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【ネタバレ】劇場版ポケットモンスターココ 感想ネタバレ備忘録

劇場版ポケットモンスター ココを見ました。最高でした。
(思い出したら追記する:12/26現在)

予告映像⤵︎ ︎

https://youtu.be/iN3m4DjhuM4

ネタバレあんまりない感想のような何か

私は生物学上女で父親というものにはひっくり返ればなれる…?かもしれないけど、多分私のままではなれなくて、思春期の入口に父親と離れて生活をしたから距離のとり方が掴めない娘で、まだまだ親になる予定のない人間だから、物語としてしか父息子の話は理解できないんだろうけど、それでも面白くて良かったです。

ここ数日、ミュウ逆evoの放送からずっと1日1作とかアマプラでポケモン映画が無料対象になったこともあり、見てました。古い順に1作ずつ、今ディアルガVSパルキアVSダークライまで見終わって(もちろんここ数年の記憶はしっかりと持って)かなりポケモンに対して熱がある状態です。

俺の夏休み始まったな。

多分、七夜の願い星ジラーチか裂空の訪問者デオキシスぐらいで初映画ポケデビュー果たしてから毎年夏休みには映画館へ足を運び、過去作はテレビだったりビデオだったりで見て、「ポケモン映画」は夏休みの象徴でした。

が、今年のコロナで一変。冬もポケモン!になり、夏から何か足りないなーと思いながら過ごしてやっと公開されたポケモン映画「ココ」

期待値上がりすぎやろ、って感じなんですが、上がりすぎでもすごく楽しめた。

ざっくりしたネタバレ個人的解釈ストーリー(映画を見てない人は回れ右だぞ!)

仲間(同種族)以外を受け入れないジャングルの頂点に立つザルードの群れ。傷を癒す森の泉を産む木を神木として崇め、ザルード以外を虐げて生活している。元々そこにいたが、赤子のココをみつけ、群れをぬけ、ココの親を探し、ココを育てたとうちゃんザルード。

10歳になり友達である他種族の森のポケモンたちと仲が良いが、自分のルーツに疑問を持ってたココ。ニンゲンだと知っているが、まだまだ子供だと思ってるし近くにいて安全なところでいて欲しいとうちゃんザルード。

ジャングルにポケモンGETに来ていたサトシとピカチュウ。意識を失っていたココを助けてサトシとココは出会う。
初めは警戒していたココだけど、初めて見るもの、自分と同じ形の生き物に心を開いていく。

ニンゲンとポケモンが一緒に暮らす街を見て自分の他の種族への感情(ザルードの掟と違うもの)は自分がニンゲンだから、と思うココ。とうちゃんに確かめるためジャングルへサトシを連れていく。

とうちゃんにオレはニンゲンなんだな!?と詰め寄るココ(cmのところ)

とうちゃんは意を決してココのルーツを喋る。自分も知り得る範囲、どこでみつけ、親らしき写真を見せ、決めるのはお前(ココ)だと言う。

とうちゃんに会う前、自分の生みの親がどうなっているのかを知るため、サトシとココは水を調査している団体に手がかりがあることを突き止め、所長・ゼッドに話を聞きに行く。

そこでココは前所長夫婦の子供であり、その2人は事故でなくなっていること、そして両親の研究データがココのペンダントに秘められていたことを知る。

ゼッドは実はココの両親の死に深く関わっており、癒しの水で人間を救う。そして自分が正しいのだと証明することを目的としていた。そのためなら、ポケモンの住処であることを理由に研究を凍結させたココ両親の事故死の要因となり、そこに住むポケモンたちはどうなってもいいと虐げる。研究員はそのことは知らないが、巨大な機械を森に入れるために森林を伐採して進んでくる。

森を守るため、群れを離れたとうちゃんザルードと群れをぬけるのを引き止めたかった旧友っぽいザルードの10年振りの共闘。

たった2匹ではニンゲンの技術力に叶わない。とうちゃんザルードは深い傷を負ってしまう。

そして神木のエネルギー(癒しの水の源)を狙い、ゼッドが木に大きな穴を開ける。ザルードの群れが怒る。

群れのザルードが一丸となって戦う。しかしまだ勝てない。傷を負って戦えないとうちゃんザルードはココのトモダチ、森のポケモンたちに力を貸してくれ、と願う。

ジャングルの力を借り、ココのトモダチのサトシとポケモンたちの力を合わせ、ゼッドに立ち向かう。

最中、とうちゃんザルードは息子を庇い、瀕死の重傷を負う。
泉に連れていくが、神木が壊された影響で効能が薄く、かつてのようにすぐには治らない。

今にも息が耐えそうなとうちゃんに、ココは昔、とうちゃんが使ったジャングルに祈る癒しの技を思い出す。ニンゲンだ、と言われるが、構わず祈り、それが届く。人間でポケモンであるからこその通じた祈り。

