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覚醒#11

班目 銀次(マダラメ ギンジ)は内心焦っていた。仕事に出る前にダッシュボードに放り込んだ筈の駆血帯が、いくら探しても見つからないのだ。駆血帯が無ければ、静脈注射は難しい。銀次は頭を掻き毟った。しかし己の欲望に限り諦めの悪いこの男は、駆血帯の代用として、自身が着けていた革のベルトを乱暴に外し、左腕の上腕部に巻きつけた。交差したベルトの片側をヘッドレストのポール部分に結び、もう片側を口に咥えると、全身全霊、込めるべき力を込めた。引き千切らんばかりにベルトを引っ張る左腕の力と、噛み千切らんばかりにベルトを引っ張る顎の力によって、見事、血管が怒張された。銀次は、強張っていた表情を少しだけほころばせた。これで正確な静脈注射を行える。快楽までもうすぐだ。ベルトで左腕を絞め続けたまま、空いている右手で、隣の運転席のシートに転がしていた注射器を拾い上げる。カーステレオから流れてくる凄まじいギターのファズやドラムのビートを感じながら、注射器を握る右手の指先で軽く血管を確認し、その血管目掛けて、針を刺した。雀蜂も真っ青の刺突である。だが今まさに血管へと注がれていくその液体は、猛毒では無く、この男にとっての、甘ったるい蜜だ。蜜などに含まれた糖分は脳を活性化させる効用があるとされているが、それはクスリも同様、というわけだ。銀次の瞳孔が開かれ、口元が緩む。はだけた柄シャツから覗く血色の悪い胸部が激しく動き、心臓の拍動が乱れ始めていることがよく分かる。手足が震え、鼻水が垂れ、緩んだ口元からは涎が流れる。胸部のみならず、身体全体が激しく動いて、ただでさえ天井が低い型だというのに、狭苦しい助手席を飛び跳ね、車を揺らす。車中でヨロシクやっているのではないか、全く公共の場で目障りだ、そう周りから勘違いを受け、反感を買っても可笑しくは無い程の揺れ具合であるがしかし、車を停めている位置は、中学校の裏門付近だ。目抜き通りとは違って、こんな時間帯に通りがかる人間などはゼロに等しかった。
三月十二日、午後十時二十六分。仕事を終えた銀次は女を待っていた。銀次の仕事はクスリの密売であり、自身が末端の構成員として身を置く組織・もろは組のシノギをあげることであった。そして銀次が待っている女というのは、もろは組から邪険な扱いを受けているならず者の集団・ぐれん隊の一員であり、二人は、互いの組織には明かせぬ関係を持っていた。窃盗や強盗を生業とするぐれん隊では、働いて金銭を稼ぐという行為が断固として禁じられているわけだが、女は、銀次との生活の為に、隠れて商売をしている。売っているのは自身の身体、すなわち女は淫売婦でもあった。
この日の夜、女を買った客は悪趣味にも、学校の校庭にあるトイレでの行為を求めてきたらしく、女は仕方なく、適当に思い浮かべた中学校へ客を連れて行き、銀次に場所だけ連絡してから、サーヴィスを始めた。そろそろ終わる頃合いだろうと、銀次は言われた場所、神宿第二中学校へ車を走らせたが、到着してから十分が経とうというのに、女はなかなか姿を現さず、これはまた厄介な客に捕まったのだなと察し、時間潰しにクスリを嗜み始め、今に至るというわけだ。
銀次が、クスリの作用により性的絶頂以上の快楽に到達しようした寸前、突然のノック音がそれを阻んだ。瞳孔の開いた目で窓の方を見ると、銀次と相反して、死んだ目をした女が立っていた。色褪せた薄手のモッズコートに、ところどころが破り裂かれたジーパン、極め付けには便所サンダルという、淫売婦だとは到底思えぬ姿だ。しかし、モッズコートのジッパーを上まで閉じ切って露出を伏せているにも関わらず、その豊満さが分かる乳房や、破り裂かれた箇所から覗いて見える、張りのある太腿と、淫売婦としての商売道具は良いモノを揃えていた。銀次は窓を開け、呂律の回らぬ罵声を女に浴びせる。
「遅えぞマグロ」
女の鉄拳が銀次の鼻頭に命中した。クスリが抜けきれていないおかげで痛みは感じないにせよ、しっかりと脳を揺らされ、痛みが後から来ることを早くも恐れた銀次は、怒り任せの失言を大いに悔いた。
「マグロじゃねえよ、きっちりやることやって金もらってんだあたしゃあ」
根も葉もなくマグロと罵られたことにプッツンきている女の名は、刺身。ぐれん隊の現ヘッドに貰った名前であり、由来は未だ教えてもらえずにいるらしいが、刺身はその名を純粋に気に入っていた。
「むしろマグロはあっちだよ。自分がシてもらえるだけで満たされちゃってさ、あっちはあたしになんもシてこないの。そのくせ全然イかないし。めっちゃアゴ疲れたよぉ」
窓越しに垂れ流されてきた仕事の愚痴を、うんざりした態度で聞き流しつつ、銀次は、数枚取り出したティッシュで鼻血を拭い、鼻に詰め込む。その間抜けなサマに冷たい視線を送っていた刺身は、銀次を別件で咎めだす。
「さっき、またクスリやってたでしょ。やめるって約束したのに。依存してもいいことないよ。あたしの妹が今やばいことになってて大変だって話、聞きたいですか」
「刺青ちゃんか…相変わらずだな」なかなか止まらぬ鼻血を止めるべく、天井を仰いでいた銀次が、鼻声で返す。「勘弁してくれよ。この腐った人生の中で唯一こいつが、おれを気持ちよくしてくれるんだ。簡単にはやめられねえんだよ」
思わず突っぱねてしまったことにハッとして、銀次は、これではまた鉄拳が飛んでくると思った。しかし、鉄拳どころか言葉も何も刺身から返ってこない。おそるおそる刺身に視線を向けてみると、なぜか不安げな表情を浮かべる刺身の姿が、銀次の目に映った。銀次が動揺した矢先、刺身は顔を逸らし、窓から離れ、車の前を横切ってゆく。フロントガラスから見える刺身の顔にはもう不安の影は無く、安堵したのも束の間、乱雑にドアを開け、運転席に乗り込み、大きい音を立ててドアを閉めた刺身の行動に、銀次はわずかに萎縮する。
「この車どうしたの」
話が切り替えられたことに、銀次は戸惑った。ティッシュを鼻に詰め込んだ男が女に翻弄される様はなんとも滑稽であった。
「前の車は幹部の人に壊されたっつってたよね。買い直したの。そんな金どこにあんの。そんな金あんならまず二人で話し合ってから使い道決めようよ。そういう話こないだしたばっかだよね、舐めてんの」
まずい、次こそまた殴られる、銀次は慌てて、刺身をなだめる。
「落ち着けよ、タダで譲ってもらったんだ、昔からの知り合いに、どうせ廃車にするからって」
「知り合いって、オンナか」
「いや、オンナだけど、違う、仕事関係で」
「なんの」
「死体遺棄業者。前にも話したろ、黒ずくめのピエロみてえな女。そいつが、練炭自殺した死体を回収するときに、乗ってた車をついでにくすねたらしい」
「自殺車両、ってわけね」
「ああ、けどよ、捨てるんじゃもったいねえだろ。それに」口籠る銀次に、刺身がぐいっと顔を近づける。「なに、やっぱなんか隠し事してるの」化粧を一切してない刺身の肌は、褐色味を帯び、肉付きが良く、一重瞼に、大きな瞳、長い睫毛と、強気な女を絵に描いたような顔つきであり、こんな顔立ちの女にこうも詰め寄られたら、どんな男も嘘などつけやしない。
「ほら、おまえ、普段仕事頑張ってるし、だから、褒美、っていうか」
思わぬ銀次の返答に、刺身が、先程まで死んでいた目をぎょっと見開き、軽く腰を浮かせた。車の狭さにまだ慣れていないのか、天井にごつんと頭をぶつけた。クスリを打ってるわけでも無いのに、まるで痛みを感じていない刺身は、声を潜ませ、銀次に問う。「ぷれぜんと、って、ことなの」
照れくさそうに銀次が頷く。「まだ、稼ぎが悪いから、こんなもんしかあげれねえけど」
ぶっきらぼうな銀次の愛に、刺身は、両手で口を覆って、ぐふふふふと、下品ながらも可愛らしい笑い声を漏らす。口元は両手に隠れて見えないが、目元を見れば、顔中くしゃくしゃにして笑っているのがアホ程分かる。そのくしゃくしゃな笑顔を、とろんとした表情に変えると、刺身は、銀次の身体に覆い被さり、銀次の唇にしゃぶりついた。そのまま、銀次の履いているスラックスのホックを外して脱がせ、下着の中の陰茎に手を滑らせてゆく。クスリのおかげですっかり感度が高くなっている銀次は、刺身の手淫で、早くも絶頂に達しそうになるのを堪える。刺身が、唾液の糸を引きながら唇を離すと、赤らんだ頬で、悪戯な笑みを浮かべた。
「人が自殺した車でヤるの、なんかやばいね」
刺身は次に、自身のモッズコートのジッパーを、ゆっくり下ろしてゆく。コートの下から、飾りっ気の無い、くすんだベージュ色の下着が、覗いて見えた。
「きみはマグロなんかにならないでよ」
銀次を見下ろし冗談めかし、刺身は、銀次の手を取り、半ば強引に自分の胸へ持っていく。小指の欠けている手が、膨らむ柔肌に触れ、甘い吐息が、車の中で幽かに響いた。

