二人の馬鹿に続く。「ンなこと言われて、おずおず引き下がれるかよ」

隊列を組み、階段の足元へ身を寄せる"γ(ガンマ)"班。角を曲がれば別路線のホームへと続く通路が真っ直ぐ伸びている。リーダーが息を殺し、通路を覗き見る。人気は無い。ホームよりも少しばかり眩い光が、通路を覆う。目には見えない濁ったガスによる汚れも、ホームよりは幾分かマシだ。
リーダーがふと気付く。通路の端、その床に、血痕が見える。血痕は、通路の脇にぽつねんと存在する、ひとつの空間へと続いていた。
「標的はトイレの中だ」
「トイレ?あいつ、わざわざ自分から袋小路に逃げ込んだってのか?阿呆だねえ」
「戦略じゃないんですか、今頃交戦中なんじゃ」
「音がしない。おそらくもう事は終わっている」
「じゃあやっこさん直に出てくるな。その瞬間を狙うか」
「いや、その時にはすでに奴の意識は俺たちへ向いている可能性がある。それじゃあ確実に仕留める事はできない。意識の外から狙わなければ」
「ならどうする」
二番手の問いにリーダーが口籠る。が、すぐに言い放つ。
「おれが単身でトイレの中へ攻め込む。奴の意識を引きつけ、そのまま通路へおびき出す。狙うなら、その瞬間だ」
「あんたが囮になるのか」
「狙撃は任せていいか、刑部(ぎょうぶ)」
リーダーの男が、二番手の男の名を呼び、実弾の込められた短機関銃を差し出す。二番手の男、刑部は、暫し眉をしかめたのち、リーダーの志を受け止め、短機関銃に手を伸ばす。「仕方ねえな」自身の所持していた短機関銃から持ち替え、肩越しに背後の部下へ指示を出す。「援護は頼んだぜ」部下は神妙な面持ちで頷くと、リーダーの背中に声を掛ける。「崇徳(すとく)さん」崇徳、と呼ばれたリーダーが、部下の方へ顔を向ける。「ご武運を祈ります」部下の言葉に何も返さず、崇徳は素っ気なく向き直ってしまうが、静かに手を振り、それに応えた。「かっけえ…」「おまえね、緊張感ないよ」部下達のくだらぬやり取りに構わず、リーダーが状況報告を行う。「未だ標的がトイレから出る気配は無い」「妙だな。まさか、クスリが切れて、動けずにいるんじゃ」「だったら勝ちですね」「だが油断はできないぜ」「分かってるさ。三秒後、突入する。いいな」崇徳の指示に、二人は口を揃えて、了解、と返す。沈黙の三秒間、そのたった三秒間で、"γ(ガンマ)"の纏う士気は、百に満ちた。「突入」ベルトからナイフを引き抜き、崇徳は、足音も立てぬ歩法で、見事トイレ入り口付近への到達に成功。息を整え、トイレの中を慎重に確認する。
室内は荒らされており、壁や扉の陥没痕や傷跡は愚か、便器やら洗面台やらに、通路のものより遥かに多い血痕が残っている。そこまでは想定の範囲内だ。崇徳は、トイレ内へ歩を進めてゆく。おそろしく静かで、限られた空間では、歩法など通用せず、殺せど殺せど足音は、崇徳の身体に付き纏う。それも束の間、足音は、一番奥の個室の前で、息絶えた。鍵の掛かった扉の向こうにいるのは、逃げ遅れて身を隠す市民、ではなく、怪物と、その獲物だ。崇徳をそう確信させたのは、扉下の隙間からとび出ている、脚だ。怪物の獲物となった、憐れな無防備兵の脚だ。衣服も靴も剥がされて、剥き出しとなった脚は、紫色に変色し、激しく痙攣を起こしている。崇徳はそれを見下ろしながら、つい先日同僚と訪れた居酒屋の厨房で、店主に捌かれていた魚のことを思い出す。頭を落とされても、半身になっても、まな板の上で激しく動く魚は、気持ちが悪くて仕方なかった。
脚の動きが次第に弱まり、やがて動きを止めるのを見届けた崇徳は、深く呼吸を整え、血と傷だらけの扉を睨む。ナイフを強く握り締め、耳を澄ます。奴の呼吸は、肉体の状態は、如何なっているのか。集中力を研ぎ澄まし、周りの音を掻き消す。自身の呼吸音や、鼓動音すらも遮断する。無に近い境地に行き着いた崇徳の耳に、扉の向こうから、ひとつの音が届く。

かちかちかち……

それは、雀蜂が大顎から鳴らす、警告音のようにも聴こえた。

ザザーーーーッ。

突然、崇徳の胸元にある無線からノイズが発される。崇徳は奴に音を聴かれまいと、やや手遅れではあるが、無線を手で押さえながら慌てて後ずさる。その拍子に洗面台へ腰を思い切り打ちつけてしまう。洗面台のフチに手を掛け、うずくまりそうになるのを堪える、崇徳のその痛みを忘れさせたのは、無線から流れる、奇妙なメッセージであった。

