ポーランド旅行記④ 2日目 アウシュヴィッツ訪問
2日目は午後からアウシュヴィッツ博物館の訪問を予定していたので、バスの時間まで旧市街をぶらぶらしてカフェでランチしました。
その前にクラクフ中央駅の隣にあるバスターミナルで本日乗るバスチケットを予め購入しておきます。
買い間違えないよう事前に調べたポーランド語で紙に書いて受付の人に見せました。
その時のメモ
ついでに水も購入。ちゃんと表記を確認し、レジでも「ニェガゾワナ?」って聞きました。二段階構え。昨日の失敗が痛すぎた。炭酸なしの水は普通の味でホッとしました。
(どうやらキャップの色が薄いやつが炭酸なしらしいです。)
気温はシャツにジャケットで丁度いいくらい。日本はまだまだ蒸し風呂なので、突然の快適気温について行けない…。油断してると肌寒いです。
ランチは旧市街エリアで大人気だというカフェに入りました。噂通りこのカフェがすご〜く良かった!
店員さんに話しかけられたにも関わらず、移動の疲れで英語が出てこない…。ランチやってますか…みたいな小学生英語でボソボソ喋ってしまいましたが、店員さんは笑顔で案内してくれました。(優しい〜!)
レンガのドーム状になっている地下のソファー席に案内されました。何箇所かあるエリアによって雰囲気が少しずつ違うようです。
一瞬にして あ、こりゃ人気だわと悟る。
ァア〜〜映えちゃう〜〜
チキンブリトー、ホットチョコレート、トマトスープを頼みましたが、日本のカフェご飯の量に慣れているせいで予想の2倍量にビビる。スープどんぶり入りやんけ。ホットチョコレートはスタバのベンティサイズを想像してくれ。
この量で日本円にして1500円ちょっとだったかと思います。
(完全に頼みすぎたので1000円もあれば満腹になります。)
味もとてもおいしい。
このレベルのカフェ日本にも欲しい。
滞在中唯一のにゃんこに2日目にして遭遇。
昨日広場にいた白塗りの天使とは違い、こっちが本物の天使です。
4日目の予定がフリーのため、バスターミナルに向かう前に、旧市街入ってすぐにあったツアー会社でヴィエリチカ岩塩坑のツアーを申し込んでみました。
アウシュヴィッツと並んでクラクフ観光の2大巨塔のようです。
料金は往復バスと英語のガイド、一週間分の無料ランチ(!?)付きで150ズロチ。ツアーチケットを見せると指定のレストランでランチが食べられると言われました。なんだそのサービス。
午後はいよいよアウシュヴィッツ訪問です。
日本人のガイドさんとは現地合流。
クラクフ↔終点アウシュヴィッツを1時間ちょいで繋ぐ「ライコニック(Lajkonic)」バスが便利です。本数も1日に何本もあります。料金は15ズロチ。
1時間半ほどバスに揺られ、アウシュヴィッツ博物館前のバスの停留所でガイドさんと、午前からガイドさんと他所を観光していた他の日本人の方と合流。
アウシュヴィッツ↔ビルケナウを繋ぐシャトルバスに乗り換え、ビルケナウから見学を開始します。
(すいません、この間写真ありませんでした…。旅行記書く予定じゃなかったから許して…。)
ビルケナウって何?
アウシュヴィッツは当時の収容所をほぼそのまま博物館として残した施設ですが、実は
「アウシュヴィッツⅠ(アウシュヴィッツ)」と
「アウシュヴィッツⅡ(ビルケナウ)」
とがあります。
第1収容所、第2収容所の2つの強制収容所跡地を合わせて
「アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館」
となります。ご存知の通り世界遺産に認定されています。
ビルケナウ(ポーランド語でブジェジンカ) はアウシュヴィッツⅠから約3キロ離れており、2施設の間は無料のシャトルバスが走っています。
(正確にはアウシュヴィッツⅠの東にある第3収容所、アウシュヴィッツⅢ「モノヴィッツ」も含めてのアウシュヴィッツエリアとされます。こちらは見学しません。)
3施設の位置関係
アウシュヴィッツⅠの見学には
①有料の施設公認ガイドを付ける
②無料での個人見学
のいずれかから選べますが、事前に公式サイトからの時間指定予約が必要です。
より長時間解説してくれるスタディーツアーもあります。
予約せずに行った場合、シーズンによっては観光客で混み合い、当日券が取れない場合があるそうです。ビルケナウの見学は予約不要、無料です。
日本語のガイドはあるの?