サトシとピカチュウ、ザルード、ポケモンたちの力で脅威だったゼッドの機械は動きを止める。然ししぶとく、彼はエネルギーを、自分を認めさせるんだという一心で木へ向かう。
とうちゃんを救ったココ。そこへ現れるゼッドに襲いかかるココ、静止も効かないが、落ちそうになるゼッドを助ける。

ボロボロになった森を元に戻るように活動することを誓う研究員たち。森が戻るようにという願いは一緒だからこそ共に再生の手伝いをするポケモン。他種族と手を取り会うことこそが掟の意味だったと知り、自分たちの行動を悔やみ、また手を貸すザルードの群れ。

森の復興への植樹が終わり、サトシは新たな旅のために別れを告げる。
ココもまた、サトシという旅する人を通して旅に興味を示す。人でありながらポケモンである自分だからこそ、できることがあるとして半分喧嘩別れのようにけれど最大限の送り出しで(後ろ髪引かれることなく行けるようにっていうとうちゃんの不器用な心遣いなんだけど)旅に出る。

親子の面を

ポケモン映画で親子といえば、結晶塔の帝王エンテイでのエンテイとミー。ルギア爆誕でのママとサトシ。親子のような関係だけどハルカとマナフィ。
あと、いつもの親子(もちろん今作でもいました!見つけやすいよ!)

復習が済んでいる範囲だとこんな感じ。トオイとトオイパパとかもあるけど、親の知らないところで育ってる感じあるので除外。

いつもの親子は半分冗談なので置いといて、ここらって、異性の親子だったり、サトシより小さい子と親で、サトシと同い年の息子と父親にフューチャーしたのが(冒頭にも書いた通り私には想像の範囲でしかしれない部分というのもあって)あぁそうなんだ、という納得とかそういうものもあって。

どこかの記事かネタか忘れたけど、旅立ちに父親は不要っていうの。24年(もうすぐ25年)前の家庭環境なので父親が外で働き、母親は子供のそばでいるみたいな家庭、狩猟採集社会から続く流れのままなのでゲームでも、父親は不在なことが多く、母親が送り出してくれる。

父親は子供の成長を見逃しやすいというのはある種の常識で、それを脱却しようと何故か母親までも育休終われば働け!みたいな社会になったのは個人的に謎なんだけど。

ポケモンって総じて親の存じ知らぬところで勝手に子供って育ってるんやで、みたいな所を感じてきたけど、でもココは父親のそばで成長する。父親目線の話だからかはわからんけど。

矢嶋監督の主人公・ココと主人公・サトシ

今回、あくまでもサトシはココの物語ではきっかけの人物に過ぎなくて、アニポケに長年親しんだ私たちが見てきた主人公としての彼ではないんだけど、今作を担当した矢嶋監督としては主人公としての彼はXYで描ききってるように思う。

最近、故首藤脚本の連載記事を読んだんですけど。

 第2シリーズは第1シリーズの続編ではなく、ゲームのプレイの基本的な方法は同じでも、ゲームとしては新しい舞台で、新しいポケモンで一からやり直しになる、新たな「ポケモン」ゲームになるらしかった。
 第1シリーズを終えたプレイヤーは、かなり熟練したプレイヤーである。
 第2シリーズが第1シリーズの続編だとすると、プレイヤーを満足させるためさらに高い難易度が要求される。
 だがその分、第2シリーズからゲームを始める初心者には難しいゲームになる。
 基本は子供向けのゲームである「ポケモン」が、初心者の子供がこなしきれないような難しいゲームになるのは困る。
 子供向けのゲームは、プレイヤーがどんどん成長していくと同時に、生まれてきた子供のプレイヤーが新規に参入してくるのだ。
 かといって、せっかく第1シリーズのゲームのファンになってくれたプレイヤーを逃がしたくはない。
 ゲームの第2シリーズは、できればそれまでのプレイヤーと新規のプレイヤーを同時に満足させるものにしたい、というゲームクリエーターの思いは想像できる。
 それは相当難しい事で、ゲームの作り手の方たちはずいぶん悩んだと思う。
 ゲームのプロデューサーは、満足のいくものができるまでじっと我慢して待つ事にしたようだった。
 結局、第2シリーズの完成は、アニメを作っている我々が知らされた予定より2年以上遅れた。
 けれど、第2シリーズを第1シリーズの続編にしない方針は、アニメを作る側からすればありがたかった。
 第1シリーズを終えたゲームのプレイヤーは、新シリーズになっても、一からやり直しで気持ちをリセットできるが、アニメの場合は、決められた主人公がいる。
 完成される予定の第2シリーズが第1シリーズの続編だとすると、第1シリーズを終えたアニメの主人公は、そうとう実力のある強い存在になっている。
 第1シリーズの展開を終えたアニメの主人公は当然、第1シリーズより強く高い位置にいる自分を目指さなければならなくなる。
 ストーリーもエピソードもどんどんエスカレートせざるを得ない。
 第1シリーズに登場するポケモン以上に強く魅力的なポケモンが次々に出てこなければならなくなる。
 ポケモンの使い手(ポケモントレーナー)として、より高みを目指す主人公と、より強いポケモンの登場……エスカレートはきりなく続くだろう。
 ストーリー上で様々な工夫はされるだろうが、結局は上昇志向だけの主人公と、強くなる一方のポケモン同士のバトルばかりが繰り返されるアニメになってしまう。
(首藤剛志 シナリオえーだば創作術 だれでもできる脚本家 155回人間の言うなりにならないポケモン より引用)