鐘田一家の母、鐘田みや子は、絶望と希望の狭間で、ひたすらに歩を進めていた。夕刻から数時間程、街中を駆け回り、今にも悲鳴を上げそうな両の脚で、ひたすらに歩を進めていた。その背中に、行方をくらましていた我が娘をしっかり抱いて、ひたすらに歩を進めていた。
娘は、命に別状は無いであろうが、重体ではあった。いくら霊能力によって脳や内臓の損傷を防げたとて、骨や肉まではそうもできず、屋上から飛び降りたとなれば、ひとたまりもないに決まっている。娘がなぜ屋上から飛び降りたのか、そんなことはどうでもいいと、娘がとにかく生きていて良かったと、しかし、これ以上長く放っておけば、娘は、死んでしまうかもしれない、なんとか早く、娘を病院に連れて行ってやらねばと、時折背中からずり落ちそうになる娘の身体を、立ち止まっては背負い直し、を、数度繰り返し、鐘田みや子は、ようやく裏門を抜けて校外へ出た。だが、目指すべき病院は、ここよりさらに三から四キロメートル先にある。
娘が、呻き声を漏らした。嗚呼、痛くて、苦しいのだろう。鐘田みや子は自分の身体に鞭を打ち、足を踏み出す。すると視界の端に、車らしきものが映り、振り向くと、やはりそれは車であり、直線的で平たい箱型の、この時代には珍しい旧車であった。誰かが乗っていれば、助けを求めようかと鐘田みや子は考えるが、こんな時分、こんな場所に停まっている車に、人が乗っているなんて可笑しいだろうと、すぐに車から視線を外し、歩を進めようとした。その時、車が、がたん、と揺れた。鐘田みや子は足を止め、車に視線を戻す。まさか、人が乗ってるのか。しばらく窺っていると、もう一度、車ががたんと揺れた。続けて、二度、三度、四度と揺れ始める。車中の人間が何をしているのかは大方察しはついたが、鐘田みや子は気にも留めず、ずれ落ちかけた娘の身体を背負い直すと、大股で車に近づいていった。

「気持ちいいよ、銀ちゃん」
刺身は、銀次に激しく身体を揺らされ、そのたびに漏れてしまう喘ぎ声交じりに、囁いた。汗だくになりながらも腰を振り続ける銀次は、こちらを見上げる刺身の火照った頬を、優しく撫でてやった。「おれも、気持ちいいよ」「ほんと」「うん」「気持ちいいの」「うん」「クスリ、よりも」
銀次は思わず、刺身の顔に目を向けた。刺身は、不安げな表情でこちらを見ている。あの時、一瞬だけ浮かべていた表情と同じだ。銀次は再び、自分の失言を強く悔いた。
「気持ちいいよ、クスリなんかより、ずっと」
刺身はまた、くしゃくしゃな笑みを銀次に見せてやる。「うれしいなあ、うれしいなあ」
銀次はさらに腰を強く振りはじめた。刺身は銀次の上半身をぎゅうっと抱き寄せた。汗でじっとりと湿った身体の、その温度を、二人は互いに確かめ合った。生きたい、と思った。二人共々か、もしくはどちらか一人だけかはわからぬが、心の叫びが、聴こえた気がした。生きたい、この人と、もっと生きたい。
呼吸を乱して、火花が飛び散る程に肉体と精神を擦り合わせる二人が、絶頂へ到達しようとした、寸前、突然のノック音がそれを阻んだ。
二人はまぐわったまま、顔だけを窓へ向ける。こちらを見下ろす中年の女と目が合った。
「え、や、ちょ、なに」
二人は慌てて脱ぎ散らかした下着やら上着やらを適当に羽織るか、局部を隠すかして、窓を開けた。
「な、なんですかぁ」
間抜けな口調で、刺身が中年女に問う。問うた直後に、中年女の背中に、ぐったりと眠る少女らしき姿があることに気付き、刺身は目の色を変えた。
「御願いです、どうかあたしたちを、闇病院まで運んでやってくれませんでしょうか。娘を、助けたいんです」
中年女の声は、震えていた。刺身も心を震わせた。刺身は、素早く衣服を正し、運転席から飛び降りて、どうぞ乗ってくれと言わんばかりの勢いで後部座席のドアを開けた。中年女は、ありがとう、ありがとうと頭を下げ、刺身の手を借りて娘を座席に乗せてやると、自身も車の中へ乗り込んだ。
銀次は二度も絶頂への到達を邪魔されて不貞腐れていたが、そんなものは完全に度外視の刺身は、運転席に戻ってすぐにエンジンを稼働させ、ハンドルを握り締め、見知らぬ親子に、言い放つ。
「飛ばしますね。裏道使えば、秒です」

