読書ノート 人類補完機構シリーズ コードウィエナー・スミス
サイエンスフィクションの醍醐味は、作者の作る世界が、どれだけ魅力的か、考え尽くされたものか、そしてそれがいかに驚異的なものか、だろう。魅力にはセンスがいるし、精緻さには継続的な集中力と努力がいる。驚異的な世界を作るには、類まれな想像力が必要であろう。
コードウェイナー・スミスは、これまでのSF作家の中でも、その想像力の遠大さ、深遠さにおいてはトップクラスであり、そのユニークさは他に類を見ない。これが1950年代に書き出されていることにも驚く。その後のスペースオペラ、未来史SFの手本になりながら、いまだにその手本を超える作品が出てきていない。
よく知られた話だが、新世紀エヴァンゲリオンの「人類補完計画」はここから来ている。「instrumentality of mankind」は、人類のための手段・道具という意味で、宗教的な聖職者の匂いがする。神と人類の仲介者が人類補完機構というわけである。
スミスが中学生の頃に書いた「第81Q戦争」を横に置いて、1950年の「スキャナーに生きがいがない」を始まりとすると、長編「ノーストリリア」(書かれたのは1960年)まで、約15年間書き続けられていた作品群であることがわかる(スミスは1966年に亡くなっている)。その後、妻であるジュヌヴィーヴ・ラインバーガーが遺稿を完成させ、いくつかの作品が追加されている。約三〇編の壮大な未来史だ。短編集の巻頭に書かれた「人類補完機構年表」によると、最終的には人類と動物たち下級市民との宗教的クライマックスが描かれる予定であったとされている。私達はそれがどのようなものか想像することはできるが、その本編にめぐり合うことはできない。
私は、はじめに「ノーストリリア」を読んだ。なぜこれを買ったかはもう思い出せない。人類補完機構に興味を持ったのか、表紙の荒涼とした大地に羊(自分の干支)が佇むイラストに親密さを感じたのか。今となってはわからない。
見過ごされがちだが、スミスの文体は、まずもって格好いいのだ。
「おはなしはそれだけだ、さあこれでもう読まなくていい。ただし細かいところは別。それはこの本の中に書いてある…」という言い方も、シンプルでいい。乾いた中にも優しいユーモアがある。最初に書かれている「テーマとプロローグ」いわゆる前口上だが、この凝縮された密度感は、全作品を読んだものだけが味わえる喜びである。今までの短編作品のエピソードを盛り込んで、総集編としての物語が今から始まるという高揚感が伝わってくる。
話は、地球を買った少年の冒険物語だ。しかしそれだけではない。一番印象に残り、かつ魅了されたのが、ク・メルと主人公ロッドの場面である。地上最高の美人とされる猫娘ク・メルが情感たっぷりのセリフでロッドを慈しむ。まさにハリウッド映画のヒロインである。そして地球からノーストリリアに帰るロッドに、イ・テリケリが見せたク・メルとの一千年のふれあいの記憶、その美しいこと!これに心奪われた。ヒロイックファンタジーはあまり趣味ではないのだが、このようなキャラクターを自分でも創造してみたいという欲求が生まれたのは、ク・メルのせいである。
日本では、スミスのこれらの著作は全て早川書房のSF文庫から出版されている。最初に出された三つの書籍「鼠と竜のゲーム」「シェイヨルという名の星」「第81Q戦争」は、今では絶版となり、入手困難で、私も「シェイヨルという名の星」はアマゾンの古本でやっと入手した。その後完全版の三冊「スキャナーに生きがいはない」「アルファ・ラルファ大通り」「三惑星の探求」が2018年頃出版された。前三部作とほぼ重複しているが、何度でも読み返すことができる。今は新版となった「ノーストリリア」を買うかどうか迷っている。きっとそのうち買うのだろう(買いました)。
作者であるコードウエイナー・スミスについて、やはり最低限のことは語らなくてはいけないだろう。本名ポール・マイロン・アンソニー・ラインバーガー博士(1913~1966)。アメリカ生まれの政治学者でジョンズ・ホプキンス大学教授。中国を中心とする極東アジアの専門家であり、軍人でもある。少年時代を中国で過ごし、かの孫文(!)につけられた中国名が林白楽(リン・バー・ロー)。蒋介石とは親友の間柄で、第二次世界大戦と戦後の米国の対日政策で重要な役割を果たし、ケネディ大統領の顧問も務めた。彼の記した「心理戦争」(みすず書房・絶版)は情報戦争黎明期における決定的に重要な本であった。その経歴の凄さは「スキャナーに生きがいはない」の序文でJ・J・ピアスが饒舌に語っているのでそちらをご覧ください。そうした経歴は、すべてスミスが亡くなってから明かされたものであった。経歴なんて、物語の良し悪しには関係ないよ、とスミスが言っているようである。
この文章は読書ノート(感想文)であるが、ある種自分のその書籍に対する覚書やデータ整理の場所としても考えている。ここで一気に、全作品を列挙する(ウイキペディア感謝)
「人類補完機構」シリーズ(長編)
『ノーストリリア』(1975)
「人類補完機構」シリーズ(短編)
『鼠と竜のゲーム』 (1975):短編集
「序文」ジョン・J. ピアス(編者)
