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覚醒#5

「止まれ」
霊能力一家の次男坊・慧(あきら)は、思わず足を止めた。ふと視界に入ったのは、"止まれ"と書かれた標識。こいつが自分を止めたのか。
元来自分を含め、鐘田家の者たちには亡霊の声が聴こえ、中でも耳障りで仕方ないのは「その身体をよこせ」と、数多の悪霊から寄せられる恨めしい声だ。
ようやく学校の便所での厄介な悪霊戦を終え、帰路に着けたというのに。次は標識に取り憑いて注意を引きつける女々しい悪霊か。勘弁してくれよ。慧は息を漏らす。大した奴ではないと気を緩ませ、帰路を進む。
「無視すんじゃねえぞおい。ビビって逃げんのか」
悪霊は尚も慧を引き留めんと、背後から声を飛ばしてくる。うんざりしながらも振り向いた慧が、その声の正体が標識に取り憑いた悪霊ではないと知るには、さほど時間はかからなかった。
「あんた、鐘田桜の兄貴だろ」
目の前には、ガードレールに腰かけた眉なしの少年と、その傍らに立ちガムを膨らます少年、さらにその足元でしゃがみこんでハンバーガーを貪る小太りの少年。イカにもな連中が、揃って慧を睨んでいた。
「君たちは…」
誰だ、と問うまでもなく、慧には大方見当がついていた。
「あんたの妹とおんなじ中学の」
眉なしが、気怠そうに答える。御名答だった。
「ああ、桜の。いつも桜がお世話になってます。それじゃあ」
「いやしてねえからお世話。おいちょっと待てコラ」
中坊にしては軽くドスの効いた声が、足早にその場を去ろうとした慧を止める。嗚呼、なんてことだ。これならまだ悪霊の方がマシだった。慧は、ピリリとした頭痛に襲われ、うなじから背中にかけて伝っていく嫌な汗を拭うこともできずに、相手が次どう出てくるのかを震えて待つしかなかった。
「鐘田桜、体調崩してるのってほんとかよ?」
思わぬ一言であった。まさか妹の身を案じてくれているとは。しかし、眉なし中坊のその言葉には、心配の色など塗られちゃいない。疑惑。ただその一色だ。水で溶かされてすらいない、濃厚な疑惑色。慧はすぐにそのことに気づく。連中がなにを聞きたいのかも、なんとなく分かってきた。だからこそ、下腹部になにかずしりとしたものを感じる。街の喧騒が、いつもよりはるかに大きく聴こえる。霊能力は一切関与していない、生理的現象だ。あまりの気分の悪さに振り向く余裕すらない中、慧はなんとか言葉だけを返す。
「そうなんだ。昨日の夜から、熱が出て」
「嘘ついてんじゃねえぞボケ」
鳩が数匹飛んでゆく。近くにいた通行人が顔を陰らせ、少し歩く速度を上げる。眉なしが放った怒号は、本人の意図せぬところで、結界を張ったようだ。人間でもこういう手段であれば結界を張ることができるのか、と慧は妙な驚異を覚える。
「嘘じゃないよ、本当だ。だから、早く帰って看病してやらないと」
同情を誘う言葉など通じない相手だ。眉なしは慧の主張を遮り、話し出す。
「今日うちの学校にさあ、粛清機関の人間が来たんだよ」
粛清機関。いわゆる、悪を取り締まり、この呆国の安全を守らんとする組織である。というのは、建前かも知れないが。
「なんで…」
「なんでじゃねえだろ。ニュース観てねえの?三島禍逗夫が殺された事件」
「それは、観たけど」
「だったらわかるだろ。探り入れに来たんだよ、うちの中学に」
こいつは、目の前にいるこの中坊は、慧自身が今最も触れられたくない穢れに、その手を伸ばそうとしている。またもや悪しき言霊が、自身の精神を食らわんと、牙を立てる。危険だ。ニゲロ。慧の全神経が、そう叫びを上げている。
「これは噂だけどよ、どうせあんたんとこの学校にもちょっとは流れてんだろ。三島が女子に手ぇ出してるっつう。あれ」
ニゲロ。イマスグ。ニゲロ。ニゲロ。
「そんでさあ、三島が行方不明になる前の日に、三島と鐘田桜が、ふたりで、体育館裏にいるのを見たやつがいるんだとさあ」
チクショウ。チクショウ。コイツ。チクショウ。
「で、そのあと目を離した隙に、二人は姿を消してた。らしいぜ。からの、三島行方不明」
ダマレ。ダマレ。タノムカラ。ダマレヨ。
「三島を殺したのは、おまえの妹なんだろ」
ようやく、慧の身体が動いた。が、それは逃亡の為の機動ではなく、攻撃のための機動。振り向きざまに、慧は、なんとも醜い大振りな拳を、眉なしの顔面に叩き込んだのだ。よろめく眉なしに、慧は言い放つ。
