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読書ノート 「マルクスの現在」 柄谷行人・浅田彰・市田良彦・小倉利丸・崎山政毅

 1998年に京都大学経済学部新入生歓迎講演会として行われた対談と、同じく京都大学でSPOONERISM主催で行われた講演と、柄谷行人『トランスクリティーク』出版前の草稿として書かれた原稿「トランスクリティーク結論(草稿)」を附して一冊の本にしている。編者は当時の京都大学生。どういった主旨があったのかは、「はじめに」に書かれている通りだろう。「マルクスを読むための良き入門書」がない状況は、現在2024年時では少し変化したようだ。アメリカのZ世代、日本のSDGs関連書物、斎藤幸平の『新人世の資本論』など、旧来のイデオロギーから離れてのマルクスの思想に接触できる機会は格段に増えているように思う。そんななか、この25年前に編纂された著作から何が見えてくるのかを確かめたく、読む。

 


  • スターリンの負の遺産がソ連解体によって歴史の舞台から退場していったいまこそ、マルクスとマルクス主義をまともに考え直す好機だろうということです(浅田彰)。

  • 世界資本主義の矛盾が顕在化する今、「やはり資本主義を最も鋭く分析したのはマルクスだったという当たり前の事実に突き当たる」(浅田)



浅田彰による「マルクスとマルクス主義の入門的な基礎知識」


  • マルクスは1818年に生まれ1883年に死ぬ

  • 1818年生まれということはフランス革命からおよそ30年、二月革命・三月革命までおよそ30年という歴史の激動のど真ん中に生まれた。

  • はじめに哲学を学び、その後に政治、そして経済学を学ぶ。ドイツ哲学⇒フランスの社会主義⇒イギリスの経済学、といった紋切り型で説明されることが多い。

  • ドイツ哲学・ドイツ観念論、カント、ヘーゲルと圧倒的な展開を見せていた。

  • ヘーゲル:主観的精神から絶対的精神へと至る過程のなかで、客観的精神というのがあって、ある意味実在的なシステム(家族・市民社会・国家)へと姿を変えつつ、最終的に絶対精神に回帰していくという図式になっている。

  • ヘーゲルの場合、たとえばものを作る場合、形のないアイディアを、観念の反対物である物質のなかで、その抵抗と戦いながら実現していかなければならず、そこで出来たものは、最初のアイディアとは違っているかもしれないけれど、だからこそ、ある客観的な価値を持つに至るということになる。否定を通じた肯定、矛盾を通じた発展という弁証法的な考え方。

  • だから、単に観念を弄んでいたわけではなく、社会的な実在まですべて含んで論じていた。

  • ヘーゲル左派は、ヘーゲルのこうした図式をさらにラディカル化しようとした。「絶対精神によって総括されて終わる」という予定調和を転倒する。

  • フォイエルバッハ:『キリスト教の本質』一人の人間は無力だが、類としてはかぎりない潜在力を人間はもっている。そういう「類的本質」を、外部にある神に「阻害し投影し」、逆に神を崇拝するようになっている。その阻害を克服して、神に投影されている類的本質を自分たちのなかに取り戻す事が重要である。

  • こういう疎外論──自分の中にあるものが、外に阻害されているから、それをもう一度取り戻す──は、宗教のみならず、他のものにもあてはまる。たとえばヘスは、貨幣についてそういう事を言っている。

  • マルクスもこうした発想を持っていて、1844年の『経済学・哲学草稿』では、私的所有と商品経済のもとでは、労働者の力能は商品のなかに疎外=譲渡されたままで止まっている、この疎外を乗り越えなければならない、というような議論を展開している。

  • 『経済学・哲学草稿』は1932年に完成し刊行される。それについてマルクーゼが初期マルクス研究を書いたりする。マルクスの疎外論は今世紀の西欧マルクス主義のなかで復活する。それに対して。1960年代に、アルチュセールや廣松渉が、マルクスを疎外論において読むことは、マルクスをヘーゲル左派に引き戻してしまうことだ、むしろマルクスの固有の地平はそういう疎外論からの「切断」によって開かれたものだ、ということを強調するようになる。

  • 『フォイエルバッハに関するテーゼ』『ドイツ・イデオロギー』(エンゲルスとの共著)『経済学批判要綱』『資本論』

  • シュティルナーは『唯一者とその所有』において、フォイエルバッハのいう「類」に回収されない「唯一者」(単独者)としての「私」を強調した。国家にも、プロレタリアートにも回収されない「私」。