アウシュヴィッツには様々な言語の公認ガイドがおり、見学をサポートしてくれますが、実は日本語のガイドもあります。
アウシュヴィッツ唯一の公認日本人ガイド
中谷剛さん
難しいポーランド語での試験に合格し、唯一の外国人公認ガイドとして90年代よりアウシュヴィッツのガイドをやってらっしゃる方です。
今回中谷さんバカンス中でお会い出来ませんでした…残念……。
ビルケナウに着いたら、ひとまず入口入ってすぐのお手洗いへ。有料で2ズロチなので注意。
ビルケナウのトイレはここのみです。
入口入ってすぐにあるビルケナウの見取り図。右側の広い土地は建設途中で終戦となっています。
中央部分が男性収容者、左手は主に女性収容者用。
このような解説パネルが様々な場所に建てられています。
奥に向かって歩いて行きます。広大な土地という事が体感出来ます。写真では到底収まりません。
高圧電流の流れた有刺鉄線。
監視台。
振り返るとかの有名な門と線路が見えて来ました。
収容者をここまで運んだ貨車。一見して人間が乗る為の作りでは無い事が分かります。
終戦後ここに建てられたモニュメント。逆三角形はナチの強制収容所で収容者のシンボルとして使われました。
ソ連兵の侵入直前に証拠隠滅としてダイナマイトで爆破されたガス室の残骸。
ビルケナウのガス室は全て残骸となっています。
当時はこのように堀が巡らされており、収容者の逃走を極めて困難にしていました。
先程とは別のガス室の残骸。
崩壊を防ぐ為、内部に支えがあります。
収容者が入れられていたバラックの基礎部分と、燃料の支給が無かったことにより意味を為さなかった煙突部分。
地盤の緩い土地にろくな基礎工事もなくこれらのバラックは建てられている為、崩壊を防ぐ目的で支えが置かれている物も多いです。
女性収容者のバラック内部。場所によって陽当りの差が激しく、生存に関わった事が予想されます。
信じられない事ですが、壁には落書きがびっしり。
一部バラックにはこのような学校に向かう子供の絵がありました。一説によれば非現実的な絵を描かせ、掲げる事によって、あまりに過酷な環境から気分を逸らす為だそうです。
再びシャトルバスでアウシュヴィッツⅠに戻り、手荷物検査を受けて中に入ります。
ビルケナウでは手荷物の持ち込み制限はありませんが、アウシュヴィッツⅠの方では30センチ×20センチ×幅10センチ(A4サイズ)までという鞄のサイズ規定があります。
サイズを超過した手荷物は博物館外にある建物に4ズロチを払い預けなければ見学する事が出来ません。
(ただし鞄の持ち込み個数に制限は無いようです。)
丁度いいサイズの鞄が無かったため、自分はこの為に無印良品で小さめのショルダーバッグを買いました。
アウシュヴィッツⅠ、第一収容所の見取り図。
元はナチの軍用施設だったものを収容所に転用した為、一見ビルケナウのバラックより立派な建物群の様に見えますが、収容者の過酷さという意味では大同小異だったようです。
入場してすぐにかの有名な
「ARBEIT MACHT FREI(アルベルトマッチフライ、働けば自由になる)」があります。博物館開館当初は本物が置かれていましたが、一度盗難被害に遭い今置かれているものはレプリカ。
収容者は毎朝ここから過酷な強制労働に向かいました。
強制労働の一例。
労働者を鼓舞する為、収容者で構成された楽団も存在しました。比較的肉体的な苦しみが少ない役割であったため、収容者からも憎まれる存在であったそうです。ナチの人心掌握の秀逸さを物語るエピソード。
収容者が何処から運ばれて来たか示す図。北はノルウェーのオスロ、南はなんとギリシャのロドス島まで。
アウシュヴィッツにおける犠牲者の内訳。大部分をユダヤ人が占めますが、ポーランド人、ロマ(ジプシー)、ソ連兵捕虜なども多くがここで亡くなっています。
アウシュヴィッツ全体の犠牲者の正確な数は様々な説がありますが、博物館公式見解での最新説では110万人となっています。
犠牲者の遺灰が収められたモニュメント。
収容者の個人情報を記載した用紙。
このようなものを残す事により、ナチは正当な手続きに則って収容所を運営しているということを知らしめる意味もありました。
戦後まで残された写真の展示パネルも多くありました。
囚人番号管理表。
収容所の多くはゲットー(ユダヤ人居住区)を移動するという名目の元、アウシュヴィッツに連行されました。