「退院、おめでとう。怪僧さん」
非常灯だけが照らす廊下で、公衆電話の受話器を握り、電話口から、怪僧、と呼ばれた男は、嘲りとも捉えられるであろうその言葉に憤る様子も見せず、静かに立ち尽くしていた。怪僧は、継ぎ接ぎだらけの埃臭い僧衣を纏い、僧衣のみならず、顔すらも、何本もの縫い傷を負い、異なる色素や質感を持った皮膚の継ぎ接ぎだらけで、夜の病院内という、暗く不気味な空間に溶け込んでおり、怪僧と嘲られる由縁が、その風貌から滲み出ていた。
「あんたの車、言われた通りに手配しといたから。もうすぐそっちに着くんじゃないかな、あの人も一緒に」
電話口の向こうから、女が軽快に用を告げても尚、怪僧は黙り続けている。
「汚名返上、できるといいね」
「必ず果たす」
怪僧が、遂に口を開いた。呪詛でも吐いたのかと錯覚する程の低い唸り声に、女は、電話の向こうで耳を塞ぎたくなったに違いない。
「しかし奴は強い。今のままでは勝てん。車を手配させたのは、この場で奴と決着をつける為ではなく、あくまで準備だ。奴にはまだ、手を出さない」
ああそう、と、つまらなさそうに女が返した。「まあ、思いっきりやっちゃってよ。せいぜい婆さんの恩恵を裏切らないようにね。あたしもたのしみにしてるから。ば〜い」
電話が切れた。女の一方的な行為に、怪僧は苛立ちもせず、丁寧に受話器を戻した。
玄関口の方から、荒々しい車のブレーキ音が聴こえてきた。怪僧はそれに応じ、身に纏うボロ着とは相反する美しい所作で、玄関口の方へ歩いていった。軋む音を立てて、ガラス張りのドアを押し開く。前方に、マフラーから白煙を立ち昇らせた車が停車している。この時代には珍しいその旧車に、怪僧は見覚えがあった。運転席から若い女が急いで降りて、後部座席のドアを開け、母娘らしき二名を降ろしてやる。怪僧は母親であろう人物にも見覚えがあった。母親は若い女に頭を下げて、意識を失っている娘を背負って、こちらへ歩いてくる。あの娘が、婆様の言っていた、動乱の引き金か。怪僧は歯を剥き出して静かに嗤い、僧衣をなびかせ、草履を鳴らす。

鐘田みや子はこれまでの人生、他人を有り難く思うことなど無きに等しかった。誰にも頼らず生きる術はそれなりに身に付けていたつもりだった。けれど、そうか、家族を守るだけの強さを、母親としての強さを、私は十分に持ち合わせていなかったんだな、と、鐘田みや子は怒りと悲しみに打ちひしがれ、刃を自身の胸に突き立てたくなる衝動を如何にか鎮めて、目指すべき闇病院の玄関口へ歩を進める。
何者かとすれ違った。酷い腐敗臭が鼻をついた。腐敗臭は鐘田みや子の脳を刺激し、最悪な記憶を呼び覚ました。鐘田みや子は、そいつが誰かを、知っていた。
すぐさま振り向く。背筋が凍てつく。
そいつはすでに、こちらを睨んで、亡っ、と立っていた。
「生きて、いたのか」
鐘田みや子の問いに、そいつは、歯を剥き出して嗤った。
「蘇った、のだ。つい先刻、婆様の命を受け、おまえらを殺すべく、な」
「蘇り、だと。そんな術、誰が」
「背負っているのは、娘さんかな。何があったか知らないが、早く診てもらった方が良い。闇医者の腕は、確かだ」
そう言い残して、そいつは踵を返し、車の方へと歩いていった。
待て、と追おうとした鐘田みや子を、痛みに呻く娘の声が、留めた。
鐘田みや子は、様々な思念を振り払い、玄関口へと駆けてゆく。その最中、後ろを振り向き、視線の先で、あいつが、自分を乗せてくれた車の後部座席へ入っていくのが、見えた。
鐘田みや子は目を逸らし、強く瞑った。すまない、許せ、許してくれ、すまない。恩人たちへの罪悪感に、内臓を焼き切られそうになりながら、鐘田みや子は、ドアを開け、闇病院へと、逃げ込んだ。

「なんで、闇病院なんだろ。一般の病院でも、夜間やってるとこあるよね」
無事、使命を果たした刺身が、後から湧いてきた疑問に、口を尖らせた。
「んなもん、なんとなくわかんだろ。助かるといいな、あの子」
銀次の、らしからぬ言動に、刺身は少し感心した。
「こんなときに、話すことじゃないかもしれないんだけどさ」
ものものしく切り出した刺身に、銀次はなんとなく身構える。
「自分の子供のために頑張ってるあの人見てたらさ、なんか、家族っていいなあって」
「ああ」なんだ、そんな話か。銀次は胸を撫で下ろす。
「さっき、銀ちゃんとエッチしてたときね」
話の変わりぶりに銀次が目をぱちくりとさせた。
「銀ちゃんのが、あたしの中に入ってるときね、なんか、ここがすごい、熱くなってさ」
そう言って刺身は、自身の、下腹部あたりに手を当てる。
「それでね、子供が欲しいなって、思ったんだ」銀次と目も合わさず、刺身は言った。「なんだろう、本能ってやつかな」刺身は誤魔化すように自嘲した。銀次はそれに同調して笑ったりなどはしなかった。
「家、帰るか」
真剣な口調でぼそりと返し、銀次は、刺身の顔を伺った。刺身は、銀次、ではなく、銀次の後ろの、サイドガラスの向こうに、目を奪われていた。銀次が刺身の視線を追おうとした時、誰かが、断りもなく後部座席へ乗り込んできた。腐敗臭が、一気に車内に充満する。銀次が睨みつけた先に座っていたのは、身に纏う僧衣も、顔も、継ぎ接ぎだらけの、不気味な坊主の姿であった。
「おい、なんだてめえッ」
喰ってかかってこようとした銀次の首を、継ぎ接ぎ坊主が、後ろから紐状のようなもので絞めつけた。
「ぐ、え、げ、てめ、なにしやがんだ、ごら」
「怖くない、怖くない。殺しはしない。直接手を下しての殺生は禁じられている。破ってしまえば、私の術は私に返る。そういう制約だ。だから、運転は、頼んだぞ。これはその、前謝礼だ」
そう言って、継ぎ接ぎ坊主は、難無く片手で絞め上げている銀次の首筋の、怒張した血管に、注射を突き刺した。
「うげ、ぎ、ごぼッ…」
異常な速度で、銀次の瞳孔が開き、鼻血と泡が吹き出てくる。
「クスリが好きなのだろう。これは、ドーピングというやつだが。君のお友達の身体には適合したと聞いているが、君は如何かな」
嗜み程度に投与していたクスリとはワケが違う。銀次は全身の筋肉を走る激痛に襲われ、どうしようもなくもがく。
「効果が発揮されるのは約二十分後。こんな俗物に頼るのは好ましくないが、使えるものは使うべきだと、奴との戦いで学んだからなぁ。まあ、単なる保険に過ぎないが」
継ぎ接ぎ坊主は、息をつき、印を結んで、呪詛を吐いた。その呪詛は決して、クスリの効果を促進させるものでは無かった。
劇薬の作用に苦しめられながら、銀次が、助けを求めんと、刺身の名を呼んだ。
刺身は、こちらを見向きもせずに、一点だけを見つめ、なにやらぶつくさぶつくさ呟いていた。
「刺身…」銀次がもう一度、刺身の名を呼び、運転席に座る女に手を伸ばした。
「あぎゃああああああぁああぁああああッ」
運転席の女は狂い叫び、アクセルを踏みつけた。怪物の咆哮が如く、爆音を立てて、車が発進した。罰だ、罰が当たっちまったんだ。銀次は、頭を掻き毟った。人が自殺した車でセックスなんてしたからだ、これは罰だ。罰なんだ。銀次は、強く悔いた。苦しい、苦しい、苦しい、苦しい。銀次は、神に祈った。早く俺に、快楽を、快楽を与えてくれ。
暴走する車は、二人を地獄へと運んでいった。

