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読書ノート 「チェルノブイリの祈り 未来の物語」 スベトラーナ・アレクシエービッチ 

 物凄い。
 東海村の放射能漏れ事故のドキュメンタリーや石牟礼道子の『苦海浄土』を読んだ時と同じかそれ以上の衝撃がある。これは腹に効く。腑に落ちる、というのが納得するという意味なら、腑に落ちた上で、さらに覆いかぶさる薄雲、暗雲。


 冒頭の、消防夫の妻リュドミーラが語るモノローグに圧倒される。

 「ご主人は人間じゃないの、原子炉なのよ。一緒に死んじゃうわよ」「じゃあ、あなたはどうなってほしいの?ご主人は1600レントゲンも浴びているのよ。致死量が400レントゲンだっていうのに。あなたは原子炉のそばにすわっているのよ」と言われても、そこにいるのは愛した人なのだ。


 亡くなった夫に礼装用制服を着せる時の描写も重たい。

「靴は履いていなかった。足が腫れすぎて合う靴がなかったのです。制服も切られていた。完全な身体はもうありませんでしたから、普通に着せることができなかったのです。からだじゅう傷だらけ。病院での最後のの二日間は、私が彼の手を持ち上げると骨がぐらぐら、ぶらぶらと揺れていた。骨とからだがはなれたんです。肺や肝臓のかけらがくちからでてきた。夫は、自分の内臓で窒息しそうになっていた。私は手に包帯をぐるぐる巻き付け、彼の口につっこんで全部かきだす。ああ、とてもことばではいえません」


 最後の言葉も、私を貫く。

「私達が体験したことや、死については、人々は耳を傾けるのを嫌がる。恐ろしいことについては。でも…、私があなたにお話したのは愛について、私がどんなに愛していたか、お話したんです」


 解説の広河隆一の言葉は、頑然全くその通り。「愛の力だけではこのような言葉は生まれない。リュドミーラの姿勢は、人間に力を与える。ある意味では聖書よりも仏典よりも深い勇気を人間に与える。そのような奇跡のような仕事を、リュドミーラとアレクシェービッチの二人は、語る人とそれを書き留める人という関係でなしえたのだ」

 「言葉とは、こうしたことを成し遂げるために存在しているのか」と驚嘆する広河は正しい。言葉にはこうした力が宿るのだ。最下限の絶望から眺める時、この世のものとは思えないほどの無限の勇気が生まれ、与えられる。


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