  • マルクスの課題は、このフォイエルバッハの実念論とシュティルナーの唯名論を共に乗り越えることだった。

  • 「人間的本質は…その現実性においては社会的諸関係の総体(アンサンブル)」(マルクス『フォイエルバッハに関するテーゼ』)

  • 『ドイツ・イデオロギー』で、この社会的諸関係というのを、経済的な生産関係やそれに規定された階級関係として、具体的に分析し始める。意識は存在に規定され、その存在は経済的な生産関係から決まってくる。資本制生産様式のなかでは、そこからブルジョアジーとプロレタリアートの階級対立があらわれてくる。だから、永遠不変な「類」としての人間でもなく、その都度アトムとして浮遊する「個」でもなく、現実的な生産関係から決まってくるブルジョアジーとプロレタリアートを考えるべき。

  • この段階で、抽象的な「類」としての「人間」を主体とするフォイエルバッハ的な疎外論の構図は、イデオロギー的なものとして乗り越えられてしまうことになる。世界を解釈することではなく、世界を変革することだとマルクスは言う。

  • 唯物史観では、イデオロギー的レベルは、法的政治的レベルとともに、「相対的自律性」を持っていると同時に、最終審級においては経済的なもの─生産力と生産関係という土台(下部構造)によって支えられ、決定されている、と考える。「相対性自律性」というのは実は大事で、それを無視すると、経済的な土台から自然に上まで決まっていくという経済決定論になってしまう。

  • 土台と上部構造というのは単純なメタファーである。とにかく土台がなければ上部構造も持たないわけで、いかなる意識形態も経済的な土台によって規定されている、ただ、土台の形が上部構造の形まで決めるわけではないので、上部構造の形はそれぞれ「相対的自律性」をもって決まる、しかし、最終審級においては土台である経済が上部構造を重層的に決定している。

  • ついでに言うと、存在が意識を規定するというのは、すでに自己言及的な命題である。

  • 1845年にドイツのイデオロギーを批判したマルクスは、1848年に『共産党宣言』をエンゲルスとともに書く。この『宣言』直後にフランスで二月革命、ドイツで三月革命が起こる。フランス革命から半世紀あまりしか立っていない時代で、へーガルやマルクスはその次代精神と競い合うように自らの哲学を書いていった。マルクスも1848年段階では、資本主義を超える社会主義・共産主義革命がいまにも起こるはずだと思ってその思考を進めていたはず。

  • しかし、幸か不幸かそれはうまく行かなかった。ドイツでは革命は失敗、フランスでは共和制が成立したものの、普通選挙がかえって仇になり、それを巧妙に利用したルイ・ボナパルトが大統領となり、クーデターで皇帝になってしまう。ナポレオンの甥であること以外に何の取り柄もない男によってまんまと革命の成果を簒奪されてしまう。『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』でマルクスは、ボナパルティズム(ある意味ファシズムの元型)を見出す分析をしている。ブルジョアジーとプロレタリアートの対決は、政治過程のなかでのズレの累積によってまったく意外な結果に到達してしまったということになる。

  • 1848年の革命は、共同性の回復を目指し、疎外論も含めたロマン主義的な社会主義の頂点であった。しかし革命の敗北によって、マルクスは方向転換を余儀なくされる。革命はすぐに起こりそうにもない、では腰を落ち着けて、現実の土台をなす経済の問題を地道に研究していかなければならない、と考える。マルクスは1850年以降、イギリスで延々と経済学の勉強をすることになる。

  • この頃の経済学の流れを概観すると以下のようである。

  • 重商主義(絶対王政のもと貿易で儲けよう)⇒重農主義。交換から生産へ。⇒古典派経済学(生産過程における労働が価値を生み出していくという労働価値説に基づく)=スミスやリカード。リカード左派(搾取された労働果実を労働者に取り戻せ)、ベイリーの価値と交換における想定的な関係性への解消。

  • マルクスはこれらを見据えながら、これらを超えるような経済学を、経済学批判という形で書こうとした。ドイツ哲学批判をやったように、イギリス経済学批判をする。

  • 1867年『資本論』第一巻。そのなかの「価値形態論」では、労働が商品価値の実体であるとしても、それは社会的に必要な労働として認められなければならないし、それが認められるためには商品が交換されなければいけない。労働価値説に立ち、労働力の資本化による剰余労働の搾取に資本主義の本質を見ながら、交換の重要性を考えに入れた複雑な理論構成になっている。