金属音が短く鳴って、火が灯る。
サイドを刈り込み、ポンパドール部分を紫色に染め上げたリーゼント野郎が、愛用する真鍮製のオイルライターで、咥え煙草に火をつけた。そして何を思ったのか、肺に溜め込んだ煙を、気絶している手下の数箇所ある負傷部位に、ふっと吹きかけた。すると、驚くべきことに、負傷部位は全て、一呼吸の速度で、完全に回復した。煙にむせて勢いよく起き上がる手下に、灰を落としながら、リーゼント野郎が声を掛ける。
「派手にやられたみてえだな」
リーゼント野郎の背後には、剥き出しのエンジンに単眼ヘッドライトという、不良ならではの大型バイクに跨った、大勢の半グレ達の姿があった。手下は、状況を飲み込んで、慌てて土下座をし始めた。
「すいません芥さん…ッ、あいつ、べらぼうに強くて」
「知ってるよ。不意打ちとはいえ、おれも惨敗したんだ。別におれぁよぉ、あいつをサシで倒せなんて命令してねえだろうが」
「けど」
「俺たち爆天李亜【バクテリア】の強みは、数だ。それを忘れるな。数であいつを追い詰めろ。二度とこの街ででけえツラさせねえように、式嶋淨を囲んでメッタメタのギッタギタにしてやれ」
爆天李亜総長・芥 半蔵(アクタ ハンゾウ)は、紫煙を燻らせ、手下たちに言い放った。総員が声を揃えて、応、と返す、が、凄まじい速度で横切っていった暴走車の爆音が、それを掻き消した。
爆天李亜の面々が口々に暴走車に対しての悪態をつく中、ひとり黙って暴走車を鋭い眼光で睨み付けていた芥が、おもむろに、愛用である黒金塗装のバイクに跨り、キックペダルを踏み込んでエンジンを震わせた。
「芥さん、どうしたんですか」
当然の疑問が、手下勢から投げ掛けられた。
「あの車、匂うぜ。もしかしたら、式嶋淨を乗せて逃亡してるのかもしれねえ」芥は、根元まで吸った煙草を、地面に叩きつけた。「追うぞ」
芥半蔵が発した号砲で、十数台ものバイクが、一斉に走り出した。

自身の心臓を一時停止させ、仮死状態へと陥るという霊能力の応用は昔、母親に教わった。鐘田慧は、窮地を脱するべく、付け焼き刃ではあるが、実行してみせた。見事成功したのか、鐘田慧を呪い殺さんと呪詛を吐き続けていた九つ子が、その鐘田慧が絶命したと誤認し、おもちゃで遊び飽きたやんちゃな幼子のように、鐘田慧からぞろぞろと離れていった。効果は、抜群であった。
役目は果たしたというのに、術を解かずにいる。鐘田慧は、仮死状態に居心地の良さを感じていた。仮死状態をしばらく続けていれば、そのうち意識が遠のき、本当に絶命してしまう、にも関わらず、だ。
霊能力を使わずしても実行できる仮死状態というものがあり、いわゆる、死んだフリというやつだが、鐘田慧にとって、死んだフリは普段の学校生活の中で手慣れたものであった。学校にも社会があるとして、鐘田慧は、自分の存在を明らかにすれば、自分のような弱者の存在を明らかにしてしまえば、強者の手によって社会的に殺されてしまうのではないかと怯え、日々、死んだフリをして過ごしていたのだ。しかし、死んだフリをしばらく続けていると、妙に周りが鮮明に見えて、たのしそうにはしゃぐ連中が、なんだか憎くなってきて、自分もそこに混ぜてくれないだろうかという多少の期待を抱くくらいならばまだいいものを、鐘田慧は、とにかく全て、目の前ではしゃぐこいつらも学校も社会も世界も人間も全て、全て、滅んで無くなってしまえばいいと願っていた。なにもかも全て、終わってしまえばいいと願っていた。仮死状態に陥っている今も、そう願っていた。もう何もしたくない、痛いのは嫌だ、苦しいのは嫌だ、このまま全て終わってしまえばいい。僕は弱者だ、死ぬまで。それでいい。よくもまあ、弱者の分際で、学校生活を生き抜いてこれたなと、鐘田慧は今更になって思う。なぜだろうな、何が僕を、ここまで生かしてくれたのだろうか。嗚呼、やはり家族の存在だろうか。いや、違う。家族の存在というのはどちらかと言えば、自分をいつ何時でも受け入れてくれる逃げ場所に過ぎないのだ。では一体、死んだフリを続けてまで、鐘田慧を学校社会にしがみつかせものは、何なのか。走馬灯の如く記憶を巡らせてみても、映像に靄が掛かって、答えを掴めやしない。けど今となってはそんなものどうでもいいだろう。だってもう死ぬのだから。ほら、いよいよ視界が、霞んでゆくぞ。霞む視界に、九つ子が、一瞬にして白装束姿に変じた面妖な光景が映り込む。冥土の土産にはうってつけの愉快な眺めであると、鐘田慧は肚の中で笑った。次に、九つ子のひとりが、駅とは逆方面を指差して、何かがこの場所に向かって来ていることを示した。他の八人がそれに気付き、九つ子全員、黄色い声を上げて飛び跳ね、向かってくるものに対し、手を振り始める。鐘田慧はなんとなく、クラスの人気者の登場に友達同士で嬉しそうに騒ぐ女子生徒の姿を思い出し、嫌悪した。くだらないなあ、くだらないなあ、気持ちが悪いなあ。きゃーきゃーきゃーきゃーうるさいなあ。なにがそんなにたのしいんだろう。でも比べられるのもこわいし、死んだフリだ。死んだフリ、死んだフリ、死んだフリ、死んだフリ。そしてこのまま死ぬんだ。なんにも傷つくことなく、まっさらな気持ちのまま、ぼくは死ねるんだ。ばいばい、みんな。ぼくは先に楽園へいくよ。
って、思ってたのに、とつぜんオソロシイ速さのくるまがやってきてさ、神宿駅をカコむ人間の群れをつぎつぎとハネとばしたりヒキころしたりしちゃって、ぼくより先にたくさんのひとたちが死んであの世へ行っちゃった。あーあ、結局ぼくは置いていかれるんだ。みんなはたのしいとこへ行ってしまう。追いかけることもこわくてできないから、ぼくはただひとり、おとなしく家路に着くんだ。
「お兄ちゃん、帰ろう」
桜、そうだね、帰ろうか。母さんも、俊彦兄さんも、たぶん父さんも、家で待ってる。帰ろう、家に。逃げよう、逃げたっていいんだ。
「いずれ来るであろう、強い悪霊や術者との戦いで、怖くなったら、これを使って逃げなさい」
仮死状態の方法を教えてくれたとき、母さんはそう言っていた。
「逃げたっていい。だからお願い。死なないで」
死んだら駄目だ。家に帰らなくちゃ。
鐘田慧は、ようやく術を解いた。心肺が蘇生する。必死に呼吸を整え、周りの状況を確認した。
およそ二十名程の民間人や、JBGの守衛班員が、身体を捻り曲げられ、押し潰され、血や臓物をコンクリートの床に飛び散らして、死に果てている凄惨な地獄が、闇夜に浮かんでいた。
重傷で済んでいる生存者たちは、屍の傍らで泣き叫んだり、身体を縮めてわけもわからず許しを乞うたりする者たちで溢れていた。
それに相反して、九つ子は、屍の肉や臓物を拾って弄び、きゃっきゃっきゃっきゃと、無邪気に笑っていた。
暴走車は、駅の外壁に衝突した状態で停止していた。
鐘田慧は、暴走車に乗っている者も、あの老婆が仕向けた刺客であろうと直感し、すぐにその場から離れようと、身体を動かす。が、九つ子に受けた脳や内臓の傷は思った以上に酷く、ほとんど動かない。
車のドアが開く。僧侶らしき男がゆっくりと降りてくる。なんだ、あいつは。鐘田慧は血の気が引いた。目を疑った。僧侶の身体には、おびただしい数の、怨念を抱いた悪霊が取り憑いていた。しかし鐘田慧には、僧侶が悪霊どもを従えているようにも見えた。強い、あいつは強い。九つ子は比では無い。逃げなくちゃ、身体が動かない、殺される、どうしよう、殺される、殺される、殺される。
「なぁにしてやがんだド腐れ野郎ぉッ」
誰かが、凄まじい怒声を僧侶に放った。
地獄を切り裂いたその怒声は、鐘田慧の恐怖心を、跡形も無く消し飛ばした。