「スキャナーに生きがいはない」(報いなき栄光1950)
「星の海に魂の帆をかけた少女」(1960)ジュヌヴィーヴ・ラインバーガー合作
「鼠と竜のゲーム」(1955)
「燃える脳」(1958)
「スズダル中佐の犯罪と栄光」(スズダル艦長の罪と栄光1964)
「黄金の船が…おお! おお! おお!」(1959):ジュヌヴィーヴ・ラインバーガーと合作
「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」(1961)
「アルファ・ラルファ大通り」(1961)
『シェイヨルという名の星』 (1975):短編集
「人類補完機構年表」
「コードウェイナー・スミスのこと」:ロジャー・ゼラズニイ (1968):原書にはなし
「クラウン・タウンの死婦人」(1964)
「老いた大地の底で」(1966)
「帰らぬク・メルのバラッド」(ク・メルのバラード1962)
「シェイヨルという名の星」(シェイヨルという星1961)
『第81Q戦争』 (1979):短編集
「人類補完機構年表」
「序文」:フレデリック・ポール
「第81Q戦争」(1928):Karloman Jungahr 名義
「マーク・エルフ」(1957)
「昼下がりの女王」(午後の女王、1978) :スミスの死後にジュヌヴィーヴ・ラインバーガーが遺稿を完成させる
「人びとが降った日」(1959)
「青をこころに、一、二と数えよ」(1963)
「大佐は無の極から帰った」(1979)
「ガスタブルの惑星より」(1962) :ジュヌヴィーヴ・ラインバーガーと合作
「酔いどれ船」(1963)
「夢幻世界へ」(1959)
「西欧科学はすばらしい」(1958) :人類補完機構以外の短編
「ナンシー」(1959) :人類補完機構以外の短編
「達磨大師の横笛」(1959) :人類補完機構以外の短編
「アンガーヘルム」(1959) :人類補完機構以外の短編
「親友たち」(1963) :人類補完機構以外の短編
「人類補完機構」シリーズ(短編集未収録)
「宝石の惑星」(1963) (SFマガジン1993年8月号収録)
「嵐の惑星」(1965) (日本語版なし)
「砂の惑星」(1965) (日本語版なし)
「三人、約束の星へ」(1965)(SFマガジン1998年1月号収録)
「アナクロンに独り」(1993)(日本語版なし、スミスの死後にジュヌヴィーヴ・ラインバーガーが遺稿を完成させる)
「人類補完機構全短編」
シリーズ外作品も含むコードウェイナー・スミス名義の全短編。
『スキャナーに生きがいはない──人類補完機構全短篇1』
編集者による序文(ジョン・J. ピアス)
夢幻世界へ
第81Q戦争(改稿版) 1993
マーク・エルフ
昼下がりの女王
スキャナーに生きがいはない
星の海に魂の帆をかけた女
人びとが降った日
青をこころに、一、二と数えよ
大佐は無の極から帰った
鼠と竜のゲーム
燃える脳
ガスタブルの惑星より
アナクロンに独り
スズダル中佐の犯罪と栄光
黄金の船が──おお! おお! おお!
『アルファ・ラルファ大通り──人類補完機構全短篇2』
クラウンタウンの死婦人
老いた大地の底で
酔いどれ船
ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち
アルファ・ラルファ大通り
帰らぬク・メルのバラッド
シェイヨルという名の星
『三惑星の探求──人類補完機構全短篇3』
宝石の惑星
嵐の惑星
砂の惑星
三人、約束の星へ
太陽なき海に沈む(ジュヌヴィーヴが単独執筆 1975)
第81Q戦争(オリジナル版)
西洋科学はすばらしい
ナンシー
達磨大師の横笛
アンガーヘルム
今からはじめてスミスを読み出す読者は幸運である。新しい全短編三冊は、ほぼ時系列に物語を配置しており、とてつもない未来世界を順を追って体験する事ができるからである。最初はその想像力に追いつけなく感じるかもしれないが、未来史における《人類の再発見》の時代(西暦16000年代)で繰り広げられる活劇までたどり着くことができれば、臨界点。もう他の陳腐なSF世界では満足できなくなってしまうであろう。自分の中の基準を作るときは、できれば上質のものを基準に据えるべきだ。ソムリエが自分の舌の基準をボルドーのシャトーものにするように。基準があまり低すぎては、その後味の評価ができなくなってしまう。
ひとによっては、新奇な名称や概念に説明が殆どないスミスの文章はわかりにくく、評価しないという意見もある。スミスは物語世界を描きだすことに忙しく、読者より自らの創造世界のほうを見ている。スミスは読者のことをあまり考えてない。しかしSFはもともと、想像力を持ち得る読者を想定としており(作り話を作り話として楽しむ力)、作者が絞り出した想像力の果てについて来れるかどうかを読者に強いるものであろう。馬鹿で無知で自堕落な読者を、聡明で教養があり、評価眼をもつ識者に変えていくには、これぐらいの突き放し方が良いのではないか。本は読者を教育するのである。
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