  • 『資本論』は未完。第二巻、第三巻はエンゲルスが編集した。後に宇野弘蔵が見事に体系化し、宇野経済学を作る。

  • マルクスは社会主義運動にも密接に関わっていて、1864年には社会主義インターナショナル(第一次インター)を設立。マルクスは、共産主義とは、つくりだされるべき理想的状態ではなく、現在の矛盾を乗り越えていく現実的運動である、と言っている。いい意味でも悪い意味でも臨機応変で、現実の運動がどうなっているかを見極めながら介入していく。

  • 資本家による労働者の搾取を廃棄し、その基礎である私的所有とそこから来る経済の無政府性を克服して、ある種の社会性を意識的に組織していくと言う原理はある。しかしそれに基づいて具体的な「あるべき社会」を設計することは、できるかぎり謹んでいる。いずれにせよ、革命はそう急には成し遂げられそうにもない。『資本論』の体系自体、どうやら完成しそうにもない。それでもマルクスはこつこつと仕事を続け、1883年にこの世を去ることになる。

  • その後、エンゲルス、カウツキー、ベルンシュタインらが第二次インターナショナルを舞台に活躍する。エンゲルスは自然弁証法を称して、ダーウィンの進化論に対応する形の社会思想としてマルクス主義を位置づけようとした。社会ダーウィニズムは弱肉強食の右翼的な思想だが、左翼の側からも言われていた。いずれにせよ、いかにも19世紀的な進歩主義。

  • ドイツではビスマルクが社会主義を弾圧し、一方で社会保障を充実させるという飴と鞭の政策を取った。それを受けて、ベルンシュタインはマルクス主義を事実上捨ててしまい、議会活動において漸進的な改革を進めていけばいいのではないかという修正主義の路線を取る。これが現在に至る社会民主主義の始まりとされている。

  • レーニンは、そのような経済進歩主義を徹底的に批判した。レーニンは、前衛党がプロレタリアートを引っ張っていわば一点突破で革命をやらなければいけないとする。

  • ヒルファーディング『金融資本論』組織された資本主義

  • ローザ・ルクセンブルグ『資本蓄積論』資本主義は拡大再生産のために非資本主義圏を必要としている。故に外部への植民地分割戦争に突入していく

  • レーニン『帝国主義論』「帝国主義戦争を内乱へ」スローガン

  • 第二インターは崩壊

  • カウツキーの裏ビジョン⇒超帝国主義=独占資本が国境を超えたトラストによって世界を平和裏裏に支配する

  • マルクス自身は、資本主義がもっとも発達したところで、資本主義がはらむ矛盾ももっと大きくなって、社会主義革命が起こると思っていた。それが、幸か不幸か後進国のロシアで実際に革命が起こったことで、意外な展開になってしまう。1917年、ロシア革命。

  • 1919年、ドイツで革命。ローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトのスパルタクス団が共産党になって反乱を起こす。⇒敗北し虐殺される。

  • ハンガリーでジェルジ・ルカーチが政権を取るが、敗北し亡命。

  • 1919年、第三インター(コミンテルン)。

  • 1924年、レーニン死去。スターリンによるトロツキー追放。スターリンがレーニンの後継者となり、独裁へ。プロレタリアート独裁というのが、実際は共産党独裁になり、さらにスターリン独裁になる。これは文字通りの個人崇拝。

  • 私的所有に基づく経済の無政府性を克服すると称して、国有化と官僚的計画経済という硬直した非効率なシステムが一元的に樹立される。国家を廃棄するための過渡的な形態だったはずの社会主義国家が、個人崇拝に基づく怪物的な独裁国家として固定化されてしまった。

  • アーレントは、スターリン独裁は単に全体主義であり、ヒトラー独裁とほとんど変わらないのではないかと言う。

  • 結果としてスターリン主義が社会主義を代表してしまい、それが社会主義への幻滅を招くことになってしまった。

  • ただ、レーニンの段階から色々と問題はあった。レーニンは第二インターの経済主義・進歩主義に対して、政治的なイニシアティブの重要性を強調した。ローザ・ルクセンブルグも同様であったが、ローザ・ルクセンブルグが大衆の自然発生性(ストライキ等)に重きをおいたのに対し、レーニンは上からの指導にこだわった。ロシア革命後、社会主義国家の建設にあたって、ドイツの戦時国家独占資本主義をひとつのモデルとし、それをソヴィエト化すれはいいと考えていた節がある。そこには、プロレタリア独裁が党=国家の独裁に転化してしまう萌芽がすでにあったと言える。

