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「遠ざかる情景」#1 解説(前編)

自分の詠んだ歌をあえて解説してみる。ある作家は、自分の楽屋裏を晒すのは好きじゃないと言っていたが、私は敢えてやってみる。歌を詠み、推敲する作業は、疲れる反面、案外楽しく、見方を変えたり、詠み直してみるほどに、作品が深まっていく心地よさを味わえた。第一週は、悲しみや、孤独、残酷さなど、負のテーマが多いと自分では思う。厳しいことを言ってくださって構わないが、もしよろしければ、論評していただければ嬉しい。

もしかしら、推敲したものよりも、最初に詠んだ句の方が優れているかもしれない。そう言った意見も書き込んでいただければ嬉しい。


1.雨音が 硝子の向こうで 泣いている あの日、あの時を見ている私
あの時の私と似たり 雨音が 窓の向こうで さめざめと泣く
降る雨が 窓のガラスを さめざめと 打つその音は 悲しみに似たり
夕空と さめざめと泣く 雨寒し 窓の外見る 哀しき私 
さめざめと 硝子の向こうで泣いている 過去の私に似たる雨音
雨音が 窓の向こうでさめざめと 私と過去を遮る硝子

解説・窓の外では、ザァザァ降りの冷たい雨が降っていて、それを見てると、雨に濡れて帰る自分を想像してしまう。いくら傘を差しても、足元は濡れてしまうし、雨の日は肌寒い。
それは、傷ついた過去を思い出す気持ちと似ている。
いくらそれが、過ぎ去った過去であっても、傷つき、冷たくなった気持ちは消えることがない。もし、たとえ忘れようとも、それは、何かをきっかけに思い出され、心をさいなむ。いくら時間というガラスが遮っていようとも、記憶の中にそれが存在する限り思い出されるのだ。
ポイントとして、冷たさを連想させるために、それを音で再現してみたかった。ザァザァとか、さめざめとか、まるで肌にしみこむような心境にさせることで、読み手の心の体温を下げ、凍えさせることで、心の中にある、悲しみを表現することができる。
そして、次のポイントは、“ガラス“である。外では、冷たい雨が降っている。けれども、ガラスの窓がそれを遮り、見ている自分自身は、あくまで傍観者としてそれを見ている。
透明で、向こうのものが透けて見えるガラス、それは、傍観の象徴であり、どこかで起こっていることを、安全な場所で見ていると思えるし、それは、冷静な自分を象徴している。
また、ガラスという字をあえて、感じで表記することで、不思議な向き質感を表現してみたのだ。
推敲の過程の中では、句の順番を変えてみたり、同じの意味の言葉を別の言い方にしてみた。
最初は、思いつかなかったが、泣くと言う表現の中に、さめざめという音を入れることで、さらに寒さを増し、かつさめざめという表現のもつ、どこか取り乱した(?)感じを出した。
そんな姿を硝子の向こうから、現在の私が見ている。
それは、視覚というものが得た情報ですら、その人の心に何かした傷を与える、ましては、それが過去の自分だったら……。

2.109 白白粉の 少女たち 娼婦と呼ぶは 親心かな
109 白い白粉 塗る少女 娼婦と呼ぶは 親心かな
白粉が 白く輝く 少女たち それを娼婦と呼び親は泣く
白粉を 塗る白い手や 109 親は彼女を娼婦と呼びて
哀しきや 109へ行く 少女 白い手にマニキュアの赤が輝く
少女たち 化粧を塗りて 夜の街 親は娼婦を育てたかと泣く

解説・都会の闇を書こうと思った。109という数字が、少し違和感がある。半面、仮面のような白いメイク、赤いマニキュアなど、美しいと思いながらも、文明の暗部を見るような残酷な悲しみを感じさせるものを歌にしてみた。
ずばり、舞台は夜である。夜の渋谷のネオン街の照明が少女たちの白い顔に反射する。そこに移るのは、可愛らしい少女たちではなく、白く輝く妖艶な“女の姿”、そして、彼女たちはおそらく10代か、そこらである。無論、彼女を守るべき、親もいるのだ。
 よく言うのが、今どきのファッションにこだわる少女たちを評論家の人々は、娼婦とか、売春婦という。確かに、時々そう見える。そして、先ほど言ったように、彼女たちは親がいるのだ。
 おそらくは、寂しさを抱えた少女たちと、彼女たちを心配し、リビングで顔を突き合わせてなく親。無論、それも子供の成長の過程ともいえるのだが……。

3.赤という 怒り色をした 血肉 それを包みし 君の柔肌
君の肉も 怒りの色の 赤なりか 抱くその肌 甘く匂いて
匂いたる 柔肌包む 赤い肉 赤は怒りの色と言うけど
柔肌を 抱きて 甘く匂うなり それが包みたる 赤き血肉よ
血や肉は 怒りの色か その赤に 柔肌包みし 君の身体よ 

解説・血や肉の色である赤が、怒りの色であるというテーマで詠んだ歌。赤という闘争的なイメージや、血肉というグロテスク。そして、それを包む少女の、柔肌。人間の中に潜む獣性と、残酷さ、そして、それを包む、柔軟な肌。
推敲の中で、見えてきたのは、肌が匂うということ、乙女の柔肌から香る匂い、そして、それに包まれる赤い血肉。それを抱く男が抱く、人間の姿。柔らかさと、血肉の赤を併せ持つ人間の姿。そこにスポットを当てることができた。
私から見れば、恋愛とか、セックスというもの自体が、我々現代人にとっての、満たされぬ孤独感の代替的な行為に思われる。そうみれば、我々は、孤独というものに飢えた獣の一面があると言っていい。肉食の動物は、ほかの動物を襲い食べるが、その時に迸る血や、剥き出しになった肉は、やはりグロテスクである。案外、我々は人間は、それをセックスという行為で、孤独を満たすことと同じように考えるのではと思う。それ故、赤い血肉である

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