発狂していた刺身を目覚めさせたのは、一発の銃声だった。撃たれたような痛みは無い、あるとすれば、壁に衝突した際に生じた鞭打ちの痛みくらいだ。自分が撃たれたわけでは無い。刺身が目覚めたのは、その銃声が、愛する男の叫びに、聴こえたからなのかも知れない。
気絶から起きた刺身が、なんとなしに助手席に目をやると、銀次が、口と後頭部から多量の血を流して死んでいた。もたれかかったシートが、赤黒く汚れていた。
「安心しろ、その男はきみの運転による事故で死んだのでは無い」後部座席から低い唸り声が聴こえてきた。「銃身自殺だ。よっぽど快楽が欲しかったのだろう。私が与えたクスリでは物足りなかったらしい。残念だ」
刺身は見知らぬ人間の言葉を、何故か妙に受け入れ、銀次の手元を確認してみた。拳銃が握られている。それは銀次が、仕事の為に常に腰に差していた、自動式拳銃だ。刺身は泣き叫んだ。どうしようもなく泣き叫んだ。震える手で銀次の髪や頬に触れた。
「ねえ銀ちゃん、だからクスリはやめようって言ったじゃんか、あたしどうすれば良かったの、あたしあなたを救えなかった」
喚く女に、これ以上の真実を告げてやることは無く、継ぎ接ぎ坊主は、ドアハンドルに手を掛ける。ドアを開け、ゆっくりと車を降りる継ぎ接ぎ坊主の耳に、けたたましいバイクのエンジン音が流れ込んできた。
大勢の半グレ集団が、鉄パイプや金属バットを片手に、横一直線に並んでいる。
幾つもの単眼ヘッドライトが、継ぎ接ぎ坊主の姿を照らした。
「なぁにしてやがんだド腐れ野郎ぉッ」
継ぎ接ぎ坊主に怒声を放ったのは、半グレ集団の一員、では無かった。さも半グレ集団を引き連れてきたかのように先頭で構えているそいつは、自慢の金髪アタマに、学生服を着崩した、"御札"付きの不良・式嶋淨であった。
「もういっぺん言っとくがな、一夜限りの同盟だからな。カタがついたら次はお前だ、式嶋淨」
「わかってるよ、うるせえな」
式嶋淨と言い合いを繰り広げている男こそ、半グレ集団の先頭で構えるべき存在、爆天李亜の総長・芥半蔵だ。
敵同士であるはずの爆天李亜と式嶋淨は、目前の轢殺魔を捻じ伏せてやろうと、共同戦線を張ったというわけだ。並みの不良ならば誰もが震え上がる同盟だが、果たしてそれが、人ならざる力を宿した者たちに、通用するのか否か。
「なんか、あいつらおもしろそうだし、ぼくらでヤっちゃおうか」
九つ子の一人が愉快げに言った。他の八人も喜んで賛同した。
「助かるよ。私は殺生ができない。それでは、頼んだ」
継ぎ接ぎ坊主が九つ子に告げ、暴走車の運転席に向かう。
「やっちゃおう、やっちゃおう」「ひいふうみいよお。すごぉい、六十人くらいいるよ」「ヤリ甲斐あるねえ」「でも霊能力の無い人間にうちらの術が効くかな」「周波数合わせればいいんじゃないかな」「言えてる」「じゃあそれで」「ほら、来るよ」
「行くぞォッ」式嶋淨の怒号が、爆天李亜総員を奮い立たせた。咆哮を上げて、武器を振るって駆けてゆく。
人と人ならざる者たちの戦いの火蓋が切られた。

世俗的な欲望、負の感情、脆弱な意志。多くの人間が抱くであろうこれらは全て、悪霊に憑け入る隙を与える。隙を与えてしまえば、悪霊に精神を蝕まれ、肉体を奪われ、二度と元には戻れない危険性も非常に高い。悪霊に限ったことでは無い。例えば、呪詛を吐くことで人間の脳や内臓、神経に重度の疾患を患わせる術を持った怪人の場合でも、世俗的な欲望、負の感情、脆弱な意志を抱く人間が相手であれば、容易に術を掛け、苦しませることができる。原理は殆ど悪霊と同じだ。人ならざる者たちは、人の、人たらしめる欠陥部分というやつを、大昔から、見抜いていやがるのだ。人を病に侵し、心を狂わせ、そこから生まれる恨みや憎しみを、人ならざる者たちは餌として喰い繋いできたのだ。愚民が集う神宿、否、呆国は、奴らにとっての上質な餌場となるのだ。未来、永劫に。その筈なのに「術が効かない人間が、存在するのか」
九つ子の最後が、震える声でそう漏らした。瞬間、金属バットが振り抜かれ、九つ目の頭蓋骨が打ち砕かれた。
「おーびっくりした」「なんだったんださっきの」「変なん見えたよな、幻覚っつうの」「しかもなんか胃がよお、ぎりりりってなったよな」「まじかよ、おれは背筋がびきびきーつって」「おまえは」「おれ金玉」「うるせえよ」「いやまじだって」
白装束を着た九体の負け犬どもを足元に転がしながら、爆天李亜の面々が腑抜けた口調で駄弁っている。その内容からするに、どうやら九つ子の術はロクに通じていなかったらしい。爆天李亜の強みは数だ、と総長の芥半蔵は豪語していたが、それ以上の強みを、彼らは無自覚に宿していたのであろう。だが、上には上がいる。
「貴様、何者だ」
継ぎ接ぎ坊主が、武器も何一つ持たずに堂々と構えている少年を睨み、問うた。
「神宿学園二年、式嶋淨だ。覚えてろ、ボケ」
式嶋淨の背後で倒れていた白装束が、ゆらりと立ち上がり出す。
「ぐちゃぐちゃになれぇッ」
鬼の形相を浮かべ、式嶋淨に、渾身の念を放った。
式嶋淨は、微塵も動じず、しかめっ面で呟く。
「それ、なンなんだよ、さっきから」
そして、白装束の脚の腱を、蹴り砕いた。「ぎえッ」体勢を崩した白装束の頭を掴んで、顔面に膝蹴りをブチ込む。「ごぶッ」何発も「ぐべッ」何発も「ぎゅッ」何発も「じゃばッ」何発も。地面に倒れ伏し、身体をびくんびくんとさせた後、白装束は気絶した。
「ふぅおぉぉおぉおおぉおぉおッッ」
天を突き抜ける程の奇声を発し、瞳孔の開いた眼で睨んできた、戦闘狂状態の式嶋淨に気圧され、継ぎ接ぎ坊主は、半ば逃げ込むように運転席のドアを開け、未だ泣き喚いている刺身を引っ張り出し、銀次の屍を蹴り捨て、エンジンを始動させた。
「よし、突っ込め」
総長・芥半蔵が、陣営で采配を振った。応、という返しと共に、後衛のバイク陣が一斉に発進する。すぐさま気づいた継ぎ接ぎ坊主は、即座に印を結び、呪詛を吐いた。車の寸前まで近づいた十数台のバイクが、見えぬ何かに阻まれたかのように、ひとつ残らず火花を散らして転倒してゆく。これにはさすがの式嶋淨も動じ、目の色を変えた。芥半蔵も血相を変えて、慌ててバイクから降り、痛みに呻いている手下たちの元へ駆けてゆく。その脇を、暴走車が、異常な速度で走り抜けていった。