移住の為の汽車の切符や、アウシュヴィッツという土地の権利書なども連行者に購入させ、不当に財産を奪うという徹底ぶりだったそうです。
アウシュヴィッツ後期の1944年に撮られた写真。子供が多く写っている事が収容所の狂気さを物語ります。服の胸にはユダヤのバッジが。
SS(ナチ親衛隊)による連行者の最初の選別。老人、女性、子供などはほとんどが到着次第速やかにガス室行きとなりました。
ゾンダーコマンド(収容者で構成された特別部隊)がガス室に隠れて決死の覚悟で撮った有名な写真。ガス室へ走らされる全裸の女性が写っています。
焼却炉が不足するとガス死体は野焼きにされました。
ガス室の仕組み模型。
SSによる選別のもと、不適な者は服を全て脱ぐよう強要され、続けて「シャワー室」と呼ばれる部屋に入ります。
ダミーのシャワーヘッドが取り付けてある部屋が人でいっぱいになると、屋根に設けられた穴から有毒ガスであるツィクロンBの缶が投げ込まれ、部屋は締め切られました。
ガス室(シャワー室)は焼却炉と連結しており、効率的な殺人を可能としていました。
焼却前の遺体から金歯など財産となり得るものを全て剥ぎ取り、遺骨を砕いて遺灰を近隣の湖などへ捨てるのはゾンダーコマンドの役目でした。同胞が同胞を処理するという構造により収容所は運営されていました。
模型はなかなか精巧な作りです。
チクロンBの使用済み缶とその発注書。
収容者が移住と信じ持参した大量の生活用品は全て略奪され、ナチの財産となりました。
真っ先にガス室行きとなった人達の義足。
大量の食器類。
「後に返却するから」と所有者の名前を書かされたトランクケースは返却される事はありませんでした。
騙して連れてきた収容者の不安や疑惑を紛らわせるため、ナチはしばしばこのような方法を取ったそうです。
犠牲となった子供の靴。
成人の靴。あらゆるサイズ、デザイン、季節の物があります。ナチの迫害の及んだ範囲を想起させます。
収容者の持参品にはニベアクリームの缶もあります。この場所で行われていた事がそう遠くない過去である事を物語ります。
このような戦後見つかった生活用品を収めた第5棟は重犯罪の証拠というテーマが与えられています。
ソ連兵の侵攻によるアウシュヴィッツ開放までにナチはあらゆる証拠を隠滅しようとしましたが、量が膨大だったため残される事となりました。
収容者の「囚人写真」はアウシュヴィッツ後期には撮られなくなりました。
囚人番号の入れ墨は主に左腕に彫られました。
実際の囚人服。とてもポーランドの冬を越せる装備ではありません。
戦後救助され、集中治療を受ける最中に撮られた収容者の写真。治療中にも関わらず、骨と皮の状態です。左端の赤ん坊は人体実験の犠牲となり、性別も分からぬまま亡くなりました。
収容者の1日の食事例の再現。とうてい生存に必要なカロリーはありません。SSの気まぐれにより、20%減となる事もありました。
銃殺が行われた「死の壁」。
点呼場前には見せしめの役割も果たした絞首用のポール。
第1収容所の奥には収容所所長ルドルフ・ヘスの家があり、家族と共に住んでいました。
収容所解放後、所長ヘスが絞首刑となった場所。
ヘスはアウシュヴィッツでの最後の死者です。
アウシュヴィッツに完全な形で現存するガス室。チクロンBを用いたガス室の有効性実験がここで行われました。
ガス室には死体を燃やす為の焼却炉が併設されています。
帰る前に博物館の入口付近にある併設の書店で公式ガイドブックを購入。1冊10ズロチ。
アウシュヴィッツの配置や各部の簡単な解説がコンパクトにまとまっており、とても良いガイドブックです。様々な言語版がありますが、日本語版は公認ガイド中谷さんの翻訳です。
ところで中国語版は無いのかガイドさんにお願いして聞いてもらったところ、
店員さん「中国語版は無いんです。」
店員さん「(中国人)いっぱい来るんだけど何故か無いんです…。」
そっか…(´・ω・`)
帰りは19時代の最終から2番目のバスでクラクフ駅まで戻りました。
駅に着いたのは夜の9時近くだったと思います。
帰りのバスで今回共に見学する事になった日本人の方とひたすら喋り、折角と言う事で旧市街の中央広場にあるイタリアンで共にパスタ食べて宿に帰りました(ポーランドで食べるイタリアン……)。味は至って普通だった…。
そして相変わらずの共用バスルームでシャワー浴びて寝ました。
続く
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