  • 哲学の側から見ても、過度に客観主義的な傾向が見られる。エンゲルスはおそらくマルクスの意に反して、哲学批判であったマルクス主義を哲学体系にしてしまう。原理論としての「弁証法的唯物論」、その上に「自然弁証法」があり、「史的唯物論」がある。そうやって唯物論を平板な形で体系化してしまった。

  • そもそも「弁証法的唯物論」というが、それは「ただもの論」に近い。ただ単にそこに物があり、意識はそれを反映する、その反映の精度が上がれば上がるほど認識は進化する、と。そうすると、これは実のところあまり弁証法的ではなくなって、むしろ機械的な進歩主義になっていく。しかしそれこそが「弁証法的唯物論」だと言われ、それを略した「ディアマート(DIAーMAT)」というのがソ連の公式の哲学になる。

  • それに対して、1919年にルカーチがハンガリー革命に敗れて亡命した後、1923年に『歴史と階級意識』という本を出す。これはもう一度まさしく弁証法的にやろうという本。物と人の物象化関係、その中でもプロレタリアートは最も極端に物化されているが、だからこそ、プロレタリアートが階級意識を持ち、革命を成し遂げることによって、主客の分裂を乗り越え、もう一度全体性を獲得できるというもの。これは直ちにソ連によって批判され、ルカーチも自己批判する。しかし後にメルロ=ポンティがいう「弁証法の冒険」─主体と客体の弁証法を歴史のなかで考えていくという流れをもう一度復活させたものとして重要。また、マルクスの草稿に則っってマルクーゼが疎外論を弁証法的に展開してみせた。これが西欧マルクス主義の出発点となる。

  • このようにソ連のマルクス主義がヘゲモニーをもっている状況で、逆に周縁化された西欧マルクス主義が理論的な可能性を示していた。しかし、ソ連のマルクス主義があまりにも客観主義的であったのに対して、西欧マルクス主義はあまりにも主観的─少なくともヘーゲル左派的にすぎたというべきだろう。

  • イタリアではグラムシが独自のビジョンを出していた。彼の社会主義のビジョンは左翼化したフォーディズムに基づくコーポラティズム。このビジョンはフランスのレギュラシオン学派などに受け継がれ、レーニン的な国家独占資本主義論を超えるヒントを提供することになる。

  • 中国では毛沢東が『矛盾論』を書く。そのなかにはその都度主要な矛盾と副次的な矛盾があるので、ヘーゲルのように単線的には乗り越えていけない。そうした論理がいい意味でプラグマティックに展開されている。そして毛沢東は、長い長い持久戦のあげく、1949年についに中華人民共和国を樹立するに至る。これは、いわゆる第三国の国々にとって新しい革命のモデルを提供するものであった。その後、文化大革命をはじめとする様々な問題も出てくるが、20世紀のマルクス主義の流れのなかの大きな分枝のひとつであることは事実。

  • このように、マルクス主義といっても、そこには多様なヴァリエーションがあった。しかしソ連のスターリン主義が圧倒的なヘゲモニーをもっていたのは事実。これが20世紀のマルクス主義を代表してしまったことが最大の不幸というべき。スターリンが死んでしばらくして、1956年にスターリン批判が始まり、そこからマルクス主義を新たに蘇らせようという動きも出てくる。しかし、同じ1956年にはソ連がハンガリーの民衆の暴動を武力で弾圧するという事件が起こる。スターリン批判を行ったフルシチョフが1964年に失脚した後は、もっぱら現状維持を目的とするかのようなブレジネフ体制が続く。やっと1985年になってゴルバジョフのペレストロイカが始まる。そういうわけで、1920年代なかば以降、スターリン主義とその後始末で今世紀を費やしてしまった。およそ30年間のスターリン主義の負の遺産があり、それを精算するのにまた30年かかって、ついに1989~91年の東欧民主化とソ連解体という帰結に至る。


 アルチュセール、廣松渉、アントニオ・ネグリについての考察も勉強になるし、日本のマルクス主義の取り入れの歴史について概観するところも、ノンポリ(死語)の私には興味深い。浅田の凝縮し、ブレない語り口がすごく重厚に思え、これって、講演で早口でやられたら、ほとんどの聴衆は理解できないのではないかと不安になる。案の定後の質問で、「チャート式にしてください」という質問者がいたが、その気持がよくわかります。柄谷行人の「おれはただの文芸評論家ではない」には笑いました。

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