ちょっと脱線ですけど、これ読んで、サトシという主人公はTVシリーズサンムーンではリーグ優勝したけれど、それ以前の地方をゼロから(ピカチュウだけ連れて)旅するっていうのはサトシが主人公であり続けるためには必要であって、新しい旅をできるだけまっさらな状態で(ある意味ゲームと同じように)始まるって言うのは、まぁ優勝=ポケモンマスターでは無いにしろ、優勝しなかったのはエスカレートしないためのものであったんだなとは思って。

矢嶋監督はそんなサトシという主人公はXY〜XY&Zでゼロからリーグ準優勝までじっくり描ききってるんですよね。(私はXYシリーズ、カロスの旅が大好きです)

前作「みんなの物語」では偶然ルギアに風を貰う街に集まった人とポケモンをそっと背中を押してくれる主人公だったサトシ。群像劇のまとめ役としてのサトシだったわけですけど、主人公だけど主人公ほど出続けない彼はみんなの、のうちの一人であった。まだまだ主人公だと思ったけどね。

そして今作、完全に主人公はココだった。
ココはポケモンの言葉を操るので主にポケモンの(ザルードの)言葉を翻訳コンニャクを食べた状態で視聴者は見れる。ザルードの言葉で進んでいく物語をサトシは100理解できている訳では無いと思う。ココ目線だからザルード以外は普通にポケモンの鳴き声で進むけれど、かなりわかりやすく(ピカチュウにおける「ぴかぴ」とか「ぴっぴかちゅう!」みたいな感じ)で表されているから視聴者はわかるけど、サトシはわかってないだろうなってところ結構あった。だからこそピカチュウが通訳になったりする。可愛い。

主人公であれど100%わかっていなければならないとは思わないけど、ミュウツーの逆襲でサトシが捕まったピカチュウを追わなければコピーの元、本物のポケモンたちは解放されなかった。どうやって解放したかは同行していたタケシカスミは知らない。キミに決めたでは虹のはねを受け取ったのはサトシであり、サトシの悪夢はどんなに説明しようが実際に見たのはサトシだけで、技をくらって消えた世界を知ってるのはサトシとピカチュウだけである。

けれど今作のサトシはそこまで物語を知れた訳では無いんですよね。ココの両親の写真をとうちゃんが寄越して初めて何を喋っているのかが理解出来る。今までのタケシやカスミの位置にサトシはいたように思う。
もちろん、シリーズとしては主人公であるから活躍の場は沢山あるけど。

人間もポケモンもひとりぼっちではない。影響しあって生きている。
XY(TVシリーズ)では周りはもちろん主人公に影響され、サトシも周りに影響される様子がより描かれていたと思う。
ココはサトシに影響を受けた(と解釈した)けど、サトシはどうかは分からない。監督の中でサトシはサトシとして成長しきってるからこそ、ココからの影響は見受けられない。

子供向けとしてはドラえもんとかクレヨンしんちゃんとかみたいに、普段より背伸びして冒険に出て少し成長する、って言うのがいいのかもしれない。
まぁアニメ制作に関わる人間でも、評論家でもない長年見続けたファンとしては固まったサトシがいて、今更彼はそんなことでは悩まないとかそういう固定概念としてあって、それが時折プチ炎上のタネとなる。XY以降の矢嶋監督はサトシはサトシとして書いて、みんなの物語や、今作・ココのように、周りを成長させる、手を引いてくれる存在にする。

