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甘えながら吐きたがってたひとの反省文

すこしずつだし、なんとなくだし、もしかして全然見当違いかもしれないけれど、自分のことが分かってきた。自分の悪いところを、久々に見ようと思えた。

まず基本的に自己中心的。だらしない。具体的に言えば、つらいことがあったらすぐ自分の外側に原因を探してしまう。弱くて浅くて脆い。
なにかを吐き出すとき、自分の内側にいて声をかけてほしいという甘えがもうずっと潜在的に強くあって。そんなときに外側から「ここはこうだからきみにも非がある」と言われたらそのひとにすぐさま思ってしまう。

「そうじゃないのに」と。

「つらい」「嫌だった」
そう吐き出したとき、もうすでに模範解答の答えを待ってしまっている。
「つらかったんだね」「嫌だったね」
わたしのつらさ、嫌さを理解できなくても、認めてほしいと思ってしまう。その場の嘘でも、形式だけでも、わたしの内側に寄って言葉をかけてほしいって、無意識に甘えている。

わたしが理想とするような、受け答えをしてもらうだけの、甘やかされていていいだけの条件がわたしにはないのかもしれなかった。
そうなのに、言われないと気づけなかった。

「つらいよね」「嫌だったよね」そう言ってほしいのに、という甘えの原因、ここまできたらそこについては結構明確にわかる。

通信制の大学で受講していた心理学の授業でカウンセリングやヒアリングの仕方を、おおまかにさらっと習っていたときに、その授業の講師が語っていた。
「悩みをうちあけたひとの言葉は、否定しないでまずは反芻するように聞いてみることが大切」
この考え方が多分、もとよりのわたしに合っていて。だから基本的に悩みを聞いた立場の時にそうするようにしていて。もっと言うなら、それが「正解の反応」として認識してたし、それ以外の反応をしてはいけないものと見なしていた。

「つらい」「つらかったよね」
「嫌だった」「嫌だったね」
そういう会話が正しいって、思ってた。ずっと。

そうじゃないとそのひとのこころを否定するようになってしまうから。
まずは肯定するべきだ、そう思ってしまってた。
思ってしまったこと、感情そのもの、それを肯定してまずは吐き出せるだけ吐いてもらって。それがきっと、それだけがきっと、正解って。思い込んでたし思い込みたがってた。

そして気がつけばそれを、求めてしまっていたのだ。
わたしが吐いた時に、吐いてるその姿を、認めてもらいたい。そんなふうに。誰に対しても。わたしが「吐いてみよう」そう思った時に選んだ相手の人に、「吐いていいよ」と背中をさすることを。強要しかけていた。強要していた。

そりゃ気味悪いよなあ、とここまできてやっと反省している。
勝手に甘えて、勝手に吐いて、勝手に不機嫌になって。それは全然大人らしくない。

吐いたらその処理は自分でしないといけないのに、全部やってもらいたがってたなあ。それは当たり前に、拒絶されてしまうよ。

ひとつ気づけた。これを機にちゃんと大人になりたい。まだどうやるのが大人らしいか分かってないけど、模索したい。
わたしがちゃんと、わたしらしく正しくいるため。
わたしを愛してくれる人を、うんざりさせないため。

「つまり君は、そういうやつだったんだな」
なんて、
切って捨てられてからでは遅いのだから。

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