「桜は、三島禍逗夫と、そんな、そんなことはしてないし、三島禍逗夫を殺したのは、桜じゃないし、だから、だから頼むから、もう僕たちに関わらないでくれ」
嗚咽混じりに吐いた慧の言葉は相手に届くこともなく、代わりに、相手の拳が自分の顔面に届いた。地面に転がった慧の身体を、すかさず、風船ガムと小太りが両挟みで拘束する。必死に抵抗するが、慧にそれを解くことはできそうにない。
「痛ッてえなあ。おまえマジ許さねえ。おい。そこ連れてけ」
鼻血を拭ってない方の手で、慧を拘束する二人に指図する眉なし。指差した先は、道の脇にあるビルとビルの隙間で、室外機やらガラクタやらが、通りを埋め尽くさんとしていた。
「おまえ五体満足じゃ帰してやらねえからな」
眉なしの目は悪意に満ちていた。慧は薄暗い空間へと引きずり込まれてゆく。まずい。まずい。なぜ今日はこんなにもツいていないのか。先ほど眉なしの口から放たれた幾つもの言霊が、脳を掻き回し始めている。吐き気がする。身体が思うように動かない。言霊だけだったらまだ良かった。授業中でもできたように、自分の力を以って倒すことはできたんだ。しかし今は状況が別だ。悪霊ではない別の敵が、眼前に立ち塞がっている。精神だけでなく、肉体にも危険が及んでいる。死ぬ。このままでは、死ぬ。悪霊と人間に殺される。息を荒げる慧をヨソに、眉なしが、ポケットからバタフライナイフを取り出した。
「どうしてやろっかなあ。ふつうに脇腹に五、六本、深い傷つけてやんのもいいけどなあ」
慧の脳内で、言霊が頻りに暴れ回る。その痛苦のあまり朦朧としてきた頭で、慧は何度も考える。
相手が悪霊なら、まだマシだった。
「あ、そうだ。指んとこのさ、爪と肉の間、わかる?爪と肉の間をさあ、えぐってやるよ。もちろん足含めて20本ともな。それに一本ずつ、な。よおし決まり」
相手が人間じゃあ、どうしようもない。
自分のこの力は、人間に向けていいものではないのだ。人間がこの力をまともに喰らえば、ひとたまりもない。人間をいとも容易く殺めることができる恐ろしい力だ。そう。いとも容易く。自分がこの力を使えば、いとも容易く連中を殺せる。
嗚呼、そうか。そうか、そうか。僕は、こいつらを、簡単に殺せるのか。
この力を使えば、僕が念を放てば、こいつらの脳や内臓をぐしゃぐしゃにして、殺せる。
そうさ、目の前にいるのはニンゲンじゃないか。
なにをおとなしく殴られることがある。なにをおとなしく捕まってることがある。
ニンゲンなんてこわくない。悪霊や、そしてそれを倒す力を持った僕たちのほうが、よっぽど怖いじゃないか。
身体が震える。鼓動が高鳴る。笑いがこみ上げてくる。
やるぞ。やってやる。ブッ殺してやる。
「てめえなに笑ってんだ。気持ち悪ィ」
眉なしがしゃがみこんで、慧の眉間にナイフの刃を突き立てる。慧は、こんな状況下でも堪えきれずに、歯を剥き出し、笑みをこぼしていた。目は血走って、閉じることを忘れてしまっている。
今は、閉じるわけにはいかない。
こいつがナイフを振るうよりも素早く。
僕が、こいつに、念を、放つ。
「げっ、がフッ」
眉なしが、喉の奥から体液を吐き出す。それは、赤みもあり、黄ばみもあるような色合いで、眉なしの顎下を汚す。後を追うように、赤黒い鼻血が垂れてきた。
「ごボッ…ちょ、かはッ…な、なにこ…げェッ」
「お、おい…どうしたんだよ」
「わッかンねえよ、なんなんだよ、これえッ!げほッ…おグェッ…ぉろろッ」
眉なしの、穴という穴から、とめどなく溢れ出る、薄汚い、赤と黄の体液。
「ぐふェッ…はあッ…はあッ…ちょっとこれ…やばいかなあ…ねえやばいかなあ?」
眉なしは、体液を振り撒きながら、風船ガムと小太りにすがりつこうとするも、すでに壊れた三半規管が邪魔して、横にある室外機に自ら突っ込んだ。それから立ち上がることなく、びくびくと痙攣を始めた。垂れ流しの体液は変色し、最早何色とも言い表せない。
このまま放っておけば、眉なしは死ぬ。確実に死ぬ。殺せる。人間ひとり、殺すことができる。殺してしまう。殺してしまうんだ。殺してしまう。殺してしまうのか。嘘だろ。人間を殺してしまうなんて。待ってくれよ、なんで、なんでこんなことに。嫌だ、こんな、こんなこと、こんなことこんなことこんなことこんなことこんなことこんな