長々とサトシの物語ではないよっていうのをファン目線でこじつけさせてもらったんですけど、まぁ普通に見てもココの物語であるよ。

四宮義俊さんのアートポスター⇩に、ここからはキミの世界ってある通り、これはキミの、ココの、ココだけの物語が始まる1ページ目。そう書かれてるんだからそうなんだよ。

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キミの世界。それまでのジャングルという世界であり、ココのこれからの世界でもあると思う。

自己犠牲と自己満足

上記で引用した首藤脚本のコラムの中で第3作目、結晶塔の帝王エンテイについての回があって、当時の上層部が自己犠牲の物語としてエンテイを捉えたけど、首藤さんはそれによる満足なんじゃないかって言うような話がある(212回)

もちろん、前述通り父親と(小さな)娘の話のエンテイと、父親と息子の話であり、おそらく親子であってもそこには違いが生じるだろう。

矢嶋監督と首藤脚本、それぞれ当時子供が小さいが本人の歳も考え方も違う。もちろんこの2作親子という共通点しかない。全く別の作品であるけど、ただツイッターのタグでみても、ココで感動した人はこれ!親子愛!みたいな感じで出されている。

矢嶋監督は子供が出来て初めて自分の身より可愛いものができた、とインタビューに答えていたのを見た。

私は親でないからこれの答えは親になるまで(なるのか?)分からないんだろうけど、ふと見てて思い出した。親子というわかりやすいテーマが目の前に出てるエンテイとココ。備忘録だけど、これはなんか外に出しとかなきゃなって思ったので。親としてこのnote読んでくださってる人ならわかるのだろうか。

章立てするのができなくて、言語化に難航してたりする個人的なポイント備忘録

・もちろん、矢嶋監督の代名詞(勝手に思ってるやつ)はぐるぐるカメラワークとくっっそ可愛いピカチュウが最高でした。ごちそうさまでした。

・個人解釈入ったざっくりストーリーにルーツって言葉結構使ったように、ココはいつかのミュウツーのようにルーツに疑問を持ってた。私は誰だ…って。とうちゃんは「お前はザルードだ」って言うけど、とうちゃんとは違う。その時に小さい頃から一緒の多分1番トモダチ、ホシガリスに「何に見える?」って尋ねるシーンが結構冒頭にあってそれにホシガリスが(多分)「ココ」って答える。ココはそういうことではないとガックリするんですよね。でも、ニンゲンでポケモンである、人間の両親を持ち、とうちゃんはザルードであるというココはココであるし、たとえココが本当のザルードだったとしてもココはココだった、という本質的なものだな…って言うのがすごく印象に残ってる。

・セレビィ全然出てこない(みんなの物語でのルギアレベルで)でもなんかヤバい科学力メカとか命を助ける水とかセレビィ映画でした。色セレビィといえばポケダンだよなぁ!?(ポケダンヤクザ)って感じなのでちょうど良かったかもしれない。

・ザルードのむれもゼッドも誰かを何かを虐げていたというのは同じで、それを認めて悔やんだからこそザルードのジャングルにはセレビィがまたやってきて、認めなかったからこそゼッドは捕まる。

・感想見てて研究員が森林伐採は良いのに神木破壊はあかんの人間のエゴって感じって言うの見て、わかるー

・サトシの父親発言はすること知ってたんですが、今まで完全に居ないものと思ったので衝撃すごいな。朧気とかではなく完全に覚えてるんだ…。

・育てるってなんだ。よく言うのが育てるけど自分も一緒に育っていく。父なら父に母なら母になっていく。それがザルードもそうだったんだよなぁ…。

・vs超科学機械の時にピカチュウが未来へのバトンって言うの見てすごいその表現神って思いました。たしかにな…一般ザルードにきいろいの、って言われるピカ良かったです。

・ロケット団は影の功労者。ピカチュウゲットのチャンスはこれからもあるけど、ゼッドの部屋に入るのは今しかないとかお前らはおじゃる丸の小鬼トリオか?(元から) 割とコジロウ顔タイプなんですけど、研究員コスすごく良かったよ。ロケット団も組織単位では結構なやばいやつ多いけど、そんなロケット団(良心よりだったとしても)もドン引きするくそ告白ビデオと、人間とポケモンだけの世界でのポケモンへの背徳のゼッドはCV山寺宏一だから見れる。そうじゃないと見れないよ……。ロケット団も2人と2匹で長年回してきていて、ポケモンと生活している人なんだよなぁ!

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最高傑作かどうかは主観の問題なので個人で決めていただきたいのですが、

少なくともすごく良作でした。面白かったです。

これはココの旅立ちの物語。

*

キミを生きろ


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