地獄の元凶である継ぎ接ぎ坊主が姿を消し、神宿駅周辺は、死亡者と重傷者で溢れ返っていた。
「畜生、どうしてこんなに治りが悪いんだ」
煙草の煙を何度吹き掛けても、手下の脇腹は深く抉れたまま、血が止まらない。おかしい、このくらいの大怪我でも治るはずなのに。脂汗が、芥半蔵の額を濡らす。
「芥さん」
「喋るな、すぐ治してやるからじっとしていろ」
「だめだ、これ以上は」
「なに言ってやがる、あと数回吹きかけりゃあなんとか」
「そうじゃねえ。あの車、追っちゃだめだ」
「なんだと」
「おれ、見たんです。あの車、なにかいる。なんなんだよあれ。この世のものじゃねえ。やばい、あの車は、やばい」
手下の顔が蒼ざめる。怪我の痛みによるものでは無さそうだった。
「おまえみたいに、チンケな手品を使うふざけた野郎が、他にもいるみてえだな」
芥半蔵の傍に立っていた式嶋淨が、皮肉混じりに言う。
「ったく、たのしい夜が台無しじゃねえか」そうボヤくと、辺りを見回し、眉間に怒りを滲ませた。「どうすンだ、大将」
式嶋淨の静かな煽りになにも返せず、芥半蔵は、痛みと恐怖に震えている手下たちを、ただ黙って見ていた。
ずるり、ずるりと、引きずり歩く足音が、芥半蔵たちに近づいてくる。怪訝そうに視線を向けると、髪も衣服も乱れた女が、拳銃片手に、なにやらぶつくさ呟きながら、こちらの方へ、ずるり、ずるりと歩いてくる。
その人間離れした不気味な様相とただならぬ殺意に、白装束どもの残党か、と爆天李亜陣が身構える、よりも速く、式嶋淨が女に声を掛ける。
「物騒なモン下げて、どこ行くつもりだ姉ちゃん」
女は応じず、式嶋淨の横を通り過ぎていく。
「おい待てって」
悪い予感に突き動かされ、式嶋淨が、女の肩を掴んだ。女は式嶋淨の手を弾き、身を翻して、式嶋淨に銃口を向ける。女は泣いていた。鼻水を垂らして、酷く泣き腫らしていた。式嶋淨は、またもや動じた。
「あの車は、銀ちゃんからもらったプレゼントなの。絶対に取り返すの」
刺身は、愛ゆえの憎悪に、燃えていた。
「絶対に絶対に取り返すんだ、銀ちゃん、ごめんね、待っててね」
再びぶつくさ呟きながら、刺身はずるりずるりと歩いていった。その後ろ姿をしばらく見届けていた芥半蔵が、やがて腰を上げ、重傷を負っていない手下たちに命じる。
「誰か闇病院の救急車を呼んでおけ。やつらなら秒で来る。たぶん、人の手でやる方が良さそうだ。到着までにこいつらの応急処置を。それと」芥半蔵が、声を落とす。「死んだ人たちや、取り残された人たちの傍にいてやれ、頼む」
手下たちは頷き、一斉に取り掛かった。
「姉ちゃん、バイクの運転はできるか」
芥半蔵の突拍子の無い言葉が背後から聞こえてきたことに、刺身は戸惑い、足を止める。
「乗せてやる。来い」
刺身の背中を追い越しざまに、芥半蔵が、紫煙を燻らせ言い放った。
「おっほー、こりゃ剣崎重工のゼフィーロだよなァーッ。なんつう良いマシン乗ってやがンだよオイ」
芥半蔵の知らぬ間に、式嶋淨が、転倒していたはずの手下のバイクに跨り、ハシャいでいた。
「こいつは借りるぜ。もうひと暴れすンだろ」
悪戯小僧の様な笑みを浮かべる式嶋淨に、芥半蔵は舌打ちをする。
「壊すんじゃねえぞ」
「すでに壊れかけてるけどな」式嶋淨がキックペダルを踏み込むと、エンジンが息を吹き返した。「おれなら乗りこなせるぜ」
「あの、すいませんッ」
なよなよしくも力強い御挨拶が、式嶋淨の意識を、剣崎重工のゼフィーロから引き剥がす。自分と同じ学生服姿の少年が、体液塗れの顔面で倒れていた。式嶋淨へ真剣な眼差しを突きつけ、志願する。
「僕も、乗せてってくれませんか」
「誰だおまえ」
「神宿学園一年、鐘田慧。霊能力を使えます。僕ならあいつを、倒せます」