「やっぱ駄目だあッ」
慧がそう叫ぶと共に、眉なしの身体は大きく揺れて、それを最後に、痙攣が止んだ。
「あああ、ああああ、ごめん、ごめんよおおお」
慧はわあわあ泣き叫びながら、眉なしに駆け寄る。ひゅー、ひゅー、という、か細くかすれた呼吸音が聴こえる。眉なしは生きていた。だが、それに対し安堵する余裕は今の慧には無い。
「どうしよう、死んじゃう、救急車を、いや駄目だ救急車は駄目だ、ああ畜生、どうしようか」
これでもかと狼狽る慧の姿は、どこかおそろしく、近付き難い。これもまた、人間が結界を張るひとつの手段か。
風船ガムと小太りは、状況を理解できていないが、得体の知らぬ恐怖を感じ、この場を逃げるかどうするか、躊躇っていた。
しかし、その躊躇いが、命取りとなる。
突然、小太りの首が、ハネ飛ばされて空を舞った。小太りの鮮血が数滴、風船ガムの顔にかかる。風船ガムは、それが血だとも気づかずに、ましてや小太りの首がハネ飛ばされたことにも気づかずに、雨か、という素っ頓狂な疑問を抱えて、頬を拭いつつ上空を見上げた。視線の先にある小太りの生首が、その生首にある両の目が、こちらを睨んで離さない。
「え…」
そう漏らした一文字が、風船ガムの遺言となった。ギチチッ、という、調理前の生肉を骨から引き剥がす際に出るような音が聴こえてきた。風船ガムは、その音の出所を知ることもできず、上空を見上げたまま身体を仰け反らせ、ガラクタだらけの地面に倒れ込んだ。正確には、上半身だけ、だが。下半身の方は、ようやく自分が身体を真っ二つにされて殺されたことに気付いた風船ガムの絶望感を表するように、膝から崩れ落ち、前のめりに倒れ伏した。慧は、その光景を目撃して、すっかり頭が覚めていた。むしろ真っ白だ。何が起きてるのか分かっていない。
「思い出すな。私はこうやって、おまえの母に身体を真っ二つにされた」
陰湿さを纏う声が、慧の耳に飛び込んできた。羽虫が耳元を通る時に感じる不快さだ。慧は記憶を呼び覚ます。蟷螂の姿をした魔物が、鐘田一家を襲ってきたあの夜の記憶を。
「三島禍逗夫か」
「御名答」
そう口を開いたのは、慧の膝下に寝転がっていた、眉なしだ。
反射的に、眉なし目掛けて手をかざす慧。が、一手遅かった。眉なしは素早く身を翻し、壁を這って移動し、慧を惑わす。けらけらけらと、不気味に高笑う眉なし、否、三島禍逗夫。
「ああ、いい、いいぞ、こいつの身体。悪童の身体は実に馴染む。成長しきれていないからこそ、扱いやすい。ようやく手に入れたぞ」
「生きていたのか」
「どうだろうな。おまえの母に身体を真っ二つにされてからは、一度死んだのかも知れん。もしくは死の淵に立たされただけか。なんにせよ、おかげで私はより一層に強くなれたよ」
驚くことに、三島禍逗夫は壁の上を、二本足だけで立っている。忍者のように、真っ直ぐ立っているわけではない。異常なまでに両足を開き、腰を落とし、膝を曲げ、足の裏を壁に張り付かせるようにして、壁の上に立っているのだ。その姿はまさしく、蟷螂だ。
「まずは桜から…と思って仕掛けたのだが、突然おまえの霊気が異常に高まったのを感じてな。危険を察知した。強いのは母だけかと思っていたが」
三島禍逗夫が蕩々と話を続けてる間にも、奴の状態変化は続く。両の腕は、肉を裂かれ、皮を破かれ、中から鎌の形をした骨が勢いよく剥き出てきた。それだけに留まらず、頭や目玉は血管がはち切れんばかりに大きく腫れ上がり、黒目は点ほどにぎゅっと縮まり、歯が抜け落ち、顎は、ガキゴキメキと音を立てて、鋭利に形を変えていき、何物をも捕食するであろう、おぞましき顎が、パカァ…と開かれ、それは、こちらに笑い掛けてるようにも見える。眉なしの身体は、三島禍逗夫の力によって、原型を無くし、おぞましき異形に変わり果ててしまった。
「鐘田一家は皆殺し…慧、まずはおまえからだ」
慧は、震える手を握り締め、呼吸を整える。そして、耳に指を突っ込み、呪詛を呟き、例の、醜い胎児の姿をした言霊を吐き出した後、口元を乱雑に拭いながら、慧は考えた。

相手が人間でないなら、勝ち目はある。

#怪奇 #青春 #小説
#眠れない夜に

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