「ザザッ…げ、て、ザザッ…にげ、ザザッ…あいつ…は…ザーッ…擬態し…ザーーーーッ」

無線が途絶える。「擬態」確かに聴こえてきた妙な言葉を、崇徳はぼそりと反芻し、ふと顔を上げる。洗面台の鏡に、自分と、自分の背後に茫然と立ち尽くす、無防備兵の姿が映っていた。馬鹿な、生きていたのか。崇徳が振り返る。無防備兵と目が合う。
途端、無防備兵の顎が、左右に大きく裂かれ、不快な音を鳴らした。
かちかちかちかち。
崇徳の脳裏に、二文字の言葉がよぎる。「擬態」
強靭なる顎が、崇徳の視界を奪った。


「いま、なにか聴こえたか」
待機していた刑部が、訝しげな顔で、トイレを凝視している。
「いえ…なんですか」
不安そうな声色で、部下が問うも、刑部にも音の実態は掴めず、何も答えてやれない。崇徳がトイレから出てくる気配もまるでなく、いよいよ痺れを切らして、刑部が動き出す。
「刑部さん」
「おまえはここで待ってろ」
「いきますよ、いきます」
刑部たちは、慎重に、慎重に、トイレの入り口付近へ、進んでゆく。
近づくにつれ、トイレの中から漂う酷い悪臭が、刑部たちの鼻を突いてくる。糞尿の匂いだけにあらず、血も肉も入り混じった、いわゆる、死そのものの匂いだ。刑部たちは吐き気をもよおす中で、悟り始める。崇徳は怪物に殺された。だが、悲しんでいる場合ではない。
ようやくトイレの入り口へ辿り着いた刑部たちは、壁に身を寄せると、互いに視線を投げつけ、頷く。いざ突入せんとばかりに動き出した刑部たちの足元に、何者かが転がり込んできた。崇徳か、"δ(デルタ)"兵か、まさか標的か。そのどれでもない、そいつは、スーツ姿のしょぼくれた中年男だった。刑部が咄嗟に向けた銃口に驚いて、尻餅をついたまま後ずさり、唾を飛ばして捲し立てる。
「待て、待ってくれ、おれはただ、殺人鬼から逃げて、ここに隠れてて、そしたら、そしたら」
中年男は、震える指で、トイレの中の方を指すと、悲鳴を上げながら、殆ど四つん這いの状態で逃げ去っていった。
追おうとする部下を、刑部が止め、トイレに入ってすぐの、洗面台の下で、崇徳が死んでいる旨を伝えた。部下は、その事実に少し絶望し、崇徳の屍の傍らで、膝をつく。畜生、畜生、ドーピング野郎、何人殺りゃあ気が済むんだ、そう嘆く部下に、刑部がひとつの"否定"を告げる。
「ドーピング野郎じゃない」
部下が、刑部に目を向ける。刑部は、一番奥の個室の前で立ち尽くし、中にある何かを見下ろしている。部下が刑部の目線を追うと、個室の下の方からはみ出ている、血色の悪い脚が見えた。部下は、自身の目で確かめようと、ゆっくり、刑部の隣に歩み寄り、それを見下ろした。
「…嘘だろ」
腹部が異常に真っ赤に膨れ上がり、全身の皮膚がまだら模様の湿疹に覆われ、床に溜まる程大量な吐瀉物を口からこぼす、巨躯の屍が、埋め込み式便器の上に、横たわっている。身体中は何故か濡れており、刺激臭が漂う為、何者かに小便を掛けられたようにしか思えない。顔は、頭部から目元にかけて、獣に噛み千切られたように抉られて、確認できない、だが、明らかにそれは、標的の、怪物の屍であることに、誤ちはなかった。
もはや人間業ではない。怪物殺しの存在に、刑部たちが畏怖する。
「どう報告すりゃあいいんだよ、これ」

怪物の出現による緊急事態を受け、神宿駅は封鎖されていた。駅改札付近は、構内に取り残された大勢の市民で溢れ返り、混乱を起こしていた。粛清機関JBGの守衛班が、なんとか市民たちを避難経路へ誘導し、事態を収めんと動いている。
外はすっかり暗くなり、空が藍色に染まっている。その不気味さが余計に、市民の恐怖や不安を駆り立てていた。「どうにかして」「押さないで。指示に従って」「たすけてよ」「下がって、下がって」「おいなんなんだよあのバケモンはよ」悲鳴や罵声、繰り返される答えの無い問答。混乱は極まっていくばかりだ。その渦中に、トイレから逃げ出してきた中年男が、足を踏み入れる。何食わぬ顔で、渦を通り抜けようとすると、誰かに、強い力で腕を掴まれた。
「みぃつけたぁ」
背筋が凍り、中年男が素早く振り向く。
腕を掴んだのは、渦に埋もれながらも一際存在感を放つ、夜よりも黒い衣服に身を包んだ、一人の女であった。
「黒子」
「黒子じゃないよ、黒子だよ。この騒動はきみの仕業かい?昆虫お化けの三島さん」
黒子は、恐ろしい力で三島の腕を握り締めるのに相反して、愉快げに微笑んだ。
「こないだ仕事を邪魔された仕返し、ちゃんとしなきゃと思って」
そう言って見開かれた眼には、纏う衣服よりもさらに黒い、悪意が宿されていた。
しかしそれは、単なる道化の冗談に過ぎない。
黒子の真の悪意は、別にあった。

ー次回継続。


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