鐘田慧が、逃亡から戦闘へ選択を変えたその真意は、至極単純であった。鐘田慧は、思い出したのだ。自分がなぜ、辛く苦しい学校社会を生き抜いてこれたのか。なにが自分を、生かしてくれたのか。
或る日の午後、鐘田慧は、授業中に腹を下した。教師に許しを得て教室を出るまでの間、自分の姿を捉えて離さなかった生徒連中の視線に、鐘田慧は吐き気さえも催した。救いを求めていざトイレに駆け込むと、二人の男子生徒が、授業をフケてたむろっていた。そいつらは普段、数々の生徒から脚光を浴びる、いわゆるスクールカースト上位の生徒であった。ひとりは漫画雑誌、ひとりは電子端末、それぞれから目を離し、腹をおさえて立ち尽くす鐘田慧を睨みつける。ぎゅるるると、腹を鳴らし、鐘田慧は、個室の方に視線を向けた。ひとつは空き、ひとつは鍵が閉まっていた。目前にある二つの圧力を掻い潜り、空いてる個室へ入れたとしても、そのあとには必ずこのスクールカースト上位の二人に吊し上げにされるであろうと恐れ、鐘田慧は俯き、酸素が行き届かずにピリピリと痛む頭を、時間を掛けて真っ白にしてゆく。鍵が掛かっていた個室から、水を流す音が聴こえてくると共に、一人の男子生徒と一人の女子生徒が出てきた。二人とも同様にスクールカースト上位の生徒だった。男子生徒がベルトを直しているのをよそに、女子生徒は鐘田慧に気づいて、やば、と言わんばかりの顔を浮かべる。鐘田慧は、なにがなんだかわからなくなり、腹の痛みが絶頂に達し、その場に屈み込む。逃げ出したい気持ちで一杯だが、動けば、漏れてしまう。最悪な事態に陥り、いっそ殺してくれと、発狂しかけた鐘田慧の脇を、誰かが横切った。
「なぁにやってんだてめえらッ」
金髪に染め上げた派手な髪を振り乱し、理不尽に、衝動的に、スクールカースト上位生徒四人に拳を振り下ろすそいつは、後ろ姿だけでも、鐘田の目には、とんでもない不良野郎に映った。
「授業中はここがおれのショバなんだよ、てめえら腑抜けはおとなしく勉強机に収まってろ、調子ほざいてんじゃねえぞオラァッ」
鐘田慧は、不良に心を奪われた。本能に赴くまま、スクールカーストなどというくだらぬ俗物を崩すか如く、気に食わない人間どもを暴力で蹴散らす生き様に心を奪われた。ホトバシる鮮血、タカブる躍動感、ミナギる生命力に心を奪われた。便意はいつの間にか跡形も無く消え去って、ということはさすがに無く、鐘田慧は、個室へ駆け込み、扉を閉じて鍵を掛けた。便器に腰を落ち着かせ、項垂れる。排泄をしながら、鐘田慧は、酸素を取り戻した頭の中に、ひとつの野望を芽生えさせた。
「やってやる、僕もいずれ、ぶちかましてやる。この糞みたいな学校社会に、世の中に、僕を舐めてるやつらに、一泡吹かせてやる」
三月十二日 午後十一時四十七分現在、鐘田慧にとっての、"ぶちかます"絶好の機会が訪れた。戦闘を選ばず逃亡する理由は、最早今の鐘田慧には無いのだ。
電話が鳴る。応答のボタンを二度叩く。母親の声が聴こえてくる。
「慧、今どこにいるの。桜は、無事だよ。今、闇病院にいる。ごめんなさい、お母さん、桜を助けるのに精一杯で、本当に、ごめんなさい、恐ろしい敵を逃してしまった」
「母さん」
「母さん、大変なことをしてしまった、桜を闇病院まで運んでくれた恩人を、巻き込んでしまった、それなのに、助けられなかった、わたしは人殺しだ」
「それは違うよ」
「あなたは無事なのね、慧。早く逃げなさい。家へ、帰りなさい。あいつの霊気がこちらへ向かってくるのを感じる。このままあいつは母さんが引き受けるから、あなたは心配しないで、怖がらなくていい」
「敵は」次男坊が、母の言葉を留めた。「敵は、僕が倒す。母さんは、桜を守ることだけに徹してくれ」
「なにを言ってるの、あんた一人じゃ」
「たぶん、一人じゃないんだ」
母は、息子の言葉の意味を理解できなかった。気が動転していれば、尚更である。
「僕、頑張ってみるよ。母さん、桜をお願いね」
通話を切断し、鐘田慧は、バイクに跨る金髪アタマの少年めがけて、叫ぶ。
「あの、すいませんッ」
金髪アタマが気怠げに、ギラついた眼光をこちらに向けた。相も変わらず、鐘田慧の目には、そいつがとんでもない不良に映っていた。
「僕も、乗せてってくれませんか」
御祭り騒ぎは、最終局面へ突入する。

時刻は零時を指そうしていた。継ぎ接ぎ坊主を乗せた車は、神宿駅を北に真っ直ぐ走り、国道24号線に入った。その国道沿いにある商店街は、本来車両の通行に規制がかかっているが、継ぎ接ぎ坊主は目的のために躊躇せずハンドルを左に切って商店街に入り、細い道幅の通りを猛速度で走ってゆく。酔いどれ愚民どもの数は、半減しており、速度を緩める必要は無さそうであった。目指す闇病院は、商店街の奥の奥を抜けた先の、廃神社の横に、茂みに囲まれて建っている。そこに、継ぎ接ぎ坊主の、獲物がいる。自殺車両で、あれほどの人間を轢き殺しのだ、この悪霊車に宿る怨念は凄まじく、強大に膨れ上がった筈だ、これならば、奴を、憎き鐘田みや子を殺し、汚名返上を、果たせるぞ。継ぎ接ぎ坊主は、歯を剥き出して、嗤った。
闇病院まで、術の射程距離まで、残り、五百メートル、を、切ったその瞬間、煌々と輝くひとつの光が、サイドミラーを介して、継ぎ接ぎ坊主の脳を揺らした。
「追ってきたのか、たったひとりで」余りの愚かさに継ぎ接ぎ坊主は嘲笑を浮かべるが、それはすぐに崩れた。「いや、ひとりじゃない」
悪霊車の後方およそ三十メートル先で、二台の大型バイクが、悪霊車を左右から狙い撃たんと両端に分かれ、疾走している。一台は芥半蔵、後ろに刺身を、一台は式嶋淨、後ろに鐘田慧を、それぞれが宿す強い意志を乗せ、ヘッドライトで捉えた悪霊車を、絶対に離してはやらなかった。
「馬鹿め、馬鹿め、馬鹿めッ。何人で来ようが無駄だッ。我が悪霊車に少しでも傷をつけるか、間合いに一歩でも入ってくるかなどすれば、呪いを喰らうぞ。それでお終いだ。来るならとっとと来るがいいッ」
悪霊車の主が、継ぎ接ぎだらけの皮膚を歪ませ、吼え腐った。

「駄目だッ、撃ってはいけない」
鐘田慧が、張り裂けんばかりの声で、拳銃を構える刺身を止めた。
「あの車に宿る怨念は、尋常じゃない。下手に攻撃をしてはいけない」
「確かに」芥半蔵が冷静な口調で言う。「なんだかわからねえが、おれも肌で感じるぜ。手下の言っていたことが今になってわかる。あの車はやばい」
刺身は殺意を堪え、ひとまず拳銃を下ろす。
「攻撃もそうだけど、これ以上車に近づくこと自体かなり危険だ。怨念に飲み込まれて、さっきのバイクの人たちの二の舞になるか、最悪死ぬか」
「ンだそりゃあッ、だったらどうすりゃいいんだよ」
式嶋淨が、眉を八の字にして鐘田慧に問うた。鐘田慧はその問いを受け、歯を食いしばり、黙った。暫くして、口を開き、式嶋淨に問い返す。
「あの、賭け事とかお好きですか」
「おう、パチもスロもポーカーもジャーマンもなんでもござれだぜ」
脈絡の無い鐘田慧の問いに、式嶋淨は疑惑も違和感も抱かず、歯切れ良く答えた。
「それじゃあ今から、もっと凄い賭け事、してみませんか」
「なにィ」
「賭けるのは、命です」
鐘田慧の言葉に、式嶋淨が思わずにやりと笑う。
「聞かせろよ」
鐘田慧は、式嶋淨に耳打ちをした。式嶋淨の瞳孔が、開く。右側五メートル先にいる芥半蔵の方へ顔を向け、ギラついた視線に気づいた芥半蔵に、憎たらしく舌を出す。本人はなんかしらの合図のつもりだったのだろうが、芥半蔵は、ただ苛立ちを覚えた。しかしすぐさま苛立ちは払拭され、驚愕に転じる。式嶋淨が、アクセルを踏み込んだのだ。芥半蔵のバイクを引き離し、悪霊車へ一気に距離を詰めていった。
「おいおいおいおいおいなにやってんだぁ、近づくなって話したばかりじゃねえか」
「何か策があるのかもね。キミはまだ距離を取っときな。様子を見定めるんだ」
刺身が淡々と芥半蔵に告げた。
「さっきまでグズってた女とは思えねえな」
「なんか言った」
「別になんでも」ねえよ、芥半蔵がそう言い切る直前、鉄の塊がコンクリートの地面を荒々しく削る音が、芥半蔵たちの意識を奪った。
「式嶋ァッ」
式嶋淨のバイクが大きく傾き、火花を散らして地面を滑っていく。畜生やられたか、助けねえと、芥半蔵が式嶋淨の元へ方向を切り変えようとしたその時、「まだだ」刺身の怒号が飛び、芥半蔵の手を止めた。
「おぉおるぁあああァッ」
式嶋淨が叫び、バネの如く片腕で地面を押し返し、倒れかけていた車体を、力尽くで起き上がらせた。
「まじかよあの野郎」
車体を起こした反動で、前輪が一瞬跳ね上がるも地面に落ち、その振動が二人の身体を、命を、揺らした。
「人間、舐めンじゃねえ」
アクセルグリップを捻ると同時に、再び車体を持ち上げ前輪を浮かせ、後輪走行で悪霊車へさらに距離を詰め、悪霊車のケツへ乗り込み、式嶋淨は、悪霊車を踏み台代わりに、「跳んだッ」
式嶋淨と鐘田慧を乗せるマシンが、悪霊車の頭上を高く飛び越え、悪霊車の前方数メートル先に着地する。式嶋淨はすかさずスライドブレーキを掛け、悪霊車の眼前に立ち塞がり、見事、"射程圏内"へと迎え入れた。
「ほら、ぶちかませ」
式嶋淨の言葉に、鐘田慧は眼を見開き、手をかざし、全身全霊の念を、撃ち、放つ。
継ぎ接ぎ坊主の顔面が引き吊り、地獄の責め苦を受けてるかの如く、身体を酷く痙攣させ始める。
「あの小僧、鐘田みや子の、せがれ、かッ」
継ぎ接ぎ坊主が断末魔を発し、無意識にハンドルを切る。悪霊車が、式嶋淨と鐘田慧に衝突する寸前に軌道を唸らせて二人を通り過ぎ、無様に地面を転がった。
式嶋淨は敵の敗北を背中で受け止め、力を使い果たした鐘田慧は、ぼろぼろの身体をその背中に預け、気を失う。
燃え上がる悪霊車の中から、継ぎ接ぎ坊主が焼けただれた姿で這いずり現れ、虫の息で目を血走らせ、手をかざし、鐘田一家の次男坊に、悪足掻きの念を放とうとした、が、頭上から殺意を感じ、留まる。銃口がこちらに向けられている。いつの間にか継ぎ接ぎ坊主の傍らで、エンジンを震わせた芥半蔵のバイクが停車していた。銃口を向けているのは、刺身だ。
「あたしもすぐそっち行くけどさ、とりあえず銀ちゃんによろしく言っといてね」
「あ、が、う、ぅう」
「さよなら、ド腐れ野郎」
刺身が吐き捨て、継ぎ接ぎ坊主のドタマに三発、弾をブチ込んだ。血と硝煙の匂いが、虚しく漂う。
「銀ちゃん、あたし、やったよ」
三月十三日午前零時四分、闇夜に灯る火柱が、御祭り騒ぎの収束を告げた。

三月十三日午前五時三分、淡く温かな青と橙の光が、汚らわしくも愛らしいこの街を、音も無く染めてゆく。永かった神宿の夜が、明けてゆく。
死闘を終えた四人の男女は、事もあろうに、自分たちの命を脅かしていた悪霊車を、わざわざ立て直し、その車中で涎を垂らして眠り更けていた。この四人もまた、紛うことなき愚民である。
ふと、ひとりが目を覚ました。運転席で眠っていた刺身だ。もしかしたら、彼女ひとりだけ寝付けずにいたかもしれない。刺身は、フロントガラス越しに、ぼぉっと、景色を眺める。少し昔に、愛する男と朝焼けを眺めていたことがあるのを思い出し、涙が滲む。今にも舌を噛み切ってしまいたくなる衝動が、刺身を襲う。
「いい朝だな」
真後ろから落ち着いた口調で声を掛けられ、動揺を隠す様に刺身がうなずく。後部座席右側で、腕を組んで眠っていた芥半蔵が、すでに目を覚ましていた。
「怪我はどうだ」
「ああ、うん、結構痛いかも」
「だよな。治してやりてえのは山々だが、昨日の戦いでアホみたいに精神すり減らしちまって、どうにも力が使えねえんだ」
治すとはなんだ、と、刺身は少しだけ引っかかる。
「バイクも、ガソリンが切れちまった。悪いが病院まで運転頼めるか」
「うん、大丈夫」
「びょ、病院」
突然寝言みたいにそう声をあげて飛び起きたのは、芥半蔵の横で眠っていた鐘田慧だ。飛び起きる際に、前の助手席を思い切り蹴ってしまい、爆睡していた式嶋淨を不意に叩き起こしてしまう。
「びっくりし…おい誰だ今のコラァッ」
「す、すいません、おはようございます」怒鳴り散らす式嶋淨に適当に詫びを入れてから、鐘田慧は運転席の方へ身を乗り出す。「あの、病院行くって話、してましたか」
「してた」
「申し訳ないんですが、闇病院に行ってもらえませんか」
「最初からそのつもりだけど、なんで」
「妹が、入院してるんです。母も今、そこにいるみたいで」
鐘田慧の言葉に刺身が反応し、振り向く。
「まさか、きみ」
「な、なんですか」
きょとんとする鐘田慧を見て、なんだか話すのが面倒になり、刺身は向き直る。「ううん、なんでもない」
「あ、そうだ、重ねて本当にすいません、病院の前に、僕の家、寄ってくれませんか。兄が待ってて。一緒に連れて行かないと」
「おまえ意外と図々しいな」
芥半蔵が半笑いを浮かべた。
「いいじゃん。あたしは構わないよ。家族、仲良いんだね」
刺身の優しい微笑みに、鐘田慧が戸惑い、不慣れな冗談を返す。「朝帰りなんて不良な真似初めてだから、なんて言われるか」
「つうかさあ」寝癖だらけの金髪アタマを掻き毟り、式嶋淨が呑気に割って入る。「腹減った。牛丼食いてえわ、おれ」
魅力的な発言に、一同が無言で同意した。
「あ、じゃあ」鐘田慧が、おそるおそる口を開く。「先に、牛丼屋いっちゃいますか」
「いいねえ、そうしようぜ」
「はい、そうしましょう」
「しょうがねえな、付き合ってやる」
「てめえなあにカッコつけてンだよポンコツ」
「誰がポンコツだおい」
「さっきの戦いてめえなんもしてねえじゃねえか」
「してたろ、バイクの運転」
「手下のやつらでもできるじゃねえか」
「うるせえよ言うんじゃねえよ黙っとけよ」
「悔しかったらこの車の怨念みてーなのとっとと祓ってみやがれ」
「そんなことできるか。あれ、ていうかこの車まだ乗ってて大丈夫なのか、やっぱりマズいんじゃ」
「ああ、大丈夫です、主であるあいつが死んだので。完全に消えたわけじゃないですけど、よっぽどのことが無ければ」
「なんかおまえすげえな」
「こいつめちゃくちゃ強ぇンだぜ、さっきなんかよォ」
「あ、ちょ、ちょっと別に言わなくていいです」
つまらないやり取りで賑わう三人を見て、刺身は、クスリと笑い、呟く。
「男って馬鹿だなぁ」
日の光が、刺身の頬を撫でる。
刺身は手際良く髪を結んでから、キーシリンダーに鍵を差し、エンジンを始動させた。
「よし、行こっか」
「おぉッ」
動乱の一夜を共にした"強者"たちを乗せた車が、誰もいない静寂な神宿を走り抜けていく。

その日の神宿は、本当に静かだった。
明け方とはいえ、この静けさは異常であった。
なぜだ、なぜだ、なぜだ、なぜだ。
なぜこんなにもおそろしいのか。
なにがこんなにおそろしいのか。
わからない、わからない、わからない。
鴉の群勢が、空を飛び交っている。
真っ白なベッドに身体を埋め、少女が震えている。
「目覚める、目覚めるよ。この世で最も、邪悪なあの子」

戦いは、終わらない。終わりを知らない。



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